藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。花山天皇退位事件で父兼家の意を受けて宮中で活動。甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。娘の定子を女御として入内させ、後に中宮となす。父兼家が死ぬと後を継いで関白となる。朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男の伊周を後任の関白にと願うが、天皇からは許されず、薨去した。父の兼家は円融天皇に道隆の同母妹の詮子を女御として送り込み、詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を生んでいた。また、同じく同母妹の超子は冷泉上皇の女御となり、居貞親王(後の三条天皇)を生んでいた。永観2年(984年)8月、円融天皇が花山天皇に譲位すると、道隆は従三位に叙せられ、東宮となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。花山天皇の外祖父は兼家の亡兄の伊尹で、伊尹の子の権中納言義懐が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。寛和2年(986年)、兼家は策を講じ、寵妃を失って落胆していた花山天皇を三男の道兼がそそのかして内裏から寺へ連れ出し、騙すようにして出家させてしまった。天皇が消えて宮中が大騒ぎになっている間に、道隆は弟の道綱とともに神璽宝剣を東宮御所へ運び込む役割を果たした。そして、速やかに懐仁親王が即位した(一条天皇)。一条天皇の外祖父の兼家が摂政となり、嫡男の道隆は正三位権中納言から従二位権大納言へ一気に引き上げられた。永延3年(989年)2月内大臣を拝す。道隆はこれ以上官位が進むのを望まなかったようで、この間、永延元年(987年)10月、従一位に昇叙されるべき所を、嫡男伊周の正五位下叙爵のために譲っている。永祚2年(990年)正月、道隆は長女の定子を一条天皇の女御として入内させた。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで摂政となった。7月、父・兼家が薨去する。『古事談』などによると、兼家は自分の後継をどの息子にするかを腹心の藤原在国(後の有国)、平惟仲、平国平と諮った。在国は胆力のある三男の道兼をふさわしいとした。一方、惟仲、国平は嫡庶の序によって長男の道隆を推した。結局、後継は道隆となり、この話を知った道隆は在国をはなはだ憎み、関白職に就くと直ちに在国父子の官を奪った。10月に定子を中宮とし、帝の外舅となった。正暦2年(991年)内大臣の官を辞して道兼に譲った。正暦4年(993年)4月22日に再び関白となる。正暦6年(995年)正月、次女原子を皇太子居貞親王の妃とし、後宮政策の強化を図った。だが、それから程無く、道隆は病に伏し、長徳元年(995年)3月9日、一条天皇に請うて嫡子の内大臣伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとしたが、病中の内覧のみ許され、伊周に関白の位を譲る事は許されなかった。4月3日、関白を辞し、伊周の関白就任を再度奏上したがかなわなかった。同6日出家し、10日薨去。享年43。死因については、当時流行して多数の貴族の命を奪った疫病ではなく、酒の飲みすぎなどからきた飲水病(糖尿病)の悪化が偶々この時期に重なったものと見られている。道隆没後、その遺志に反して弟道兼が関白となり、以後、中関白家の急速な衰退が始まった。『大鏡』や『枕草子』などによれば、道隆は大酒飲みで、軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、不羈(「ふき」=自由気まま)な一面もあった。『大鏡』は、藤原済時・朝光を飲み仲間とし、道隆たちが酔っ払って人前で烏帽子を外した頭を晒した話や、亡くなる際に念仏を薦められたが、極楽で飲み仲間の済時や朝光と再会することを喜んだ話を伝えている。その一方で、容貌が端正だった上に、人への気配りが行き届く気の広さを持ち、薨去直前に宣命を伝えに来た蔵人頭・源俊賢は、彼の優れた立ち居振る舞いを後々まで忘れずに口にかけたという。大鏡の福足君と道隆の項では兼家の六十歳の賀で舞台に上がってから舞うのを嫌がった福足君(道兼の長男)を見て道隆が甥をとらえて共に舞い誰もが感嘆したという。山城守藤原守仁の娘との間に第一子の権大納言道頼を儲けたが、道隆は貴子(高内侍、高階成忠の娘、儀同三位母)との間に生まれた、内大臣伊周・中納言隆家・権大僧都隆円・皇后定子ら諸子女を嫡系として優遇した。これは貴子が定子を始めとする后がねとなる娘を4人産んだ事が大きいと思われる。隆家の子孫からは水無瀬家と坊門家が堂上家に列した。坊門家は室町時代に断絶となったが、水無瀬家は分家も含めて羽林家として5家を輩出して明治維新まで続き、各家は子爵に列せられた。
出典:wikipedia
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