南蛮(なんばん)あるいは蛮(ばん)は、四夷のひとつであり、中国大陸を制した朝廷が南方の帰順しない異民族に対して用いた蔑称である。日本でも当初は同様の意味で用いられていたが、15世紀にヨーロッパ人との南蛮貿易が始まって以降は、主にヨーロッパや東南アジア・スペインやポルトガルの文物や人物を指す語となった。「蛮」は、本来は中原で都市文明を営んでいた漢民族が、南に住む未開民族に対する呼び名であったが、やがて中華思想における四夷のひとつとなり、中国大陸を制した国が南西方面の帰順しない異民族に対する呼称となった。「蛮」という漢字は、部首に「虫」を用いて、人ではないことを示した悪字である。現在でも、「野蛮」「蛮族」「蛮行」などの熟語が、粗野であるという意味を込めて用いられている。異民族支配の時期でも「南蛮」という蔑称の概念を継続したように、先進文明としての中華に相対する蔑称である。諸葛亮の南中平定(南蛮平定)について、『三国志演義』や『華陽国志』で言及された南蛮は、雲南の彝族である。ただし、正史『三国志』の該当箇所には、南蛮という表現はない。13世紀、元が南宋を征服して中国全土を支配すると、モンゴル人は遼や金の遺民である華北の住民を「漢人」、南宋の遺民である江南の住民を「南家」と呼び、キタイ人(遼・金の遺民)は南シナの住民を「蛮子」の蔑称で呼んだ。モンゴル人や色目人と比べて、漢人や南人は公職への登用が限定されていた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、中国北部のことを「キタイ」、中国南部のことを「チーン」と呼んでいる。中華思想は日本にも取り入れられ、「蛮」という語は『日本書紀』の時代には朝鮮半島南部の未開地や薩摩の西の五色島、薩摩七島、琉球を指す語として用いられた。16世紀、ポルトガルとスペインのイベリア半島諸国が、インドから東南アジア一帯の港湾都市や島嶼域の貿易拠点の一部に植民地を得て、交易圏を日本にまで伸ばしてきた。これらの諸国と日本との南蛮貿易が始まると、貿易によってもたらされた文物を「南蛮」、「南蛮渡来」と称するようになった。やがて、本来は人に対する蔑称であった「南蛮」が、侮蔑語というよりは、異国風で物珍しい文物を指す語(昭和初期までの「舶来」と同義)として使われるようになった。同時に、人に対する呼び名としては南蛮人(なんばんじん)という言葉が生まれた。南蛮と同類の言葉に紅毛があり、南ヨーロッパ系の南蛮に対し、北ヨーロッパ系のイギリス人やオランダ人を意味した。現代の日本では、長ネギや唐辛子を使用した料理関連の言葉に「南蛮」の語が使われることが多い。「南蛮料理」という表現は、16世紀にポルトガル人が種子島にやってきた時代以降、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた。それらに描かれる料理の意味は、キリスト教宣教師らにより南蛮の国ポルトガルから伝わった料理としての南蛮料理と、後世にオランダの影響を受けた紅毛料理や、中華料理の影響、さらにはヨーロッパ人が船でたどったマカオやマラッカやインドの料理の影響までを含む、幅広い西洋料理の意味で使われてきた場合の両方がある。南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものと思われる『南蛮料理書』がある。また、主に長崎に伝わる「しっぽく(卓袱)料理」と呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理に、南蛮料理は取り込まれていった。唐辛子は別名を「南蛮辛子」という。「南蛮煮」は肉や魚をネギや唐辛子と煮た料理である。「南蛮漬け」はマリネやエスカベッシュが原型とされている。「カレー南蛮」や「鴨南蛮」の「南蛮」は、前述の「唐辛子」やネギのことを指しており、唐辛子の入ったカレースパイスとタマネギや長ネギが使用されている。文政13年(1830年)に発刊された古今の文献を引用して江戸の風俗習慣を記した嬉遊笑覧には鴨南蛮が取り上げられており、「又葱(ねぎ)を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり」と記されている。
出典:wikipedia
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