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菅原明朗

菅原明朗(すがはら めいろう、Méireaux Sœgaharat、1897年(明治30年)3月21日 - 1988年(昭和63年)4月2日)は、日本の作曲家、音楽の教育者、指導者、啓蒙家。本名は吉治郎。兵庫県明石市大蔵町生まれ。菅原道真の菅原氏の末流。プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習った。1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島洋二に学んだ。画学校に通うかたわら作曲家の大沼哲に師事し、1915年(18歳)より作曲を発表。また、大田黒元雄・堀内敬三等の「新音楽グループ」に入り、雑誌「音楽と文学」同人となった。1917年(20歳)、武井守成主宰のマンドリン楽団、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、また、「軍艦行進曲」で有名な瀬戸口藤吉に対位法を学んだ。1924年(27歳)初夏より1年あまり同志社大学マンドリン倶楽部の指揮をとり、1926年(29歳)、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」の指揮者となった。この頃から、音楽作品が認められるようになった。当時のマンドリンオーケストラの編成は巨大化する傾向にあり、菅原の代表作「内燃機関」もフルート、バスクラリネット、トロンボーン、ピアノ、ハーモニウム、打楽器を加えたものであった。しかし1932年に「雑感」という文章を発表し、本格的な管弦楽の普及により、その代用としての巨大化したマンドリンオーケストラの役割は終わったとして、新しいマンドリンオーケストラの在り方を模索するよう主張し、マンドリン音楽界から去った。その一方で1930年(33歳)、私立「帝国音楽学校」の作曲科主任教授となり、また、箕作秋吉、清瀬保二、橋本国彦、松平頼則ら16人と「新興作曲家連盟」を、さらに、1936年、門下の深井史郎らと「楽団創生」を結成した。1938年、歌劇「葛飾情話」の上演後、そのときのアルト歌手、ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、彼はフランス流の新風を吹き込んだが、1930年代中ごろからはイタリア音楽に接近し、チマローザやピツェッティに傾倒した。指揮活動は、自作の指揮ばかりでなく、たとえば1942年には、アルチュール・オネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」を松竹交響楽団により日本初演している。戦後はグレゴリオ聖歌に影響を受けた作品が多く、またキリスト教に関連する作品も多数残した。さらに1963年に神戸で活動する関西マンドリン合奏団と出会ってマンドリン界に復帰し、最晩年まで関西マンドリン合奏団のために多くの作曲や編曲を行った。1967年の最初のイタリア旅行以降、彼はたびたびイタリアに長期滞在し、ピツェッティと親交を深めた。長寿の最期まで現役で、ハーモニカ奏者の崎元譲やアコーディオン奏者の御喜美江など若い演奏者のために作品を提供した。1988年4月2日(91歳)、「ヨハネの黙示録」に基づいたカンタータの作曲中に、急死した。350もの作品の楽譜は、戦災で失われたものが少なくないが、一部は国立音楽大学付属図書館に保管されている。以下年代順に作品名を羅列する。作風の変遷がうかがえる。歌劇『葛飾情話』の台本は、永井荷風が書いた。1937年(昭和12年)暮、銀座で知りあった荷風に、翌1938年春、菅原が依頼したのである。その5月、浅草オペラ館で10日間上演し、好評であった。菅原は、そのときのアルト、、夫妻ぐるみで荷風と交わるようになった。太平洋戦争末期の食糧不足の時期、夫妻は訪れくる独り者の荷風を、しばしばもてなした。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲に罹災した荷風は、夫妻を頼って、同じ東中野のアパートの別室に住み、夕食はともにした。アパートは5月25日の空襲に焼け、3人は菅原の郷里明石市へ向かい、さらに菅原の旧知が疎開していた岡山市へ移った。そこで6月29日に重ねて罹災し、山の手に転じ、8月15日を迎えた。そして、「3人で一緒に帰る」という口約束にそむき、荷風が先に勝手に上京したことから、付き合いにひびが入った。それでも菅原はときたま荷風を訪ねたが、智子が顔を出したのは、荷風の葬儀のときであった。

出典:wikipedia

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