シャレード("Charade" )は、かつてダイハツ工業が生産していた、前輪駆動のコンパクトカーである。ダイハツ・コンソルテの後継モデルとして1977年11月に発表される。前任のコンソルテは、実質的には1969年に登場したトヨタ・パブリカのOEM車であり、モデルチェンジされることもなく、陳腐化が目立っていた。当時欧州各国では、駆動方式をFFに改めた小型車が出揃い始めており、日本の各社でもそれに追従する流れが起こっていた。そのような中、初代シャレードは「5平米カー」というキャッチコピーで、従来の日本における大衆車とは異なる世界観を持って世に出ることとなった。フロントに横置き搭載された3気筒のCB型1.0Lエンジンと、やや背の高い2ボックスの車体の組み合わせは小ぶりながら優れたパッケージングで、広い室内空間と合理的な駆動レイアウトで、新たな小型車の方向性を打ち出した。当時類例のなかった4ストローク直列3気筒エンジンは自動車黎明期の20世紀初頭に若干の採用例はあったものの、その振動特性の不利な点から、振動を度外視できる農業用トラクター向けディーゼルエンジン等を除けば、一般に長く廃れていたタイプのエンジン形式である。ダイハツでは1.0L級のコンパクトなエンジンに適切な気筒配置を検討した結果、定石の直列4気筒より短く仕上がり、シリンダー1気筒当たりの容量もガソリンエンジンとして特に条件の良い300cc級となる、4ストローク3気筒が最適との結論に至った。直列3気筒独特の偶力振動抑制対策については、クランクシャフトと並行配置で駆動されるバランサーシャフトを付加することでクリアしている。長らく忘れられていた4ストローク直列3気筒はこのダイハツによる「再発見」でリバイバルした。横置きエンジンの前輪駆動車に搭載しやすいその特性から、1980年代以降は直列2気筒に取って代わる形で、日本の軽自動車を皮切りに、1.0L以下のクラスのベーシックカー用エンジンとして日欧で広く用いられるようになった。もっともその過程では、スズキでの採用以降、コストダウンと駆動損失低減の目的で振動増大を許容したバランサーシャフト省略が常道化し、後年にはダイハツも追随するようになる。図らずも起こった第二次オイルショックによる省エネブームも追い風となり、軽自動車と大差のない車両価格と、その価値以上の動力・燃費性能を伴っていたことからシャレードの先見性は市場にも支持される結果となった。このモデルはダイハツ始まって以来の大きな成功を収め、1978年カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。ボディタイプは5ドアハッチバックと3ドアクーペ(厳密には3ドアハッチバック)の二種類。1980年のマイナーチェンジでは、ヘッドランプが丸型2灯から角型2灯(いずれも規格型)に変更され、装備の充実や、エンジン出力の向上も図られた。1981年10月の第24回東京モーターショーでは、参考出品車として、3ドアクーペXTE(欧州仕様車・右ハンドル)を基とした、シャレード・デ・トマソ(シャレード・ターボ)が展示された。当時ダイハツとエンジン供給契約を結んだデ・トマソによりチューンされ、デ・トマソエンブレム付きオリジナルフロントグリル、ボンネット上のエアスクープ、空力的ドアミラー、リアビューはリアスポイラーに加えFRPとウレタン製の追加エアロで丸型ピラー窓が潰され、エンジンのカムカバーは赤の結晶塗装、内装は赤と黒をベースのサイド部分の本皮シート、4本スポーク革巻ステアリング、オリジナルシフトノブ、と、大きく印象を変えていた。当時メディア向けの試乗会も実施され、評判は上々であったにも拘らず、結局、周囲の期待に反し生産に移されることはなかった。1983年1月発売。初代の設計思想を発展させ、より全高を高め、室内空間の捻出が可能なパッケージングとなる。乗用車用量産エンジンとしてはその当時での世界最小排気量を実現したディーゼルエンジン(渦流式燃焼室、水冷、直列3気筒、SOHCの CL 型エンジン)を搭載したモデルや、「猫科のターボ」のキャッチフレーズで発売されたターボモデル、また、同じターボエンジンながら、イタリアのデ・トマソが監修したシャレード・デ・トマソ・ターボ、更には1.0Lクラス唯一のディーゼルターボも用意された。CL型ディーゼルエンジンは、在来からの3気筒ガソリンエンジンをベースに開発されたものであったが、偶力振動に加えて独特のディーゼルノックが避けられず、バランサーシャフトがあってもなお振動・騒音は大きかった。「凄いビートだぜ、Rock'n ディーゼル」なる当時のディーゼルモデルの広告コピーは、振動・騒音を逆手に取ったものであるが、その若者風なフレーズとは逆に、実車はトルクと経済性に富んだ実用型エンジンであった。ディーゼルターボモデルは出力面で自然吸気ガソリンエンジンモデルに比肩する50PS超の性能を達成、市場で成功した。このシャレードの軽快な走りを支えた3気筒エンジンは、当時、デ・トマソ傘下にあった、イノチェンティ・ミニのエンジンとしても供給された。後に660ccエンジンとの二本建てで供給される。この縁でシャレードにデ・トマソ仕様が生まれたが、それとは別に1983年にダイハツ製エンジンを搭載したイノチェンティ車をダイハツが日本に輸入(実際に輸入したのはダイハツ傘下の商社ダイハンである)し、販売したことがある。しかし販売は振るわず、ダイハツによる輸入、販売はごく短い期間で終わっている。また、このモデルにのみ3ドアバンの設定があり、ガソリンとディーゼル、両方のエンジンが用意され、このモデルより全車にフロントディスクブレーキが標準で装備された。1984年10月、「926ターボ」という、まるでポルシェのレーシングカーを連想させるネーミングのシャレードが発表される。その正体は、グループBのホモロゲーションに合致させた「ラリー用」ベース車両であった。1.0Lのガソリンターボでサファリラリー、1000湖ラリーに3台体制でスポット参戦するも、当時1.4倍であったターボ係数により、本来の排気量より2ランクも上の1.3L以上-1.6L以下クラスの扱いとなったことを受け、1.3L以下クラスの範囲内となるよう993ccの排気量を926ccまで下げ、チューニングを見直し最低生産台数をクリアする200台が生産された。CE型と呼ばれるエンジンの出力は、工場出荷時で76PS/5,500rpmであった。926とはもちろん排気量を表しているが、前述のポルシェのネーミングに引っ掛けた「洒落」でもあった。デ・トマソ926Rは、デ・トマソの「洒落っ気」が生んだもうひとつの傑作で、926ターボのパワートレインをDOHC12バルブ化し、シャレードのミッドに横置き搭載したコンセプトカーである。後輪駆動への変更と、ワイドトレッドとなった足回りは大型のブリスターフェンダーに包まれ、多くのエアインテークやイタリア尽くめの装備品とも相まって、ラテンの香りが強く漂うモデルであった。1985年の第26回東京モーターショーに、美しいイタリアの風景の中を実際に駆け抜ける映像とともに出品されるや、市販化とラリーでの活躍を望む声は一気に高まった。メディア向けの試乗会でも評判は上々であったにも拘らず、結局、周囲の期待に反し926Rが生産に移されることはなかった。1987年1月、フルモデルチェンジが行われた。このモデルの開発にあたって、ダイハツは従来の地方に加え、都市部の若年層の取り込みを図るため、これまでの理詰めのパッケージングと実用的なスタイルを捨て、一転、ラテン風の洒落たスタイリングを採用した。ルーフ後半の下がったその独特のスタイルは、これまでのコンパクトカーでは類をみない斬新なものであるとして一部では評価された。この4年後に登場する初代ルノー・クリオ(日本名:ルーテシア)にも共通点を見出せる。初期のキャッチコピーは「さ、ツーサム」であるが、これは市場調査の結果、後席の利用率が予想以上に低かったことから、2シーター感覚で使うことを志向し、リアシートは、居住性よりも荷室としての使いやすさに重点が置かれて開発されたためである。ボディは当初、3ドアと5ドアでのスタートとなり、先代に設定されていた商用モデルは廃止された。後にリアのオーバーハングを伸ばしトランクを設けた、4ドアのソシアルも追加される。当時、先代も含め、オーソドックスで保守的なスタイルが大半を占めていたリッタカークラスのなかで、ドラスティックに変貌したスタイルと、それに伴い退歩したパッケージングは賛否両論を誘った。しかし、先代よりも大きく重くなったことで、これまでのシャレードの美点をスポイルする結果につながり、特に市場で大きな支持を得ていた3気筒エンジンには大きなハンディとなったことは否めず、後に追加された1.3Lモデルが登場してからは、かつてのようなリッターカーとしての色あいは薄れていく。また、この3代目より、ホイールのP.C.D.がこれまでの110.0mmから全て100.0mmに変更されている。搭載エンジンは、初代以来の伝統の1.0L3気筒CB型のSOHC6バルブ・シングルキャブレターとSOHC6バルブターボ(ただし燃料供給はキャブレターを用いていた)、DOHC 12バルブインタークーラーターボ(もちろん1Lあたり100PS以上に達していた)、NA 及びターボディーゼルでスタートしたが、後に新開発のHC型1.3L4気筒SOHC16バルブ EFI が追加される。また、同時期にフルタイム4WD車も追加された。小さく経済的ながら、室内の広さと活発な走りがかつてのシャレードの美点であり、動力性能では1.0L DOHCターボ車および1.3L車は遜色のないものであったが、肥大化したことでその魅力は薄れていった。時代と共に大型車、高級車への関心が高まる中、リッターカーの開拓者として長くクラスをリードしてきたシャレードのブランド力は下降の一途を辿っていくこととなる。また、このモデルは北米にも輸出されていた。1.0L 3気筒と1.3L 4気筒の2種類、ボディーは3ドアと4ドアセダンの2種類で、3ドアは1.0Lとマニュアルトランスミッションのみの設定のバジェットカーだった。1988年から1992年まで販売されていたが、もともと北米でのダイハツの知名度の低さに加え、快適装備も少なかったため販売台数は振るわず、フェローザ(日本名:ロッキー)の予想外の不振も響き、1992年に撤退している。モータースポーツにも積極的に参加しており、特筆するべき活躍として1993年のWRC(世界ラリー選手権)サファリ・ラリーでは、2.0Lのターボ4WDカーのセリカ勢に続く総合5,6位の成績を残している。中国天津市にある天津汽車(現社名:天津一汽夏利汽車)では、このシャレードの生産販売権を取得してシァリィ(夏利)の名称で2014年12月まで生産されていたが、最終モデルはG100系シャレードとはエクステリアデザインが大きく異なっていた。(サイドドアと5ドアハッチバックのリアに面影がある程度である。)車としての出来は同時期の同クラス車に決して引けを取るものではなく、シャレードが優れる面も少なくなかったが、歴代モデルやライバル車と比較するとスタイル的にもキャラクター的にも地味で、存在感が乏しく、全体的に中途半端な印象が否めず、販売も振るわなかった。1998年1月に事実上の後継車となるストーリアが登場した後も継続生産されたものの、役割を完全にストーリアに譲る形で2000年5月に国内向けが販売終了。ダイハツ車での最後のリアディスクブレーキ搭載車(OEMを除く)でもあった。ハッチバックの後継車は事実上ストーリアとYRVであるが、ソシアルに後継はない。またシャレードの上級車種でハッチバックでありながら一見独立したトランクを持つように見えるノッチバックスタイルの5ドアセダンであるアプローズも同時期に廃止され、自社開発のノッチバックセダンは国内ラインナップから消滅した。その後ダイハツが販売しているノッチバックスタイルで独立したトランクを持つセダンはトヨタ・カムリのOEMであるアルティスのみであるが、2009年12月に一旦生産を終了し、ダイハツブランドの3ボックスセダンの販売も2010年2月を以って一旦終了。2012年5月10日、およそ2年振りにアルティスがハイブリッド専用車としてラインアップに復活したことに伴い、ノッチバックセダンの販売が再開された。中国や台湾などの海外の合弁企業で、G100系の改良版が2010年代前半頃まで生産されていた。とくに中国天津市にある天津汽車(現社名:天津一汽夏利汽車)は、シャレードの生産販売権を取得してシァリィ(夏利)を生産し、中国では小型タクシーの別名を「夏利」というくらい頻繁に走っている。これが縁となり、ダイハツの親会社のトヨタ自動車は天津汽車との合弁を足がかりに中国進出を果たした。またイギリスなどではミラに1.0Lエンジンを搭載したモデルを「シャレード」の名称で販売していた。ダイハツの欧州販売最終モデル(2013年度を以ってダイハツは欧州市場から完全撤退した)として、2代目トヨタ・ヤリス(日本名:トヨタ・ヴィッツ)をリバッジし(5代目)シャレードとして販売された。搭載されるエンジンは1.0Lの1KR-FE型のほか、2代目ヤリス/ヴィッツに存在しなかった1.33Lの1NR-FE型が搭載されていた。
出典:wikipedia
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