赤松 政秀(あかまつ まさひで)は、戦国時代の武将。播磨国龍野城主。祖父と同様、宇野下野守とも称される。播磨龍野城主・赤松村秀の子として誕生。天文10年(1541年)、父・村秀が死去し、跡を継ぐ。政秀は智勇に優れた人物で、赤松晴政の嫡男・義祐を擁する浦上政宗に置塩城を追われた晴政を保護し、永禄9年(1566年)に政宗を討つなど、赤松氏の再興に尽力した。主家である赤松義祐との関係は決して良好ではなく、庇護していた晴政が病死すると義祐と一時的に和睦したが、やがて対立し独立勢力化し、室町幕府15代将軍・足利義昭及び織田信長との同盟を画策し義祐と対立した。また、浦上氏の同盟者であった小寺氏とはその後も激しく対立し、東播磨の実力者である別所安治と手を結んで、小寺政職やその家臣・黒田職隆と戦い、西から侵攻してきた政宗の弟の浦上宗景(ただし政宗とは別家)とも戦った。しかし、小寺氏の家臣・黒田孝高の奇襲により大敗し、多くの有力家臣が戦死した(青山・土器山の戦い)。軍事的な抵抗力を失った政秀は浦上氏の前に降伏を余儀なくされ、永禄12年(1569年)11月に宗景に降伏。西播磨における覇権を失う。元亀元年(1570年)11月12日、毒を盛られて暗殺された。浦上宗景の手の人間に毒殺されたという。
出典:wikipedia
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