フルンボイル市(呼倫貝爾市,-し、慣用読み: ホロンバイル、Hūlúnbèi'ĕr、モンゴル語: Kölön Buyir qota)は中華人民共和国内モンゴル自治区北東部に位置する地級市。市名はモンゴル語で、地区に含まれる湖である呼倫湖(フルン・ノール)と貝爾湖(ボイル・ノール)に因む。東西 630 キロメートル、南北 700 キロメートル、総面積 253,000 平方キロメートルで、山東省、江蘇省の面積の総和より大きい。人口約 2,650,000 人。市域を南北に大興安嶺山脈が走り、嶺西地域と嶺東地域に分ける。嶺西地域はモンゴル平原に隣接する。南部は内モンゴル自治区の興安盟(ヒャンガン・アイマグ)、東部は嫩江を境界として黒竜江省と接し、北部および北西部はアルグン川を境界としてロシア連邦、西部および西南部はモンゴル国と接する。内陸性の気候のため、冬季は厳しい寒さとなる。2014年1月10日の冷え込みでは、市内の観測地点で摂氏氷点下46.1度を観測した。伝統的な部族集団としては清のソロン八旗に含まれたエヴェンキ、オロチョン、ホゥーチン・バルグ(陳バルグ)、ダグールと、バルグ八旗に編成されていたシネ・バルグ(新バルグ)がいた。このうちホゥーチン・バルグ、シネ・バルグは中華人民共和国の民族識別工作によりモンゴル族に編入されたが、同じモンゴル系でもダグールは単独でダグール族(ダウール族)とされた。中華民国期以降爆発的に進んだ漢族の流入により、現代では漢族が人口の大部分を占める。少数民族は総計 458,186 人で総人口の 17.3 パーセントを占めるが、それらの中には回族、満族、朝鮮族などが含まれている。フルンボイル地方は遊牧に好適な草原地域であり、匈奴、鮮卑、室韋、キルギス、契丹、タタルなど、古来様々な遊牧民が興亡した。また、東方の森林地帯からは女真をはじめとするツングース系の民族も入り込んでおり、現在のオロチョン、エヴェンキの先祖となった。モンゴル帝国のもとではチンギス・ハーンの末弟テムゲ・オッチギンがこの地方に遊牧し、モンゴル高原東部から遼東にかけて絶大な権勢を誇った。元の北走後も北元にとっての重要な拠点であったが、1388年にこの地でトグス・テムル・ハーンが殺害され、北元は崩壊した。17世紀にはバルグ(今日のブリヤート人に近いモンゴル系部族)、ダフール(モンゴル系民族)、エヴェンキ、オロチョンなどが住んでいたこの地方は清の支配下に置かれた。清は領土の北辺にあたるこの地方を支配するに当たり、八旗に準じて諸部族をソロン八旗(ソロンはエヴェンキの満州語名)に編入し、清朝皇帝の隷臣として扱った。18世紀には外モンゴルのハルハの隷属民であったバルグの別派がフルンボイルに移住されてバルグ八旗に編成され、黒竜江将軍の支配下に置かれた。清末においてもこの地方は北方の辺境であったために漢族の流入や定住農耕化が比較的遅れ、その後も長い間遊牧生活が保たれた。1912年にロシアとモンゴルのボグド・ハーン政権の援助で勝福や貴福らによって分離独立するも1915年に中国の特別区域となり、1919年には高度な自治権も解消された。満洲事変が起こると日本の勢力下に入り、満洲国に編入されて南のジェリム盟と合併、興安省が置かれた。さらに興安省が分割されるとフルンボイルのうち嶺東地区は「興安東省」、嶺西地区は「興安北省」が設置された。満州国崩壊後、興安北省省長だったエルヘムバトは侵攻してきたソ連とモンゴル人民共和国の連合軍に支援されてフルンボイル地方自治政府を分離独立させる。1948年に中国共産党のウランフの工作が実り、ホロンバイル盟が設置されて内モンゴル自治区に属すことになった。1953年にはハイラル、満州里、ウランホトが自治区直轄市に昇格した。1969年盟の大部分は黒竜江省に編入されたが、1979年内モンゴル自治区に復した。2001年10月10日、フルンボイル盟を廃止し、フルンボイル市が成立、首邑であるハイラル市はハイラル区となった。2市轄区・5県級市・4旗・3自治旗を管轄する。また、中華人民共和国民政部の行政区画データにおいて、黒竜江省大興安嶺地区ジャグダチ区・松嶺区は本市のオロチョン自治旗の一部であると見なされている。大興安嶺山脈では林業、草原地帯では牧畜が盛んで、畜産加工業も発達している。ハルビンから延びる旧東清鉄道がハイラル、満州里を通ってロシア領ザバイカリスクに入る。国境では中ロ互市貿易区が設置されている。
出典:wikipedia
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