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凌統

淩 統(りょう とう、189年 - ?)は、中国後漢末期の人物。字は公績。父は凌操。長子は凌烈。次子は凌封。揚州呉郡余杭県(浙江省杭州市余杭区)の出身。203年、夏口攻めの際に父が戦死すると15歳で後を継ぎ、孫権から別部司馬・破賊都尉(代行)に任命された。206年、麻屯・保屯の山賊討伐に従軍。決戦の前に行われた酒宴で、督の陳勤が好き勝手に振る舞ったことを真っ向から咎めたため、陳勤の怒りを買った。陳勤は凌統本人や父凌操を侮辱し、凌統も初めは耐えていたが、侮辱が酒宴の帰り道にまで及んだため、遂に陳勤を斬りつけた。陳勤は負傷し、その傷が原因で数日後に死んだ。凌統は死んで詫びようと屯攻略の際に自ら猛攻を仕掛け、勝利を収めた。凌統は自首したが、孫権は功をもって罪を償えるようにした。また時期は不明であるが、董襲・歩騭・蒋欽らと共に山越の彭虎を討伐している。208年、夏口攻略戦では董襲と共に先鋒を務め、敵将の張碩を斬るという武功を挙げ、その功により承烈都尉に任命された。同年の赤壁の戦いにも従軍し、更に周瑜が荊州南郡を攻撃するとこれにも従軍。戦闘中に甘寧の部隊が敵陣に包囲されると、諸将が甘寧を救出に行く間、本陣守備を担当した。これらの功により承烈校尉に昇進した。214年、呂蒙と共に皖城を攻め、盪寇中郎将に昇進、沛国の相となった。215年、合肥の戦いにおいて凌統は右部督となり、張遼の奇襲により敵に包囲され絶体絶命となった孫権を、腹心の部下300人を率いて救出した。孫権が逃れると再び戦場に戻って戦い、数十人の敵を討ち取った。退却しようとしたときは橋が既に壊されていたため、鎧を着たまま川に潜って泳ぎ、帰還した。孫権は、全身に傷を負って瀕死の状態であった凌統を手厚く看護させた。凌統は部下が全員戻っていないことに落涙した。しかし、孫権は自らの袖で涙を拭い「公績、死んだ者はもう戻ってこない。だが、私にはまだあなたがいる。それで十分だ」と慰めた。淩統の創は甚だしく、孫権は舟に淩統を留め、尽くその衣服を易えた。その創は卓氏の良薬を得た事で死なずにすんだ。 (『呉書』)その功により偏将軍に昇進し、以前の倍の兵を支給された。このころの呉は常に人口不足で苦しんでいたという。凌統は孫権に「東の山岳地帯には勇猛な人材が多く、威恩をもって味方にすることができる」と進言し、山越の平定・徴兵を申し出た。三国志呉書「凌統伝」では49歳で病死したとされ、孫権はこれを聞くと、牀を拊って起坐し、哀しみを止める事ができず、数日は膳を減じ、言及すれば流涕し、張承に銘誄を作らせた。(『呉書』)この場合の没年は237年ということになる。しかし呉書「駱統伝」では凌統の没後、彼の配下の兵を駱統が引き継いだとあり、また駱統の没年が228年と特定されているため、両伝の記述に矛盾が生じている。唐代に書かれた『建康実録』には、凌統が217年に29歳で死去したと記されている。また、凌統が215年以降に昇進したという記述はなく、荊州攻略戦(219年)や夷陵の戦い(222年)にも参加したという記録がない。彼の子2人がまだ数歳だったため、孫権は2人を宮内で養い、自分の子と同じように愛した。後に凌烈が成長し、凌統の生前の功績が評価され亭侯に封じられると、駱統から配下の兵を返されている。だが凌烈は後に罪を犯し爵位を取り上げられたため、弟の凌封が後を継いだ。賢に親しみ士に接し、財を軽んじ義を重んじ、若くして国士の風を有していた。精鋭1万人余りを配下に得た後で故郷を通りかかった時にも、役人に対し恭しく礼を尽くし、古馴染みにも親しんでいたという。平素から優れた人物を愛し、また慕われていた。後に左将軍となった留賛は、凌統の推挙により用いられた人物である。「凌統に勝る」と言われ推挙された同郷の盛暹に対しても、全くわだかまりを持たなかった。同僚の甘寧はかつて江夏太守であった黄祖の部下であり、夏口攻防戦で凌操を射殺している(異説もある)。そのため、凌統にとっては父の仇と言える存在であった。ある時、呂蒙が部将を集めて宴会を開くことになり、その席で凌統が剣舞を舞うことになった。この時、甘寧も戟をとったが、呂蒙がその場に割って入ったため、大事には至らなかったという。孫権はすぐに甘寧を半州へ移らせた。小説『三国志演義』では、濡須口の戦いで甘寧に窮地を救われ、それがきっかけで父を殺された恨みを水に流し、甘寧と固い親交を結んだとなっているが、正史ではそのような記載はない。

出典:wikipedia

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