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藤波辰爾

藤波 辰爾(ふじなみ たつみ、1953年12月28日 - )は、日本の男性プロレスラー。カートプロモーション所属。本名・旧リングネーム:藤波 辰巳(読み同じ)。大分県出身。血液型はO型。ニックネームは「ドラゴン」もしくは「ドラゴン藤波」。第77代NWA世界ヘビー級王者。海外武者修行時のリングネームは、アメリカではドクター・フジナミ、メキシコではドクトル・フヒナミおよびリング・フヒナミとしていた。1953年12月28日、大分県国東郡に生まれる。中学時代にアントニオ猪木に憧れ、プロレスラーを目指す。中学卒業後、地元の自動車整備工場に就職したが、プロレスへの夢を断ち切れず、1970年に別府温泉へ湯治に来ていた同郷である日本プロレス所属のプロレスラー北沢幹之に直談判、そのまま巡業について行き日本プロレスに入門した(入門同期は、佐藤昭雄、キラー・カーンなど)。猪木の付き人となり1971年5月9日にデビュー。デビュー戦の相手は北沢が務めた。アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日の1971年12月14日、木戸修と共に日本プロレスを退団し、夜逃げ同然で日本プロレス事務所の近くの猪木後援会事務所に身を寄せる。1972年、猪木が興した新日本プロレスに旗揚げより参加。3月6日に大田区体育館で行われた旗揚げ戦では第1試合に出場するもエル・フリオッソに敗退、3月16日の浜田広秋(後のグラン浜田)のデビュー戦で初勝利を挙げる。以降、相次いでデビューした関川哲夫、荒川真、栗栖正伸、藤原喜明らを相手に勝利を重ね、若手のリーダー格となった。1974年、若手の登龍門たるカール・ゴッチ杯を制し(決勝の相手は小沢正志、後のキラー・カーン)、翌1975年6月、初の海外修行で木戸修と共に西ドイツへ遠征、グスタル・カイザーのプロモーションで対戦したホースト・ホフマンには子供扱いされたという。その後アメリカへ渡り、フロリダのカール・ゴッチのもとで再修行。木戸の帰国後、1976年よりドクター・フジナミのリングネームでノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションズをサーキット。ベビーフェイスのポジションで前座試合に出場し、ロニー・ガービン、ボリス・マレンコ、ジン・アンダーソン、ザ・モンゴルズ、ジャック・グレイ、ミシェル・デュボア、クラッシャー・ブラックウェル、ラリー・シャープ、アンジェロ・ポッフォ、ラニー・ポッフォ、そしてランディ・ポッフォこと若手時代のランディ・サベージなどと対戦した。その後、ドクトル・フヒナミとしてメキシコに転戦、当初はルード扱いだったが、後にテクニコに転向してからはリング・フヒナミと名乗った。1978年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破り、WWWFジュニアヘビー級王座(後のWWFジュニアヘビー級王座/現WWE)を獲得し凱旋帰国。途中、1979年10月に剛竜馬にベルトを奪取されるも2日後に奪回しており、1981年10月にヘビー級転向のために返上するまで、通算52回に渡って同王座を防衛した。1978年3月3日の凱旋帰国第一戦では、マスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)を相手に同じくドラゴン・スープレックスで勝利。以降、ドラゴン・ロケットなど当時としては斬新だった飛び技とビルドアップされた肉体、そしてカール・ゴッチ仕込みのテクニックで「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし、従来のプロレスファンに加えて女性や子供のファンも獲得、腰痛の悪化で低迷していたストロング小林を抜いて猪木と坂口征二に次ぐ新日本プロレスNo.3の座に就いた。同時に、チャボ・ゲレロ、カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾などをライバルに、日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを定着させた。WWFジュニアヘビー級王者として日本のみならず海外でも防衛戦を行い、ロサンゼルスでは素顔のロディ・パイパーをはじめスキップ・ヤングやトム・プリチャード、ニューヨークでは前王者エストラーダやジョニー・ロッズ、メキシコではレイ・メンドーサやエル・ソリタリオなどの挑戦を退けている。1980年2月1日にはダブルタイトルマッチにてスティーブ・カーンを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得、ジュニアヘビー級の二冠王となった。同年4月には国際プロレスの阿修羅・原、1981年7月には当時のNWA世界ジュニアヘビー級王者レス・ソントンを相手にWWF王座の防衛に成功するなど、名実ともにジュニアヘビー級の第一人者となった。また、春に開催されていたMSGシリーズにも出場し、猪木や坂口をはじめ、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ダスティ・ローデスらスーパーヘビー級の大型外国人とも対戦。公式リーグ戦ではニコライ・ボルコフ、バグジー・マグロー、ボビー・ダンカン、サージェント・スローターなど、体格差のある巨漢選手からクラッチ技でフォールを奪っている。1981年10月にヘビー級転向のためジュニアヘビー級王座を返上。翌1982年1月より「飛龍十番勝負」が始まる。ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジェシー・ベンチュラ、ディック・マードックらと闘うも、十番を消化することなく、中途で終わることになった。しかしながら、海外遠征中の同年8月30日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。ヘビー級のチャンピオンベルトを手土産に凱旋帰国、9月21日に大阪府立体育館にてマスクド・スーパースターを逆さ押さえ込みで破り、初防衛に成功した。この年の10月、長州力との抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍との軍団抗争で新日本に黄金期をもたらす。長州との一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ、1983年4月3日のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチは同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得した。同年のWWF遠征では、5月16日にロチェスターにてレイ・スティーブンス、翌17日にシラキュースにてザ・デストロイヤーと対戦し、それぞれ勝利を収めている。しかし、同年8月のタイガーマスクの引退、さらに翌年1984年にはUWF旗揚げによる前田日明らの離脱、年末の長州力ら維新軍団の新日本プロレス離脱、と新日本は冬の時代と呼ばれるようになる。一時は「藤波も離脱秒読み」と報道されたが藤波は残留を決めた(藤波が離脱していればその時点で新日本は潰れただろうと言われている)。残留を決めて以降は猪木、坂口、木村健吾、星野勘太郎らと共に新日本プロレスの低迷期を支え、1985年5月24日 木村健吾とのタッグにてWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。WWFインターのシングルとタッグの二冠に輝き、6月11日東京体育館にてハルク・ホーガンの持つWWFヘビー級王座に挑戦した(結果はホーガンが防衛)。WWFとの業務提携終了に伴い、10月末で WWFインターのシングルとタッグ両王座を返上。しかし12月12日のIWGPタッグリーグ優勝戦でタッグとはいえ師匠・猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成。初代IWGPタッグ王座を木村健吾と獲得、その年の「プロレス大賞」でMVPを獲得した。1986年1月から前田らUWF勢が新日との業務提携により参戦。UWF勢のキックに新日勢は当初逃げ腰だったが藤波は真正面から受け止め、特に6月12日大阪城ホールIWGP公式リーグ戦での前田日明との試合は前田の厳しい攻めを(前田の大車輪キックで大流血になりながらも)受け止め名勝負を展開した(結果は両者KOによる引き分け)。この試合はこの年のプロレス大賞ベストバウトを獲得し、試合後前田は「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた。そしてその仲間とこれから大きな国を作っていく...そんな心境です」と藤波に賛辞を送った。だが藤波の額にはその時の傷が残り、現在も消えずに残っている。1987年4月には長州力らジャパン・プロ勢が新日にUターン。新日本プロレスは猪木、坂口、マサ斎藤らナウ・リーダーと藤波、長州、前田らニュー・リーダーの闘いで人気を博すも、その後の前田の長州蹴撃による離脱、二度に渡るファンの暴動事件などで再び新日の人気は陰りを見せ始めた。1988年4月22日、沖縄県立奥武山公園体育館で、いつまでもメインを張り続け後進に譲ろうとしない猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれたが、反権力的な長州の維新、天龍の革命と比べて体制側に属する藤波の革命についてのファンの支持はもう一つで、前記2者に比べるとプロレス史には(ネタとしてはともかく)残らず、尻すぼみの結果となった。5月8日、有明コロシアムでIWGPヘビー級王座をビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。8月8日には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。試合後、猪木が藤波の腰にIWGPのベルトを巻いた。以後、新日本プロレスのエースとなり、10月15日にアメリカのオレゴン州ポートランドにてザ・グラップラーからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を、12月9日には後楽園ホールでケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し、日米に渡る三冠王となった(後に両王座は返上)。これと同時期に、IWGPヘビー級のベルトを携えてアメリカなどを転戦、海外でもIWGPヘビー級王座の防衛戦を行っている(当時、猪木が提唱していた「世界戦略」に対して、「藤波流世界戦略」とも呼ばれた)。1989年6月22日、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。その間、帝拳ジムでボクシングの練習にも取り組んだ。1990年9月30日の越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。この頃、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成(メンバーは越中、獣神サンダー・ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャット、南海龍、ワイリー・テイラー)したが、軌道に乗ることはなかった。同年12月26日、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者になった。翌1991年3月21日、東京ドームでリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれていた。ただしNWAの公式サイトには、歴代チャンピオンとして藤波の名前がある。また、後にWWE殿堂入りした際、WWEから「元NWA世界ヘビー級王者」として紹介され、WCWを買収したWWEから王座戴冠の事実を追認される形になった。1992年7月11日、オーストリアのグラーツにてボブ・オートン・ジュニアを破り、オットー・ワンツ主宰のキャッチ・レスリング・アソシエーションが認定するCWAインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得。1993年8月7日、両国国技館で馳浩を破りG1 CLIMAX優勝。その年1月から参戦し、新日勢を連破していた天龍源一郎と9月26日大阪城ホールで初対決。セコンドの馳の介入にクレームを付ける天龍の虚をついてグランド・コブラで勝利した。1994年4月4日、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグランド・コブラで王座を奪取。腰痛からの復帰以降、闘魂三銃士の台頭もあり、藤波は徐々に第一戦から退くようになる。1995年10月27日、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。イギリスのビリー・ライレージムと提携。1998年4月4日の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。師の引退に花を添えた。かねてから「ジャンボ鶴田選手と1回戦ってみたかった」と公言している。かつて、ジャイアント馬場と猪木の対戦が望まれた時期、猪木は何度も馬場に対戦を望んだが、馬場は「僕達の旬は過ぎているから」と拒否し、代わりにお互いの団体の次期エースである鶴田と藤波の対戦を申し出たり、当時全日本プロレスに参加権があって新日本プロレスには認められていなかったNWA世界ヘビー級のベルトの挑戦権を藤波に与えてもいい、などと発言したこともあった。だが、猪木は馬場との対戦に拘り続け、そして鶴田の死去もあり、ついに藤波は鶴田と対戦することはできなかった。2003年から欠場が続いていたが、2005年3月26日に2年3か月ぶりに復帰し、5月のドーム大会でジャンボ鶴田の付き人を務めたことのあるNOAHの三沢光晴とタッグを組み、「楽しかった。次は三沢選手と戦いたい」と話した。また、同年のG1 CLIMAXにも久々に出場した。川田利明との初対決が実現するも敗れる。試合後に握手し、川田は「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから」とコメントを残す。1999年に坂口征二の後を継ぎ新日本プロレス社長に就任。しかし在任中に橋本真也、武藤敬司、長州力、佐々木健介など主力選手の退団が相次ぎ、折からの総合格闘技ブームや新設されたNOAHの盛況もあって苦しい経営を迫られた。また、会社の経営状況を把握出来ていなかったり発言の趣旨が二転三転することが多かったりと、藤波自身も経営者として問題があった。結局2004年に社長を辞任。副会長に就任して以来、引退カウントダウンを撤回し現役にこだわり続けた。2006年6月30日付けで新日本プロレスを退団。その際に社員に挨拶に回ったが、ことごとく無視された、とインタビューで当時の様子を語った。元新日本プロレスで藤波の愛弟子である西村修と田中秀和リングアナウンサーの新団体「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げ戦で第1試合に出場した。その後無我の代表取締役に就任。2007年1月28日には約30年ぶりにグラン浜田と対戦した。6月1日師匠であるアントニオ猪木と1年振りに会談したことが明らかとなり、その席で猪木が旗揚げするイノキ・ゲノム・フェデレーションへの協力を表明した。9月9日、NOAH日本武道館で、三沢との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。パートナーの西村が潮崎に足四の字で勝利。2008年、団体名を『ドラディション』に変更した(無我の商標権を持つ西村が団体を離脱したため)。2010年10月20日、長州力、初代タイガーマスクと共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。また、藤波と長州の1997年8月10日以来となる一騎討ちも決まった。2012年4月20日、「藤波辰爾デビュー40周年・ファイナル 〜40th. ANNIVERSARY FINAL〜」を後楽園ホールで開催、新日本プロレスに縁のある藤原喜明、ウルティモ・ドラゴンなどが参戦、メインでは長州力&初代タイガーマスクと組み、蝶野正洋&ヒロ斉藤&AKIRAのTEAM 2000と対戦、リングアナは田中秀和、レフェリーは北沢幹之が務め、サプライズゲストとして前田日明、師匠のアントニオ猪木が来場した。また、同大会の模様や藤波本人、及び有名選手のインタビューを交えた初のオフィシャルドキュメンタリーDVD「最後の飛龍 藤波辰爾」を自らの事務所シーホースコーポレーションより発売した。2012年4月20日の大会終了直前に藤波の長男藤波怜於南がプロレス入りを直訴したが、直ぐには結論を出せないと承諾を保留にしている。その後承諾しランカシャースタイルを習得させる為に旧ビリー・ライレージムことアスプルオリンピック・レスリングクラブに武者修行に出し、帰国後はデビューを目指しU.W.F.スネークピットジャパンで修行中。その後怜於南は2013年5月29日のドラディション後楽園ホール大会のエキシビジョンマッチでプレデビュー戦を行った。11月19日、怜於南は藤波のかつての付き人だった船木誠勝を相手にデビューすることが発表された。その本格デビューを前に、怜於南は自らのリングネームを『LEONA』とすることを発表。将来的には本名の藤波怜於南で戦う意思があることも明らかにしている。そのデビュー戦等を含んだDVD「藤波辰爾還暦記念 藤波怜於南デビュー記念 藤波辰爾×LEONA BEST BOUT 2012 - 2013」が発売されている。2015年3月、WWE ホール・オブ・フェームに迎えられた(インダクターはリック・フレアー)。日本人ではアントニオ猪木に続き2人目の殿堂入りである。自らのキャッチフレーズであるドラゴンの名を冠した多くのオリジナル技を持つ。これらは総じて「ドラゴン殺法」と呼ばれている。また、猪木の卍固めや長州のサソリ固めなど、いわゆる「掟破り」を使用し試合を演出した。

出典:wikipedia

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