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西武601系電車

西武601系電車(せいぶ601けいでんしゃ)は、西武鉄道が1962年より製造した通勤形電車である。同社初のカルダン駆動方式採用車であった。それ以前の西武鉄道は、日本国有鉄道(国鉄)中古部品搭載の低性能な電車を量産する「質より量」の車両政策を採っていたが、この系列を機としてようやく電車の性能向上に取り組み始めた。西武鉄道の車両史上画期的なグループと言える。しかしながら装備の一部に引き続き中古部品を使い、低コストを志向して簡素なメカニズムに徹するなど、同時期の他私鉄に比して見劣りする車両であることは否めなかった。過渡期の存在であり、1963年までの短期間に4両編成7本28両が製造されたのみである。後継の701系電車等に伍して、1960年代から1980年代まで、西武新宿線ほかの通勤輸送に用いられたが、この間、1970年代中期以降は601系としての編成組成を解かれ、独立した系列としての実態を喪失した。電動車は701系に編入され、701系とともにブレーキ装置の改良や冷房装置の搭載などを施されて、走行性能や旅客サービスを改善した。一方制御車については台車交換などの近代化措置を受けたものの、機器類に互換性のある旧型車両のグループに実質編入され、末期はもっぱら支線運用に充てられた。西武鉄道在籍車・地方私鉄譲渡車とも既に廃車され現存しない。西武鉄道は、太平洋戦争後の1946年以降、輸送力増強策として、国鉄から大正時代製造の老朽木造電車や、焼夷弾を用いた空襲による火災で廃車になった電車、いわゆる「焼け電」を大量購入した。これを元に、台車・電装部品・鋼体・台枠(シャーシ)等を流用し、自社西武所沢車両工場で叩きなおしによる復旧や鋼体化改造を行い、車両の標準化を一気に進めたのである。このため、西武の電車は一時、国鉄形の主要機器を標準装備とするようになった。資本系列の関係もあり、特定の車両メーカーとの結びつきが深いことが一般的な大手私鉄の中でも、非常に特異な例である。1954年には、完全オリジナル設計の車体を持つ初代501系(のち411系から351系と改称)が所沢車両工場で製造されたが、これも走行機器は国鉄タイプの中古品ばかりで、一部は書類上も国鉄払い下げ車等の改造車扱いであった。さらに、西武鉄道で初めて全車20m級車体を標準化した2代目501系電車(1957年)の登場時には、初代501系に装備されていた出力の大きな主電動機と昭和初期設計の台車を転用、初代は411系と改称して、より低スペックな主電動機と大正時代に設計された旧式台車を装着するという、涙ぐましいまでのやりくりを行っていた。西武以外の大手私鉄各社は1954年以降、また国鉄でさえ1957年以降、通勤輸送対策として斬新な高性能電車を多数開発・投入した。低振動で高回転・高速運転が可能な「カルダン駆動モーター」、滑らかな高加速を得られる「多段制御器」、反応が早く作動確実かつ強力な「電空併用式電磁直通ブレーキ」、乗り心地が良く高速安定性に優れた「軽量台車」、全金属製の「軽量車体」などが、その構成要素である。これらの新技術によって、加減速能力の高い「高性能電車」を実現させ、ラッシュ時の過密ダイヤを迅速にさばこうとする考え方であった。だがこのうち、1950年代の西武が導入したのは「軽量車体」だけであった。従来より大型で収容力の大きな車体を、心皿荷重上限の低い手持ちの中古台車と組み合わせる狙いがあった。西武鉄道では第二次世界大戦後、TR11・TR14といった同系の釣り合い梁式台車を備える旧式国鉄車両を払い下げで大量取得し、急増する通勤輸送に役立てていた。だが、これらの台車は搭載可能な車体の重さを示す心皿荷重上限が低く、車体の更新や新造にあたっても戦前以来の在来設計を用いる限り、17m級以上の大型車体を搭載するのが困難であった。そうした中、20m級でも17m級並かそれ以下の車体重量を実現する軽量車体の採用は、輸送力強化の障害となっていたこの問題の解決に大きく貢献し、西武鉄道でTR11がその後も第一線で長く運用される一因となった。西武鉄道では2代目501系で軽量車体を採用した後、1959年には切妻式の両開き3ドア20m級車体を持つ451系、1961年には451系の前頭形状を2枚窓としてアルミ・ハニカムドアを与えた551系を開発しているが、どちらもスマートな軽量車体の通勤車でありながら、旧式でばね下重量が大きく、しかも低回転な吊り掛け駆動方式のMT15モーター、制御段数が少なく直並列切り替えの渡り動作時に出力が半減するなど作動の荒いCS5電空カム軸制御器、乗り心地の悪いイコライザー式のTR11・TR14台車、長大編成時に効きが遅くて操作に熟練を要するA動作弁によるA自動空気ブレーキを装備していた。いずれも、廃車になった戦前の国鉄電車からの流用部品であり、走行性能は他社の高性能車から30年程度遅れた、昭和初期そのままの水準だった。唯一の進歩は、全車の台車軸受けをプレーンメタルからローラーベアリングに改造したことだけであった。他私鉄であれば「車体更新車」と呼ばれるような「外見だけの新車」を製造する一方で、国鉄からの廃車払い下げはこの間も続いていた。また保有していた在来車のうち、西武鉄道の前身である旧・武蔵野鉄道と旧・西武鉄道が昭和初期から戦時中にかけて製造した16m - 18m級の電車は、「多形式少両数で数が揃わず使いにくい」「国鉄形と規格が揃わない」ため、その多くが1965年までに所沢車両工場で改造のうえ、地方の中小私鉄に売却されてしまった。当時の西武電車は、このような(行き過ぎと言えるほどの)標準化で制御系統やブレーキ装置が徹底して統一されていたため、ほとんどの形式は相手を問わず相互に連結できた。17m級車と20m級車、半鋼製車と全金属車体車など、バラバラな形態での新旧車両混成は日常茶飯事であった。限られた予算の中で「質」よりもまず「量」を揃えることで輸送力を確保しようとしたのが、1950年代の西武の実態だったのである。当時の西武鉄道は、路線自体の輸送キャパシティが旅客需要増大に比して極端に貧弱であった。特に池袋線は、前身の旧・武蔵野鉄道が経営不振体質であったため、終戦直後の時点での複線区間は池袋 - 保谷間だけという状態で、急激な需要の伸びに対応しきれず、車両増備と並行して複線化事業を推進せねばならなかった(池袋 - 所沢間複線化が完成したのは1960年である)。ここに他の大手私鉄にくらべて大きなマイナスポイントがあるゆえ、車両増備に際しても高価な高性能車には手を染めず、国電の中古車・中古部品で対応せざるを得なかった。2代目501系はその大出力(西武の基準では)故に、1962年から1968年の間、電動車2両と付随車4両を組み合わせた超・経済編成を組んでいた。これは電動車の性能に比して大幅な過負荷で「発進・加速が、一応はできる」というレベルの編成である。この編成はラッシュアワーにも容赦なく運行され、当時の運転士は列車をダイヤに乗せるため非常に苦労したという。その間にも日本国内ではカルダン駆動方式の普及が進み、1961年の時点で、西武鉄道を除く大手私鉄全社が、何らかの形でカルダン駆動方式を導入していた。それどころか、当時準大手の相模鉄道や山陽電気鉄道、さらには地方中小私鉄である富山地方鉄道や長野電鉄等でも採用された。1950年代後半の新製車に吊り掛け駆動車を多数含んだ例に南海電気鉄道(1521系・2051系)と東武鉄道(7800系)があるが、いずれも吊り掛け式電車としては強力かつ軽量な主電動機や電動カム軸制御器など上質な機器を搭載しており、また、車体内外のつくりも良く、西武よりは一等上であった。昭和30年代中期までカルダン駆動と無縁に、なお戦前並みの低性能電車ばかりを増備し続けた大手私鉄は、西武だけである。車両数を揃えることのみに徹してきた西武の輸送力対策も、東京近郊におけるスプロール現象の激化の前に、1960年代に入ると限界が見えつつあった。どれだけ保有車両数を増やしたところで、列車の編成延長はプラットホーム有効長の制約から限界があり、1列車あたりの輸送力は頭打ちになる。また都心へ向かう通勤路線は、ラッシュアワーには限界一杯の稠密ダイヤを組んでおり、そのままでは列車増発は困難である。ここからさらに輸送力を増強する策は唯一、電車の加減速能力・高速運転性能を従来より高めて、各列車の運転所要時間を短縮し、ダイヤの余裕を捻出して、列車増発を図る以外にない。この場合、もはや旧式設計の低性能電車では対応しきれない。鉄道車両の新規開発・量産には長い時間と費用を要する。ラッシュ対策が「限界」になってから車両新製に取りかかるようでは手遅れで、輸送能力の破綻を来すことになる。国鉄では最混雑線区に重点的に新型電車を投入し、大手私鉄の多くは、加減速条件がシビアな各駅停車に新型車を、加減速の条件が緩い急行に旧型車を充てるなどの使い分けで、それぞれ限られた数の新型電車を最大限に活用して輸送需要に対応していた。このような他社の状況を考えれば、1960年頃の西武鉄道は、ラッシュ対策として新たな手法を検討すべき時期に来ていたと言える。こうしてようやく1961年頃から、在来車よりも性能を向上したカルダン駆動通勤電車の開発が具体化してきた。もっともその開発過程では、コストダウン最重視の西武鉄道らしい手法が多用された。大手私鉄では新車開発の際、車両メーカーや重電メーカーに依頼して、カルダン駆動モーターや軽量台車を自社線の条件に合わせた特注のスペックで製造させる例が多い。自社の事情に最適化した機器類が望ましいのは当然であるが、その分だけコストは高くなる。そこで西武では、国鉄形の既存の機器類を同一スペックで新規に製造する手法を採ることにした。開発コストは抑えられるうえ、製造ロットの膨大な国鉄形部品は、量産効果で製造コストも安くなるという当時の西武らしい発想ではある。この際、西武は国鉄の設計を流用する代償として、国鉄側に「ST式戸締め装置」を無償使用させる旨申し出た。これは西武所沢車両工場(STの由来)が1960年に開発した自動ドア機構の一種だが、2枚1セットの両開き扉を、ベルトと連動させてドアエンジン1個で駆動できる、という合理的な機構で、既に西武451系電車に用いられていた。両開き扉車のドアエンジン個数を片開き扉車並みに節約する手法はそれ以前にもリンク駆動による方式があったが、西武のベルトドライブ方式は構造が簡単で、ドア数の多い通勤形電車を量産する際にはコストダウン効果が大きく画期的なものだった。通勤形電車を中心に両開き扉が採用され、これに伴うドアエンジン数の増加による製造・保守コストの増大に頭を悩ませていた国鉄もこの申し出を受け容れ、西武は国鉄形の台車・主電動機を自社の取引先メーカーで新規製造して使用できることになった。ST式戸締め装置は、国鉄では1963年の103系電車以降広く使用されている。電車・電気機関車の「発電ブレーキ」は、モーターを発電機として作動させることで走行エネルギーを吸収し、抵抗器で熱に変換して発散するものである。急勾配路線の降坂用としては日本でも古くから存在したが、車輪にブレーキシューを押しつける空気ブレーキとは制御系統が分けられており、コントロールには熟練を要した。また、停車時に常用する類のものではなかった。その後、アメリカで開発された電空併用式電磁直通ブレーキ(SMEEおよび改良型のHSC-D)が1953年に日本に導入されると、平坦路線でも高速域から強力なブレーキ力を得られること、また空気ブレーキと自動的に連携・協調して作動し、操作も回転角に比例してブレーキ力が増大するセルフラップ弁となったため、常用ブレーキとしての取り扱いが容易となったことから、通勤用電車への発電ブレーキ装備が一気に普及した。発電ブレーキ併用のHSC-D電磁直通ブレーキは、1950年代後半以降、1980年代まで大手私鉄の高性能通勤電車における一つのスタンダードな装備品にさえなった。しかし、西武鉄道は1962年の時点でHSC-Dブレーキどころか、その発電ブレーキ省略形であるHSCブレーキすら採用しなかった。カルダン車についてもさすがに長大編成化対応として応答性を向上させる電磁給排弁は付加したものの、従来からの自動空気ブレーキ(AE電磁自動空気ブレーキ)を引き続き使用したのである。自動空気ブレーキとすれば在来車との機器融通も利き、また制御器についても在来車と同調可能とすることで、相互に連結できるようになる。もっとも自動空気ブレーキは、電磁直通ブレーキに比し、レスポンスの悪さや取り扱いの手間を伴った。制動能力は自ずから制約を受け、カルダン車でありながら、ダイヤ編成上の減速性能は旧型車同様に扱わざるを得なくなった。ともあれ西武鉄道は、1963年11月から池袋線池袋 - 所沢間でラッシュ時に私鉄初の10両編成運転を開始しているが、この長大編成組成においては、ブレーキ仕様の徹底統一が著しく寄与していた。1962年末から製造された。クハ1601形(制御付随車 (Tc) ) - モハ601形(電動車 (M) ) - モハ601形(電動車 (M') ) - クハ1601形(制御付随車 (Tc) )の4両編成である。西武所沢車両工場で内製した、20m級の3ドア軽量車体。全金属製である。外観は、前年の1961年に製造された吊り掛け式の551系とほぼ同型である。正面は細いピラーを中央に通した湘南形2枚窓、だが扉は鋼板プレスドアに戻っている。当初の塗装は、俗に「赤電」と呼ばれるローズピンクとベージュのツートーンで、この点も在来車と変わらなかった。異なるのは、551系が先頭車を制御電動車としたため、両端先頭車にパンタグラフがあるのに対し、本系列は中間電動車方式を採用し、中間車2両中1両のみにパンタグラフがある点である。また、台車の関係からか551系と比べて床面高さが高くなったことから、連結器を避けるための欠き取りが小さくなっている。また、正面ワイパー位置が551系の窓上装備に対して本系列では窓下装備とされている。これにより前面の表情がわずかに異なっている。車内はロングシートのみの簡素な作りで、蛍光灯照明にアルミデコラ板内装など、当時の一般的水準のきわめて平凡な通勤仕様車であり、特記すべき点は全くない。中空軸平行カルダン駆動方式の日立HS-836-Frbで、国鉄が開発したばかりの最新型である「MT54形」とほとんど同一の設計である。ただし冷却ファン構造の差異のせいか、発生する駆動音は同じ国鉄制式でもやや旧式な「MT46形」に似ていた。日立製作所は国鉄から指定を受け、完全自社設計の電装部品とは別に、他の主要な重電メーカーと統一した仕様で国鉄制式設計の電装部品を製造し、国鉄に納入していたのである。MT54を搭載した国鉄初の車両である165系電車の就役は1963年1月であり、西武は最新型の主電動機を本家国鉄に先駆けて使用開始したことになる。もっとも西武では、メーカーでの国鉄向け量産が本格化した後の1970年代まで701系・801系・401系(2代目、電装品交換に伴う搭載)用としてこの系列のモーターを新製投入し続けており、導入全期間を通して見ればコストダウンの意図は十分に達成されたと考えられている。ギア比はMT46搭載車だった国鉄101系電車と同一の84:15 ( = 5.60) で、MT54搭載の国鉄近郊形(ギア比4.82)よりもさらに加速力・牽引力重視の設定である。国鉄では電力消費量の問題などを背景に、このギア比を採ったMT54搭載の通勤形電車はまったく新造されず、約20年後にMT54を搭載する581・583系の近郊形化改造時に101系の駆動装置を転用し、ギア比を5.60とした例が生じたにとどまっている。主制御器は日立MMC-HT-20A(弱め界磁起動1段、直列10段、並列7段、弱め界磁5段)電動カム軸式1C8M制御の多段制御器で、2両分8個のモーターを制御する。4両編成で制御器1基、パンタグラフも1基で済まされており、コストを抑制している。制御段数は発電制動がないため、力行(加速モード)のみの23段である。当時はもっと制御段数の多い超多段制御器も多く出現していたが、イニシャルコスト・メンテナンスコストとも高く付くため、在来車との併結も考慮して比較的簡素なこのタイプを選択したものと見られる。これでも制御段数が10段足らずの在来型のCS5よりは上等であった。ただし運転台のマスコンは3ノッチ仕様の旧式な国鉄MC1のままで、在来車と操作性を合わせている。電動発電機や空気圧縮機は、旧型国電用の部品を充当している。空気圧縮機AK-3形は旧型国電からの中古品だけでなく新製したものも存在し、5000系レッドアローや2000系2両編成車に至るまで、西武標準形として広く採用された。電動車の台車は住友金属工業製FS342で、実質的に国鉄の通勤電車・普通電車用標準台車であるDT21そのものである。住友は以前から国鉄向けにDT21を生産していた。鋼板をプレスした部材を溶接で組み立てる、ボルスター付の金属ばね台車でボルスカアンカーは装着せず、ペデスタル支持のウイングばねによる軸箱支持機構など、当時としてもごく平凡無難な構造である。1957年に開発された国鉄101系に採用されて以来、この系列の台車は国鉄向けには1980年代中期まで生産が続いた。付随車の台車は、またしても中古の流用品のTR11が用いられた。本来、大正時代に国鉄(鉄道省)が客車用に設計し大量に製造され、電車の付随車用としても使われた台車である。弓形イコライザー式の古典台車で、製造後最低でも30年以上を経過しており、20m級の大型客車・電車にはあまり適さず高速域ではピッチングの酷い代物であった。ブレーキは前述の通り電磁給排弁付のAE電磁自動空気ブレーキで、電磁給排弁の付加で特に長大編成時の応答速度は向上しているが、発電ブレーキがないこともあって制動能力そのものは旧型車並みである。電動車のブレーキシリンダーは中継弁を介した台車シリンダー方式としたが、制御車は台車側のブレーキワークの関係もあって車体装架であった。1970年代まで主に新宿線系統で後続形式の701系等と共に運用されていたが、新宿線系統の701系基本編成が4両から6両に変更されるのに伴い、1975年以降、少数派の本系列は順次編成組み替え措置の種車として編成を解かれることになった。中間電動車モハ601形は既存の701系4両編成に組み込まれることになり、ブレーキをHSC電磁直通ブレーキとし冷房化改造も施され、形式を701系中間車の枝番扱いとする形(モハ701-1 - 14)で同系に編入された。また、客用扉を101系で採用されたものと同じステンレス製無塗装扉に交換している。初期に改造されたモハ701-1・2・5・6は赤電塗装のまま、それ以外は黄色一色で落成したが、後に全車黄色一色となり完全に面目を一新した。しかし窓形状が本来の701系の独立窓ではなく、551系などと同様に2組1セットの2連窓であることから容易に区別がつく。車内の設備は初期の6両は冷房以外ほぼ製造時のオリジナルだったが、モハ701-7以降は新101系と同様の手すり・網棚に交換され、モハ701-9からはさらにドアエンジンがSTK-4D形に変更された。701系6両編成の廃車進行に伴い、1992年までに全車廃車された。初期に編成を解かれたクハ1601 - 1606は、老朽化したクハ1411形を置き換えるため、塗色・台車・ブレーキ等は従来のまま、吊り掛け駆動の旧型車グループに編入された。この6両は順にクハ1651形(1657 - 1662)と改称し、貫通路を狭幅化の上451系と編成を組んで、国分寺線や多摩川線等の支線を中心に運用された。のち1984年には組成相手である451系の廃車進捗に伴い3両が廃車となったが、残る3両は貫通路を再度広幅化し、551系クモハ556 - 558に連結相手を変え、この際台車は空気バネ台車のFS40となった。西武鉄道では1988年までに廃車されたが、1984年にクハ1658を、1988年にはクハ1659を総武流山電鉄(現、流鉄)に譲渡(クハ81・クハ71、2001年までに廃車)、また1985年にはクハ1661を一畑電気鉄道(鉄道事業は現、一畑電車)に(クハ191、1998年廃車)に、クハ1662を上信電鉄に(クハ105、1994年廃車)にそれぞれ譲渡している。クハ1662を除いていずれも551系と2両編成を組んで譲渡されたものである。その後編成を解かれたクハ1607 - 1614は、旧型形式の淘汰が進行していたため、転用されることなく1981年5月に廃車解体となった。

出典:wikipedia

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