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北区 (岡山市)

北区(きたく)は、岡山県岡山市にある行政区。同市の政令指定都市移行に伴い、2009年(平成21年)4月1日に設置された4つの行政区のうちの一つ。同市の市役所、および岡山県庁所在区。同市中心市街を含む北西部を占め、面積・人口・人口増加率とも4区のうちで最大である。また区域は備前国域を中心に、備中国・美作国の三国に渡っている。北区は市域の過半を占める面積を有し、政令指定都市の行政区としても静岡市葵区(1,073km²)、浜松市天竜区(944km²)、札幌市南区(657km²)に次いで4番目の大きさとなっている。また人口に於いても横浜市港北区(32.9万人)、横浜市青葉区(30.4万人)に次いで3番目の多さとなっている(2010年国勢調査時点)。区域の北部は旧御津郡御津町・建部町域などからなる。南部は、半田山や京山、吉備の中山等、緑豊かな里山が残されており、丘陵部では、マスカット・オブ・アレキサンドリアや清水白桃などの高級フルーツの栽培が盛んに行われている。一方で、区域の南東部に江戸時代に岡山藩庁の置かれた岡山城の城下町として発展した中心市街地がある。現在では高層ビルが建ち並び、山陽新幹線と山陰・四国から多数の列車が発着するJR岡山駅を擁し、岡山県庁、岡山市役所等の行政機関、岡山県下最大の商業地を有しており、岡山県の政治・経済の中心はもとより、中国・四国地方における拠点の一翼を担っている。 区域の北部は、吉備高原の隆起準平原面と、旭川などがそれを下刻し形成した谷底平野からなる。南部は旭川や笹ヶ瀬川、それらの支流等によって形成された岡山平野などからなる。現在、岡山平野の一部となっている区域南部の平地部の多くは、古くは海域であった。この海域は南部に島嶼の児島が存在し、吉備穴海と呼ばれ、九州から畿内を結ぶ重要な海洋航路となっていた。旭川は、現在の玉柏辺りで複数に分岐し、当区南東から中区に掛けての範囲に複数のデルタ地帯を構成した。また笹ヶ瀬川が吉備中山東部で吉備穴海へ流入。総社市井尻野辺りで分岐した高梁川東派川が、総社市中心部から当区の高松地域を経て、吉備中山西部で分岐し、その東派川が庭瀬あたりで吉備穴海へ流入したとされる。これらは長い年月を掛けて土砂を吉備穴海へ運び、また古代より上流部に盛んであったたたら製鉄によりさらに土砂が海域へ流入をし、次第に海域は遠浅となっていき、葦原や干潮時には干潟が広がる地域が増えていった。中世から明治時代にかけ、これらの地域は干拓による新田開発が徐々に進行し、江戸時代にはかなり活発に造成が行われ現在の岡山平野が構成されていった。当区域にあたる範囲の平野は、江戸時代前期には完成された。山間部においては、明治維新の前後に、過度な森林伐採が行われたため荒廃。上建部村では近隣の村々と共に「従来一木だに得なかった禿山」状態にあったという。また、笹ケ瀬川の中流域に存在した横井村、上流の野谷村、馬屋上村で90餘町歩(約90ha以上)の禿げ山が存在していた。禿げ山から降雨のたびに流出する土砂は河川を天井川化させ、1892年(明治25年)の水害では、横井村だけで浸水耕地166町歩(約166ha)、浸水家屋102戸を記録した。その後、禿げ山や荒廃した河川には、明治16年から昭和30年代にかけて断続的に現在の砂防事業、治山事業に相当する工事が実施され、現在の緑豊かな山域が形成されるに至っている。 北区の区域には弥生時代の住居跡と水田跡が全国で初めて同時に発見された津島遺跡などをはじめ全国的にも貴重な遺跡が存在している。古くから大和国や出雲国などと並ぶ勢力を持ったといわれる吉備国の一部であり、当区域内にも5世紀ごろに築造されたとみられ全国第4位の規模をもつ造山古墳や現在の中井町にある神宮寺山古墳、吉備中山にある中山茶臼山古墳などを始めとする大小の古墳が数多く存在する。当区西部の吉備中山から西部から総社市にかけての範囲は、吉備の中枢であったとされ、吉備津神社や葦守八幡神社などの古社が鎮座し、前述の造山古墳・茶臼山古墳もこの範囲内にある。また、このエリアに古くから伝わる吉備津彦命と温羅の伝承も現在に残る。この範囲は、現在は吉備路と称されて、観光エリアとなっている。旭川流域の山間地域は、旭川の水運を利用した高瀬舟の運行を用いて他地域との交易が行われていたとみられている。大化改新後、中央集権的地方支配体制形成のなかで、7世紀末に吉備国は、備前・備中・備後の三国に分割された。和銅6年4月3日、備前国の北部六郡を割いて美作国が立国された。国郡里制が敷かれ、各国は郡、その下部に郷が編成された。当区の中で、美作国域であったのは、北部の建部地域のうち旭川以東で福渡以北の範囲がにあたり、久米郡の一部であった。備中国域にあたるのは、西部の足守地域・高松地域・吉備地域で、足守地域と高松地域北半分(庄内・真金)および吉備地域東半分(旧庭瀬町域)が賀陽郡(賀陽郡)、高松地域南半分(加茂)と吉備地域の西半分(旧撫川町域)が都宇郡に属していた。残る区域、つまり北区の中心市街を含む過半以上は備前国域である。当区北東部にたる旭川以東(前述の建部地域のうち美作国域を除く)は、赤坂郡の西部にあたる。中南部をしめる御津地域の旭川以西と津高・一宮地域、ならびに野殿付近は津高郡、南東部にあたる岡山市街を含む残るエリアは、御野郡に相当する。当時の郡域としては、御野郡はほぼ全域が当区に含まれる。また当区域内で、延喜式神名帳に載る延喜式内社は、備前国津高郡では宗形神社、同御野郡では尾治針名真若比女神社・尾針神社・天神社・天計神社・国神社・伊勢神社・石門別神社・石門別神社(同名社が2社ある)。備中国賀夜郡には吉備津神社・鼓神社がある。古代末期から中世にかけては各地に荘園や保、国衙領が開かれ、当区域内にも多くの庄園があった。有力庄園を挙げれば、備前国御野郡の鹿田荘・大安寺荘・三野荘・三野新荘・大安寺荘・野田保・市久保・新堤保、同津高郡では長田荘(おさだ)・宇甘郷(うかい)・宇垣郷(うがき)・紙工保(しとり)・建部郷・津高郷、備中国都宇郡では撫川荘、備中国賀陽郡では足守庄・大井庄・庭妹郷、生石庄、板倉郷などがあった。特に備前の鹿田庄は現在の岡山中心市街にあたるとされ、備前国有数の勢力を持ち、大きな港を有して旭川上流と各地を結ぶ物資の集散地となって繁栄した。また、備前・備中・美作では長船に代表されるように刀剣が盛んに製造されたが、当区内では、津高郡宇甘(現御津宇甘付近)が刀剣の鍛刀地として繁栄し、宇甘派と呼ばれた。鎌倉時代には東国からの御家人が地頭職を得て移住・土着し、室町時代から戦国時代にかけて群雄割拠の様相を呈していたが、備前で浦上氏を下剋上した宇喜多直家が勢力を拡大。当初は備中で勢力をもっていた毛利氏傘下として動いていた宇喜多氏は、織田氏と羽柴秀吉の力を知り、織田氏の傘下に入った。こうして当地域西部は織田氏と備中を統べる毛利氏との衝突地点となり、備中国側の備前国境付近に三村氏が備中七城を構えた。1582年(天正10年)、水攻めで有名な備中高松城の戦いがおこった。1573年(天正元年)、宇喜多氏は現在の山陽放送がある付近にあたる石山の地に本拠を移し、城下を整備した。その後、直家の子・秀家は本丸を石山の横にある丘の「岡山」に移し、旧石山城を取り込む形で新たな城郭「岡山城」を築城。旭川の流れを大きく西へ移し、城の防衛を目的に城の東部を抱く様な流路にした。さらに城下町を拡大・整備し、福岡・片上・西大寺などの備前国内の有力商業地域から商人を移住させ、山陽街道をの道筋を変更し城下町を通過するように迂回させた。宇喜多秀家は、豊臣政権下で五大老の一人として有力な地位を築いていたが、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで敗北し、小早川秀秋が備前岡山に入封した。秀秋は約1年で跡継ぎなく病死し、代わって池田忠継が入封。以後江戸時代を通して岡山藩は池田氏が藩主を務め、岡山城は岡山藩31万石の藩庁となった。以来、岡山城下は政治、経済、文化の拠点となっていく。備前国域は、ほぼ全域が岡山藩領となった。同藩は藩直轄領地の他に、家老に藩の領地の一部を所領として与える形で統治されていた。現在、御津地域の金川村の日置氏、建部地域の建部町中田(建部新町)の建部池田氏がそれぞれ陣屋を設置し、領地(金川領、建部領)の支配拠点とした。領地は岡山と津山を結ぶ津山往来の街道が通っていたこともあり、陣屋町として栄えた。美作国域では、現在の建部町鶴田など久米南条郡の一部が鶴田藩領で、残るは津山藩領であった。鶴田藩は、当初は石見国浜田藩の飛び地であったが、独立して立藩し、鶴田の地に陣屋を構えた。美作国の福渡(ふくわたり)と備前国の建部上の間には津山往来における旭川の渡し舟の港があった。福渡は、旭川の水深が深い地点であったことから、「深渡(ふかわたし)」が地名の由来とされ、福渡に変化したとする説もある。福渡・建部上の渡船場は、岡山城下と津山城下のほぼ中間にあたり、「行こか岡山、戻ろか津山、ここが思案の深渡し」という詩も残されている。備中国は、天領の倉敷支配所や、備中松山藩など大小の各大名領、さらには旗本領や寺社領、また遠方の国に拠点を置く藩の飛地など、かなり複雑な領地体系であった。当区の備中国域には、足守に陣屋を構え木下氏が支配した足守藩、庭瀬に陣屋を構える庭瀬藩、その西隣の撫川に陣屋を構える庭瀬藩戸川氏の分家が支配した旗本領の撫川知行所、高松原古才村に陣屋を構えた蒔田氏の支配する旗本領の高松知行所などがあった。それらの領地に加え、倉敷、松山、ほかにも吉備津神社の寺社領など、当区においてもかなり複雑な支配体系となっていた。足守は陣屋町として栄え、現在も町並み保存地区としてその風情が残されている。庭瀬・撫川は鴨方往来沿線の郡境を挟んだ隣接町で、一体化した町並みを形成し、街道沿いということもあり、繁栄した。岡山城下を中心に当区内には街道が整備されていた。京都から西国を結ぶ西国街道(近世山陽道)を中心に、北方面には津山往来、岡山城下から北東へは倉敷往来、高松から北西方面には松山往来・足守往来、岡山城下から西方南よりを鴨方往来、庭瀬から南方へ金比羅往来などがあり、金比羅往来は岡山から船で児島郡八浜(現玉野市)へ渡ってから陸路で南下するルートもあった。1700年(元禄13年)には日本三名園として名高い後楽園が池田綱政により造営された。明治に入ると岡山の地に岡山県の県庁がおかれ、山陽鉄道が開通し、旧制岡山医科大学等の教育機関も設置され、広域拠点都市として発展を遂げた。明治33年、郡の統合が行われるが、当区域に関するものでは御野郡と津高郡が御津郡、赤坂郡と磐梨郡が赤磐郡、久米南条郡と久米北条郡が久米郡、都宇郡と窪屋郡が都窪郡、賀陽郡と下道郡が吉備郡へと統合された。1945年(昭和20年)6月29日には岡山市街がアメリカ軍による空襲を受け、1700人以上の市民が犠牲となるなど、甚大な被害を受けた。戦後は順調に発展し、1972年(昭和47年)には山陽新幹線が開業、1988年(昭和63年)には四国との連絡線である瀬戸大橋線が開業し、以来は交通の要衝としての機能も高めている。2005年(平成17年)3月22日に御津郡御津町・児島郡灘崎町、2007年(平成19年)1月22日には御津郡建部町・赤磐郡瀬戸町が岡山市に編入し、2009年(平成21年)4月1日に政令指定都市移行。当地、岡山市北区が発足した。区名は、公募により選ばれ、1位:北区、2位:旭区、3位:岡北区、4位:桃太郎区、5位:旭川区、6位:緑区であったが、旧地域名は採用しないという方針と、最も支持を集めた事により、「北区」が選ばれた。県外から来訪した人には、岡山駅、市役所や表町などの繁華街が「北区」と言うことで戸惑いもみられる。他の都市のように「北区」=「市街地よりも北方面」と言うイメージからか、「『岡山駅から岡山県総合グラウンドや岡山県立美術館、表町など北区内の場所・施設まで歩いて行けるのか?』という問い合わせが分区後に観光案内所へ増えた。」という話題が地元ニュース番組でも取り上げられた。区の中心部に全地上波の本社・岡山本社(本社・マスター・演奏所機能は高松市の本社にあるため事実上の支局)が置かれている。全チャンネルとも電波は基本的に南区・玉野市市境の金甲山にある金甲山送信所(岡山局)を受信する。山間部では各地区に設置されている中継局を受信する。ただし、山間部の中継局ではNHKと在岡2局(RSK・OHK)しか置局していない場所が多く、デジタル放送では在高2局(RNC・KSB)が置局された場所(建部南ではRNCのみ)もあるが、それでもTSCは全ての場所で置局しておらず、それら難視聴地域では当該チャンネルは視聴できない。そのため、それらの地区ではアンテナを立てずケーブルテレビに加入したり共同受信アンテナなどを経由して全チャンネルを視聴している世帯もある。平地部でもアナログ放送では山陰となる各地区に中継局が設置されているが、デジタル放送ではそれら地区でも岡山局を受信するようになる。※足守福谷、御津国ケ原のデジタル放送は2010年開局予定。FMラジオ放送については、御津・建部地域では、電波がほとんど届かず、車載ラジオチューナーでも電波が全く受信できない地域があるため、ケーブルテレビ局の配信を利用した方が良い。今地区にあるNTT西日本の岡山今村局付近の一部地域では、山陽放送ラジオに合わせると電池式の携帯ラジオでは良好に受信できるが、ループアンテナ付きCDラジカセ等で受信するとNHKの第2放送が混信して山陽放送ラジオが聞き取りにくくなる場所がある。詳しくは岡山市の町・字一覧を参照。

出典:wikipedia

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