溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、日本の映画監督。女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に影響を与えた。代表作に『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』など。1898年(明治31年)5月16日、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれる。3姉弟の2番目で、3歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる。父の善太郎は大工(屋根葺き職人、請負業とする説もある)で、日露戦争時に軍隊用雨合羽の製造をしていたが、戦争終結により事業は失敗。差押えを受けて、一家は浅草玉姫町に引っ越すことになった。1905年(明治38年)、私塾の田川学校に入学。一家の窮乏の口減らしのため、姉の寿々は養女に出される。寿々は養家から日本橋の芸者屋「三河屋」に奉公に出せられ、半玉となり、客の松平忠正子爵に落籍(後に正式に結婚し松平寿々となる)され一家の家計を助けた。1907年(明治40年)、同年開校の石浜小学校に入学。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。6年生の時、盛岡で薬剤師をしている親戚に預けられ、そこで小学校を卒業した。1912年(大正元年)、東京に戻ったが、リウマチに罹り1年間闘病していた。1913年(大正2年)満15歳の時、浴衣の図案屋に弟子入り。同じ図案屋仲間の弟子に大久保忠素がいた。その後浜町の模様絵師に弟子入りし、1916年(大正5年)、赤坂溜池の葵橋洋画研究所(黒田清輝主宰・和田三造塾頭)に入って、洋画の基礎を学んだ。この時、研究所近くのローヤル館でジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーがオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたので、溝口もそれを手伝ううちに浅草オペラに夢中になった。また、この頃から落語や講談などの江戸趣味に凝り始め、トルストイ、ゾラ、モーパッサンなどの外国文学や、尾崎紅葉、夏目漱石、泉鏡花、永井荷風らの本を読みあさっていた。1917年(大正6年)、姉の計らいで名古屋の陶器会社の図案部に入ることになるが、働く気にはなれず、入社翌日には東京に戻った。1918年(大正7年)、神戸又新日報社広告部の図案係に就職するが、僅か1年で退職した。1920年(大正9年)、友人の琵琶の弟子だった日活の俳優・富岡正と親しくなり、日活向島撮影所に出入りするうち、若山治の知遇を得、同撮影所に入社した。俳優志願で入社したが、小口忠の助監督に就くことになり、やがて田中栄三の助監督として、彼の代表作である『京屋襟店』などの作品を担当した。1923年(大正12年)2月、若山のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で24歳にして映画監督デビューを果たしたが、貧乏生活の描写が余りにも写実的過ぎたため検閲で大幅にカットされ、やむなくつなぎで琵琶劇を入れて公開したという。同年だけでも11本の監督作を発表しており、漁村を舞台としたメロドラマ『敗残の唄は悲し』や、ルパンを翻案した探偵劇『813』、表現主義風の『血と霊』など様々なジャンルの作品を作っている。同年9月1日、関東大震災が発生。その影響で京都の日活大将軍撮影所に移り、『峠の唄』『大地は微笑む 第一篇』などの佳作を手がけた。1925年(大正14年)5月、痴話喧嘩のもつれから、同棲中の一条百合子(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で切られるという事件が起きる。丁度『赤い夕日に照らされて』の撮影中の出来事であり、この事件で作品の監督を降ろされ、しばらく謹慎処分となる。しかし、9月には撮影所に復帰した。1926年(大正15年)、『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』などで下町情緒を描き、女性映画で独特の感覚を発揮していった。1927年(昭和2年)、ダンサーの嵯峨千枝子と結婚。1929年(昭和4年)には、左翼思想の高揚に乗じて『都会交響楽』などの傾向映画を作って、リアリズム追求に邁進し、翌1930年(昭和5年)製作の『唐人お吉』は大ヒットした。同年にはパートトーキーの『藤原義江のふるさと』を発表するが、技術的に拙く失敗作となった。1932年(昭和7年)、日活を辞めて新興キネマに入社。同社第1作は入江ぷろだくしょんと提携した『満蒙建国の黎明』で、満州で2カ月間ロケーション撮影を行った国策映画だが、興行的には大失敗した。1933年(昭和8年)、『日本橋』に続く泉鏡花作品の映画化となる『瀧の白糸』がキネマ旬報ベストテン第2位にランクインされ、興行的にも成功、溝口のサイレント期の傑作となった。1934年(昭和9年)の『神風連』を最後に新興キネマを退社して日活多摩川撮影所で『愛憎峠』を撮るが、日活多摩川での作品はこの1作のみとなった。同年9月、日活を退社した永田雅一が設立した第一映画社に参加。山田五十鈴主演・泉鏡花原作の『折鶴お千』などを経て1936年(昭和11年)、依田義賢とはじめてコンビを組んだ『浪華悲歌』そして、祇園を舞台に対称的な性格の芸者姉妹をリアリズムに徹して描いた『祇園の姉妹』を発表し、戦前の代表作となった。同年、永田の新興キネマ入りによって第一映画社は解散、溝口も首脳部や他のスタッフと共に新興キネマに入った。1937年(昭和12年)、日本映画監督協会の2代目理事長に就任し、1955年(昭和30年)まで務めた(1943年(昭和18年)に一旦解散し、1949年(昭和24年)に再結成されている)。新興キネマでは山路ふみ子主演の『愛怨峡』など3本を撮り、後松竹下加茂撮影所に移って村松梢風原作の『残菊物語』、田中絹代を初めて自作に迎えた『浪花女』、川口松太郎原作の『芸道一代男』といった芸道ものを製作。この3作は「芸道三部作」と呼ばれ、長回しのショットを基調とした演出スタイルをここで完成させていった。1941年(昭和16年)から真山青果原作の『元禄忠臣蔵』前後編を製作する。同作では厳密な時代考証を行ったり、松の廊下を原寸大に再現するなど完璧主義による映画製作が行われ、結果長い撮影期間と破格の費用をかけて完成された。作品は文部大臣特別賞を受けたものの興行的には大失敗するという苦汁を嘗め、これを機に溝口は長いスランプ期を経験することになる。1946年(昭和21年)、絹代出演の民主主義的映画『女性の勝利』で復帰したが、不調が続き、翌1947年(昭和22年)に作った『女優須磨子の恋』も競作になった『女優』(衣笠貞之助監督)に評価が集中し、大惨敗した。1948年(昭和23年)、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた『夜の女たち』で長きスランプから復調。その後に『雪夫人絵図』(舟橋聖一原作)、『お遊さま』(谷崎潤一郎原作)、『武蔵野夫人』(大岡昇平原作)などの文芸映画を作るが、これも低迷した。1952年(昭和27年)、井原西鶴の『好色一代女』を基に、溝口同様スランプ状態に遭っていた絹代主演で『西鶴一代女』を製作。当初国内ではキネマ旬報ベストテン第9位の評価だったが、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、国際賞を受賞。海外で一躍注目され、国内でも溝口の評価が変り、彼は長いスランプをようやく脱することが出来たのである。1953年(昭和28年)、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した自信作『雨月物語』が同映画祭でサン・マルコ銀獅子賞を獲得 (この年は金獅子賞の該当作がなく、本作が実質の最高位であった)。翌1954年(昭和29年)の『山椒大夫』でも同映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞。3年連続で同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。ほか『祇園囃子』『近松物語』等の秀作を生み出した。1955年(昭和30年)、大映の取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助と候補に挙がるが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任、重役監督となった。11月3日には紫綬褒章を受章。この年にカラー映画に取り組み、『楊貴妃』『新・平家物語』の歴史大作を製作した。1956年(昭和31年)、売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた『赤線地帯』製作後、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し、5月に京都府立病院の特別病棟1号室に入院した。病名は単球性白血病で、本人には病名を知らせなかった。また、白血病は当時の医学では手の施しようがなかったため、そのまま回復に向かうことなく、同年8月24日午前1時55分にこの世を去った。享年58。同年8月に青山斎場で大映による社葬が営まれ、池上本門寺に付属する大坊本行寺に墓が建てられた(隣には溝口の友人の花柳章太郎の墓がある)。京都の満願寺にも分骨されており、そこには記念碑も建てられている。没後、勲四等瑞宝章を受章。1957年(昭和32年)、未完成の『大阪物語』の製作を吉村公三郎監督が引き継いで完成させた。溝口の撮影技法の大きな特徴として、ワンシーン・ワンカットの長回しを多用することが挙げられる。これは、俳優の演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌ったためで、これによって流麗かつ緊張感あふれた演出を編み出し、高い評価を得ている。また、クローズアップを用いずロングショットを使ったことや、移動撮影やクレーン撮影を好んで用いていることなども特徴の一つである。妥協を許さない映画製作でも知られ、セット・小道具・衣裳・時代考証などすべてのものに完璧を求めたことから「ゴテ健」(「ゴテる」は「不平や不満を言うこと」を意味する当時の流行語のこと)と渾名された。セットは全て原寸で作らせ、『元禄忠臣蔵』では実物大の松の廊下のセットが作られている。時代考証では、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に抜擢したり、『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である京都大学人文科学研究所に協力を依頼したり、宮内庁雅楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用させたりしている。演技指導も厳しく、役者に演技をつけずやり直しを命じ、悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などをしなかった。また、演出の際、俳優たちに「反射していますか」と口癖のように言って回った。これは「相手役の演技を受けて、自分の演技を相手に“はね返す”」といったような意味合いであったといわれる。長回し主体の溝口演出においては重要な点であった。時には気に入らない演技をする役者に暴言を吐いたりもしている。菅井一郎は『わが恋は燃えぬ』の撮影中に、「君は脳梅毒です! 医者に診てもらいなさい!」と言い放たれ、スリッパで頭を殴られたという。水戸光子は『雨月物語』の際に「あんたは輪姦された経験がないんですか!」 と言われ、若尾文子には『祇園囃子』の際に、決して名前を呼ばず「おい、子供」、『赤線地帯』の際には「顔の造作が悪い」と罵倒。かつて入江ぷろだくしょんに雇われ、名匠と呼ばれるきっかけを作った恩人でもあった入江たか子も、『楊貴妃』で「化け猫ばかりやっているからそんな芸格のない芝居しか出来ないのだ」と満座の中で罵倒されている。ほか、『山椒大夫』の際に、子役に向かって「この子はどうしようもないバカだね!」と言い、すぐ近くにいた母親を落胆させている。『西鶴一代女』では助監督の内川清一郎と口論になり、彼を降板させている。そのとき内川に「女に斬られるようにならないと女は描けませんよ」と言い放ったという。出演者に強い負荷と緊張を強いる演出法であるが、「ちゃんと考えて、セットに入るときにその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだ、と監督さんはおっしゃるんです。それは当然ですよね」という香川京子のコメントなどの好意的な評価も見られる。前述の溝口の美しいカメラワークには、右腕であったカメラマン・宮川一夫の功績が大きく、『雨月物語』を始めとする溝口黄金期の作品の撮影を担当している。宮川を起用したきっかけは、映画会社から当時新人であった宮川を使うよう命じられたためで、溝口はひどく立腹するが、いざ仕事をしてみるとその才能を認めた溝口は宮川を右腕として信頼し、こと撮影に関しては彼の意見の多くを取り入れるほどだった。後に別の監督の作品が撮影が延びに延びたため宮川がその次に予定されていた溝口の作品に参加できなくなると、今度は「僕たちの仲を裂くんですか!」と会社に猛抗議するほどだった。脚本家では、『浪華悲歌』以降ほとんどの作品でシナリオを書いたのが依田義賢で、クランクイン後もリライト要求に備えて現場に待機するなど溝口に忠誠を尽くした。溝口が白血病にかかったと聞いた時には、自らもショックで寝込んでいる。成沢昌茂も溝口映画の常連脚本家であり、級友の川口松太郎とも何度も仕事を共にしている。溝口組には前述の宮川一夫を始め、美術の水谷浩、音楽の早坂文雄、録音の大谷巌、照明の岡本健一といった才能あふれるスタッフが参加していた。中でも水谷は日本では他のスタッフより知名度が低いが、反対にフランスでは水谷が一番有名。彼の手による溝口のデスマスクが、現在でも保管されている。戦前の溝口作品では坂根田鶴子が助監督を務めており、後に日本映画史上初の女性監督となった。俳優では田中絹代(後述)、中野英治、梅村蓉子、菅井一郎、進藤英太郎、浦辺粂子、田中春男、山田五十鈴らが常連出演した。溝口の内弟子には新藤兼人がいる。彼は『元禄忠臣蔵』で建設監督を務め、その後溝口に師事している。このときの苦労は新藤の初監督作品『愛妻物語』で描かれており、溝口のモデルの巨匠監督を滝沢修が演じている。溝口に崇拝の念を抱いている新藤は人格面でも一定の評価を下している。新藤は1975年(昭和50年)に溝口の生涯を取材した記録映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』を製作している。映画人との私的な交際はあまり見られなかったが、田中絹代とは公私にわたる親交を育んだ。『浪花女』で初めて田中を起用して以降、15本の作品に出演。『夜の女たち』では田中が初めて汚れ役を演じ、『西鶴一代女』では一世一代の名演を披露した。田中との親交を物語るエピソードとして、幼時から「美人ではないが(演技力がある)」という冠詞をもって語られることの多い田中に、『お遊さま』撮影に際し「あなたを最も美しく撮ります」と語ったという話がある。また溝口は小津安二郎や新藤兼人らに、田中への求婚の意志を漏らしたことがあった。田中とはその後、彼女が映画監督をやることになったことを記者から聞かされて「田中の頭では監督は出来ません」と答え、これがもとで関係が冷却したといわれている。ただしこのコメントには田中が自分の元から離れてしまうことへの嫉妬心があったともいわれる。その田中は溝口没後、「他人だからという言葉では割り切れないものが、やっぱりわたしにはございますね」と語っている。父の善太郎は、溝口が幼いときに事業に失敗し、そのせいで貧乏生活を強いられることになったが、父は決して悪い人間ではなかった。しかし、生活力がなく酒好きであまり働くのが好きではない人間だったという。そのため、監督作品などを通しても、溝口の父親に対しての憎しみが描かれており、父親というものを好意的に描いたものは一つもなく、死別するまで和解には至らなかった。これらの経験から作品の情けない男性像というものに反映される。監督作品の『浪華悲歌』の竹川誠一演じる主人公・アヤ子の父である準造は、溝口の父がモデルであるとされている。『西鶴一代女』で家並みのセットを作ったところ、溝口がやってきて「下手の家並みを一間前に出せ」といった。それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない。助監督はやむなく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを一間下げろ」。つまり結局は元に戻せということであり、助監督は激怒して帰宅してしまった。ただしこの無茶苦茶な指示は、演出に行き詰って苦悩していた溝口が時間稼ぎに行った苦肉の策だったともいわれる。暴君として俳優・スタッフから恐れられていた溝口だったが、『雨月物語』の撮影中には、会心の演技を見せた森雅之が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し、火を点けて労ったという話もある。これにはスタッフや森自身も大いに驚いたらしい。妻の千枝子は溝口に罵倒されたことが原因で精神に異常をきたし、『元禄忠臣蔵』の撮影途中でそのこと知った際は、人目も憚らず号泣したという。スタッフ一同も「監督があれでは今日の撮影は中止かもしれない」と覚悟していたが、しばらくすると溝口が先ほどまで泣いていたような雰囲気を見せず監督の顔になって「撮影を再開しましょう」とスタッフ達に呼びかけ、これには製作陣一同も驚いたという。このように、他人に厳しいばかりではなく、自分にも厳しい人物であった。妻はその後亡くなるまで精神病院に入院していた。また妻の発狂後、溝口は妻の弟・田島松雄(日映のカメラマンだったが、1943年にマライ半島で殉職)の未亡人と同棲している。『西鶴一代女』を製作した児井英生によると溝口監督はわがままで、権威のある人には弱く、目下のものには横暴というタイプであるため、役者からもスタッフからも嫌われていた。さらに映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたということもあったという。成瀬巳喜男の『浮雲』が話題になっていたとき、当時の助監督の熱心な勧めによって鑑賞したが、その助監督に「成瀬には金玉が付いとるのですか」と感想を語ったことがある。両者の作風や人間性の違いを物語るエピソードである。溝口は俳優の演技に興奮すると我を忘れて手をブルブル震わせる癖があり、その振動が横にあるカメラにまで伝わるほどだった。そこで高い場所など不安定な位置からの撮影時は、本番になると溝口と同じ体重分の鉄板をカメラの横に置いて、本人は別の場所に移動してもらっていた。本番もできるだけカメラと同じ位置で見ようと、梯子の上に座布団を乗せて馬乗り状態の溝口の写真が残っている。当初は宮川一夫からこれを指摘されても全然本気にしなかったが、ある日ラッシュ(未編集の下見用フィルム)で画面のブレを目の当たりにして、「こんなに震えているのかい?」と照れくさそうに笑いながら素直にその非を認めたという。溝口の作品はジャン=リュック・ゴダールをはじめ、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、ジャック・リヴェット、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ビクトル・エリセなどヌーヴェルヴァーグ世代のヨーロッパの映画作家に多大な影響を与えた。とりわけゴダールの溝口への傾倒ぶりは有名で、「好きな監督を3人挙げると?」との問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えるほどで、1966年(昭和41年)には溝口の墓参までしている。また彼が『映画史』で取り上げた日本人監督は小津安二郎、大島渚、勅使河原宏と溝口の4人であった。さらに、自身の監督作品『気狂いピエロ』で『山椒大夫』のラストシーンを再現している。BFIの『Sight&Sound』誌選出の「映画史上最高の作品ベストテン」(1952年(昭和27年)から10年おきに選出)では、『雨月物語』が1962年度(第4位)と1972年度(第10位)でランクインされており、同ランキングに作品が選ばれている日本人監督は溝口と小津、黒澤明の3人だけである。没後50年にあたる2006年(平成18年)には、DVDBOXのリリースや名画座などでの回顧特集が組まれ、改めて注目を浴びた。1953年(昭和28年)までの作品は著作権の保護期間が完全に終了した(公開後50年と監督死後38年の両方を満たす)と考えられている。このためいくつかの作品が現在格安版DVDで発売されている。
出典:wikipedia
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