初代月亭 可朝(つきてい かちょう、1938年〈昭和13年〉3月10日 - )は、神奈川県横浜市出身(同県三浦郡葉山町生まれ)、兵庫県西宮市在住の落語家・漫談家。本名は鈴木 傑(すずき まさる)。「月亭一門」として亭号を名乗り、弟子に月亭八方など、孫弟子に八光や方正などをもつ。通称「カチョヤン」。桂米朝一門であるが、一門の多くが米朝事務所に所属しているのに対し、デビューしてから長年吉本興業に所属し、ケーエープロダクションを経て、2009年5月現在は元ケーエーの社長が独立して立ち上げたプロダクションスパンキープロダクションに所属していたが、現在はフリー。横浜生まれであるが、入門と相前後して大阪弁で喋るようになり、現在では日常会話でも関東方言を使うこともなくなった。カンカン帽をトレードマークとし、ギターを使った漫談で売り出す。それをレコード化した一連のコミックソング(「歌笑曲」と称す)は大ヒットを記録。「ボインやでぇ」のフレーズは有名。無類の賭事好きや破天荒な私生活がクローズアップされ、自身の名前が出ただけでも笑いを生む稀有な人物。定紋は月紋、または結び柏。出囃子は「ああそれなのに」、または「芸者ワルツ」。風貌が「フランシスコ・ザビエル」に似ているため、1991年10月から1995年3月まで『ハイ!可朝ですABC』(朝日放送)で自身初の帯ワイド番組のパーソナリティを務めていた時に「ザビエル可朝」と呼ばれていた。『笑点』(日本テレビ系)では正月スペシャル恒例「東西大喜利」の西軍常連メンバーである。公認候補者として所属した自由連合では政策審議会審議委員を務めた。大学入試に失敗、3代目染丸に師事したが、短期間で破門されている。その後、染丸に米朝を紹介され再入門、自ら「桂小米朝」の名を提案した。「小米朝」を名乗った理由は、誰が見ても米朝の身内と分かることと、字画が良かったからである(小が三画、米が六画、朝が十二画と倍々になっており、末よろしいと改名時に相談した占い師に言われた)。なお丁度この頃、腹話術師等をしていた斎田けんじ(後の3代目桂米紫)が米朝に弟子入りを志願し米朝の内諾を得て、落語家に転向すべく前の師匠の説得にかかっていた最中であった。このため後年両者のどちらが一番弟子となるのかで揉めに揉め、ようやく朝丸(現在の2代目桂ざこば)が間に入り、年長者の米紫を一番弟子とすることで収拾した。米紫の死後、名実共に米朝一門の筆頭弟子となる。芸能活動も落語以外の仕事が多く、色々な事業を試みるなどして、落語家としての立ち位置が不明確であり、また不祥事も少なくない。師である米朝や米朝一門としても疎遠ぎみであるため、惣領弟子とはみなされていない。結局3番弟子の2代目桂枝雀が惣領代行となるが、1999年に死去し、現在は4番弟子のざこばが事実上の惣領である。小米朝時代、後に小米朝を襲名する師匠の息子(現5代目桂米團治)を平日午後に預かったとき、大阪・千日前の大劇アルバイトサロン(現在のキャバクラに相当する風俗業)に連れて行ったという。これは閑散期である平日日中に入場したため安く飲食できたことと、子供を連れてくることでホステス達のウケも良く、また店より玩具を貰える(=玩具代が浮く)ことがその理由。1967年ころ、吉本興業の社長・林正之助は、自社の専属落語家の名前に「小」が付いているのが気に入らないと、改名を促した。小文枝(のちの5代目文枝)は他社に文枝と名乗る落語家がいないことや、まだ文枝という大名跡を継ぐ時期ではないことを理由に固辞。しかし小春団治と小米朝は他社に春団治・米朝がいるため改名することとなり、折角ならば箔をつけようと、京都出身の小春団治は上方(京都)落語の祖といわれる露の五郎兵衛から「露の五郎」(2代目。のちに2代目五郎兵衛襲名)に、小米朝は長年途絶えていた桂派の由緒ある亭号「月亭」を復活させ月亭可朝(初代)にそれぞれ改名した。ギター漫談で売り出したため落語は演じないと思われがちだが、実は本格派の古典落語の演者であり、特に人間の業を描かせたような「算段の平兵衛」が得意ネタである。他に「坊主茶屋」「動物園」「色事根問」「鳥屋坊主」「親子酒」「夢の酒」「秘伝書」「世帯念仏」「餅屋問答」「次の御用日」「野ざらし」など、持ちネタも多い。その高座は端正で、淡々とした味わいがある。特にその歯切れの良い語り口は、可朝が米朝門下であることを聞き手に自ずと知らしめる魅力がある。但し、その端正な古典の口演と比べて、枕には下ネタを振ることも多い。かつて劇場で「ほんまにほんまでっせ」だけのフレーズをしゃべり続け爆笑を取るものの、遂にはそれしか言わずに高座を降りてしまったことや、出前で注文したうどんを高座で食べてそのまま出番が終わったこと、また高座で寝転がり本当に寝てしまい、それだけで出番が終わったことなどがある。2008年7月1日の「可朝・福團治二人会」により、初めて天満天神繁昌亭の高座に上がり、「住吉駕籠」を演じた。同年8月1日の2回目には、大師匠・4代目桂米團治が得意とした「怪談市川堤」をカンカン帽を脱いで演じ、鬼気迫る高座を見せた。その後は不定期出演ながらも、昼席の中トリ・大トリも務めている。上記のストーカー事件により、桂三枝(現・6代桂文枝)・上方落語協会会長の命で昼席出演は謹慎となったが、2009年1月16日の「可朝・福團治二人会」3回目に出演して「餅屋問答」を披露し、繁昌亭への高座復帰となった。立川談志は終生可朝の落語やエンターテナーぶりを評価し、可朝が度重なる騒動を起こしマスコミから批判されるたびに擁護し続けていた。談志と可朝の出会いは笑点の大阪収録であったが、その晩宿舎で談志を含め、桂歌丸、林家こん平、5代目三遊亭圓楽らと賭博に興じ、可朝が一人勝ちをして談志らを驚かせたという。この後、可朝は桂米朝から叱責を受けるが、談志が可朝を庇ったため、そこから親しくなったとされている。初代司会者:(開始 - 1980年3月) - 不祥事を起こして急遽降板。基本的に、「可朝一門」と呼ばれる。(「月亭一門」と言えば、八方一門を指すことが多い)。自分の弟子たちの命名に際してはすべて「八」ないしカタカナの「ハ」の字を付けていた。これは、恩人である八田竹男(元吉本興業社長)に因むもの。ただし、吉本脱退後にとった末弟子のみ自分の一字をとって「可林」とした。可朝の弟子に対する態度は、自由尊重に近く、八方が可朝に入門した理由の一つも「すぐに高座に出られそうだから」で、実際に入ってすぐに高座に出られた(ただし、八方は厳格な一面を持つ。この件については月亭八方を参照)この教育方針は、弟子の個性尊重にも繋がっており、一門のうち、八方は自作と古典、更にはタレント活動、ハッピーは音楽を取り入れ、ハッチは古典を演じるなど、師匠・可朝の持つ多面性が弟子達に分かれて受け継がれていると言える。孫弟子の八光は可朝に弟子入りするつもりだったが、八方と八光が兄弟弟子になりややこしくなること、可朝自身がその頃既に吉本興業との契約を解消して他の事務所へ移籍した後であったため、親子での仕事がしづらくなるなどの理由や「父に面倒を見てもらえばよい」と言う可朝の考えもあり却下された(ただし、親子で兄弟弟子というのは、三遊亭好楽・王楽、2代目・3代目桂春蝶の例がある)。
出典:wikipedia
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