株式会社石川銀行(いしかわぎんこう)は、かつて存在した第二地方銀行。通称はいしぎん(石銀)。マスコットはガンバル君(漫画家の吉田戦車が生みの親)。キャッチフレーズは「用もないのに石川銀行」。本店は石川県金沢市香林坊にあった。中世・近世から存在した資金融通を起源とする北陸無尽会社が1951年の相互銀行法施行で、加州相互銀行に転換、1989年から普通銀行となる。トップは創業者一族の高木洋から、長男・茂に引き継がれた典型的オーナー企業であった。2001年暮れに経営破綻した。破綻時の総資産は5513億円(預金5107億円、貸出金4161億円)、店舗数は65(石川55、富山4、福井2、新潟・大阪・愛知・東京各1)、従業員数は709人であった。また、東京証券取引所に上場する予定だった。香林坊に所在した本店は取り壊され、賃貸ビルディングが建設された。県内金融機関の総融資量に占める石川銀行のシェアは、破綻前でも5%程度。4割を誇る北國銀行、2割の北陸銀行に大きく水をあけられ、脆弱な経営基盤であった。しかし金融自由化の進展で、コール市場からの資金調達が容易となり、潤沢になった資金は、必然的に基盤が弱い地元ではなく、東京等の県外に貸出先が向かった。手堅い小口案件よりも、1件あたりの融資額を増やす方針を採り、頭取のトップ営業が拍車をかけた。特に1974年に開設した東京支店は大口貸出先を半ば一手に担当したが、抱えていた老舗レストランの不良債権売却を機に、福島交通グループと関係を深めて融資した500億円や、1991年1月に倒産したマンション開発・デベロッパーのパシフィックアトラス向けの融資50億円、都内の広告代理店ナショナルエンタープライズが所有していた千葉県木更津市真里谷(まりやつ)のゴルフ場カントリークラブ ザ・ファースト(現:アクアラインゴルフクラブ)向け融資金57億円などが、尽く不良債権化していった。2000年3月期決算の不良債権の公表総額は1363億円。2001年3月期決算の不良債権は1814億円に増加。さらに2001年の1月から3月にかけて行われた金融庁検査では指摘を受け、さらに半年間で不良債権は472億円増加した。当初の見込み以上に不良債権を追加指摘されると、減額と引当金で財務は圧迫される。ただでさえ、過去10年間の同行の自己資本比率は4~5%をさまよい、同時期の、北國銀行は11%強、北陸銀行は9%半と比べても、大きく見劣りしていた。この金融庁検査の結果、自己資本比率がマイナスに転落することが判明すると、生き残りをかけ石川銀行は増資策で補おうとした。 銀行の健全指標とされる自己資本比率4%、これが目標であった。2000年3月に引き続き、2001年3月そして4月の計3回、総額約371億円にも及ぶ巨額の第三者割当増資を実施した。 不可能とも思える1年余りで預金残高の5%を超える増資を達成できた理由は、顧客の預金を取崩してもらうか融資を絡めて話を進めたためであった(当然彼らは石川銀行側の「増資に応じれば融資に有利」「いつでも売却できる」との言葉を信じ、2001年12月に株券が紙くずになることを知る由もなかった)。そして同行の元取締役や元頭取の親族が役員を務める関係会社の石川リース、北国実業等4社が大量の増資株を引き受けていた。その額は総額72億円にも及んだ。さらに銀行関連会社が大株主の上位に名を連ねた。だがその実態は取引先の英会話教室グループNOVAの関連会社のギンガネットであった。その額も約59億円にも及んだ。ただしこれらの増資は、実際は融資した金額の一部が増資引受原資に回っていただけであり、「迂回融資」による「見掛増資」であった。一連の増資策は所詮焼け石に水であった。続く2001年10月下旬から始まった異例とも言える過去1年間に2回目の金融庁特別検査では、さらに不良債権を追加指摘され、結局451億円も上積みされた。この結果、2001年9月期決算では224億円の債務超過、自己資本比率は連結で▲6.37%が確定、2001年12月28日預金保険法第74条第5項の規定による申出がなされ、経営破綻した。
出典:wikipedia
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