家島諸島(いえしましょとう)は、瀬戸内海東部の播磨灘(姫路市から沖合い約18km)にあり、東西26.7km、南北18.5kmにわたり大小40余りの島嶼で構成される諸島。諸島全域が兵庫県姫路市に属し兵庫県の淡路島・香川県の小豆島・本州に囲まれている。面積は19.7平方km、人口は約8000人。家島諸島の内、名前の付けられた島は27有る。このうち人々が住むのは家島・坊勢島・男鹿島・西島の4島。日本の気候区分でいう瀬戸内海式気候に属する。平均気温(家島)は2月4.8℃ - 8月26.5℃と温暖。降水量は国内では比較的少なめ。家島諸島には旧石器時代から弥生時代にかけての遺跡が見られ、これらの時代には既に人々が居住していたようである。1959年(昭和34年)には三笠宮崇仁親王を名誉団長とする調査団が1万年 - 2万年前の石器を太島で発見している。また西島のマルトバ浜からは6世紀頃の箱式石棺を持つ20基近い古墳群が見つかっている。家島の名の由来としては、『播磨国風土記』揖保郡の条に「人民、家を造りて居り、因って、家嶋と呼ぶ」とあり、現在の家島諸島を「伊刀島」と総称していたことが記されている。神武天皇東征伝説において嵐を避けてここに寄港した際に波の静かさを家の中のようだと例えたという説もある(波の静かさを家に例えた点では、同じ播磨灘の室津と似ている)。『延喜式』に家島神社の名前が見え、牧場に30頭の馬を放したとも描かれている。中世以降は揖東郡に属し、海運が盛んであったという。江戸時代には姫路藩領として、真浦・宮浦・坊瀬浦を合わせて家島一村として対岸の宇佐崎組大庄屋の元にあったが、一時期宮浦の高島家が大庄屋を務めたことがあった。1879年(明治12年)に揖東郡から飾東郡に変わり、1889年(明治22年)に家島村、1928年(昭和3年)に家島町となる。離島ゆえに飲み水の便が悪く、赤穂からの水運搬船や海水淡水化施設などでしのいでいたが、1984年(昭和59年)に赤穂からの海底送水管が開通している。近代以降2006年(平成18年)3月27日までの歴史は家島町の歴史の項目を、2006年(平成18年)3月27日以降の歴史は姫路市の歴史の項目も参照。採石と漁業、海運業が主である。漁獲量は兵庫県一で周辺で捕れた魚を姫路へ運ぶのみならず、1954年(昭和29年)ごろからはハマチの養殖も行われている。採石は高度経済成長期には西島や男鹿島から切り出された石が護岸工事や海面埋め立てのために運び出されていった。また、これらの石材を運搬する船(ガット船)が多く往来する事から中小の造船や船の修理も盛んである。姫路港より連絡船を使用する。姫路港までは神姫バスで、姫路駅南口から94系統姫路港行き乗車、終点下車。あるいは姫路市街から、兵庫県道62号姫路港線(産業道路)及び国道436号で姫路港へ。家島へは高速いえしま(姫路⇔真浦)または高福ライナー(姫路⇔真浦⇔宮)、男鹿島、坊勢島(奈座港)へは坊勢汽船(姫路⇔男鹿島⇔坊勢島⇔西島)またはラピート桂(姫路⇔坊勢島)。男鹿島は通過便もあり。以前は(家島町と合併する前の)姫路市に本社を置いていた家島汽船も運航されていたが、2005年(平成17年)5月末をもって自己破産・廃業している。家島本島では観光用の電動自転車の貸し出しを行っている。家島には家島コミュニティバスが運行しており、坊勢島では坊勢コミュニティバスが運行している。
出典:wikipedia
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