高天原(たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら、たかまのはら、たかまがはら)は、『古事記』に含まれる日本神話および祝詞において、天津神が住んでいるとされた場所のことで、有名な岩戸の段も高天原が舞台である。原文は漢文であるため、どの訓が正しいかはある程度推測にとどまる。ただし、『古事記』冒頭には「訓高下天云阿麻下效此」とあり、天は「アマ」と読むように指定がある。通常は、「たかまがはら」という格助詞「が」を用いた読み方が一般的であるが、この読み方が広まったのは歴史的には新しいとされている。『古事記』などでは、地上の人間が住む世界である葦原中国や、地中にあるとされる根の国・黄泉に対し、天上界にあった、と記述された。古くから神話に書かれていることを現実だと見なして解釈しようとする人たちがおり、大和、九州、北陸、富士山他(後述)、実在の場所であったとの説も多数となえられた。『古事記』においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所としてその名が登場する。次々に神々が生まれ、国産みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていたと推測される。天照大神が生まれたときに、高天原を治めるよう命じられた。須佐男命にまつわる部分では、高天原には多くの神々(天津神)が住み、機織の場などもあったことが記述されており、人間世界に近い生活があったとの印象がある。葦原中国が天津神によって平定され、天照大神の孫のニニギが天降り(天孫降臨)、以降、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとしている。『日本書紀』においては本文にはほとんどみえず、わずかに神代紀第一段の第四の一書と養老4年(720年)に代々の天皇とともに持統天皇につけられた和風諡号「高天原廣野姫天皇」にある。平安時代『古語拾遺』本文では1箇所天孫降臨の神勅と、他に祝詞説明の注に、奈良時代『風土記』では『常陸風土記』冒頭2語あるのみである。比較的新しい『霊界物語』では至美天球とも書かれ、輝き広がる宇宙の清い中にも清い光の霊界と描かれた。縷々難解な内容で高天原の解説や物語の約束事も変わっており岩戸の段なども新たに長く大きく記されている。高天原の所在地については古来より諸説あり、古事記における神話をどうとらえるかによりその立場が大きく異なる。「高天原は神の住まう場所であるから、天上や天より高い宇宙に決まっており、それ以外の場所を考えるのは不遜である」とする説。本居宣長の説が代表的なもので、戦前は皇国史観と結びついてこの考え方が主流であった。「神話は何がしかの史実を含んでおり、高天原も実在したものを反映している」とする説。現在の歴史学では一般には避けられるが、前近代には有力視され、現在も研究家の説によく見られる。新井白石の説が代表的なもので「高天原とは常陸国(茨城県)多賀郡である」とする。地上説にはさらに国内説と海外説がある。国内説の中には、邪馬台国と高天原を関連付けて考える説もある。海外説の代表的なものは中国南部説である。新井白石が常陸国説を唱えるまで、京都朝廷では高天原は大和国葛城だとされていた。所謂、高天原はヤマト発祥の地として考えることが地上説である。神事においても、降神の儀・昇神の儀があるように、神々は常に我々を見守っておられる。高天原について、天上界に存在することはもちろんだが、歴史上、八百万の神々が地上界の何処かに降りられて仮住まいされていた時期はもちろんある、とする説で、いわゆる高天原を「ヤマト発祥の地」と考える説である。神話は作られたものであるから、そこに出てくる高天原について「どこにあったか?」などと考えること自体が無意味であるとする説。山片蟠桃の説が代表的なもので、『古事記』における神代のことは後世の作為であるとする。戦後主流となっている津田左右吉の史観はこの考え方に基づく。現在でも多くの学者は、高天原神話は支配階級のことを「天上界に由来するが故に尊い」とする信仰を語ったものであるという説に与しており、思想的には異なるものの先の天上説と実質の意味合い的には近い。
出典:wikipedia
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