“トニー”アントニオ・バナザード・ガルシア(Antonio "Tony" Bernazard Garcia , 1956年8月24日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(内野手)。にモントリオール・エクスポズと契約。7月13日の対サンディエゴ・パドレス戦でメジャーデビュー。メジャーでは1000試合以上出場している。、南海ホークスに入団。巧みなバットコントロール、小柄ながら俊足巧打で長打力もある三拍子揃ったスイッチヒッターで、来日1年目の1988年に28試合連続安打を記録(1993年に横浜ベイスターズのグレン・ブラッグスに抜かれるまで、外国人選手における連続安打記録だった)し、打率.315を記録。球団名がダイエーとなったは打率こそ3割を下回ったものの34本塁打を放ったり、10月6日のロッテ戦ではプロ初となるシーズン2度目の1試合両打席本塁打を放った。しかし、は同年からは監督に就任した田淵幸一との確執、平凡な成績に終わり、同年限りで退団。来日初年度の88年は、打撃だけではなくセカンドの守備力でもチームに大いに貢献したが、90年シーズンには守備範囲が狭くなったことからサードや指名打者での出場が増加し、また故障の影響もあり、本来はスイッチヒッターであったが、右投手に対しても右打席に入るようになっていた。ダイエー退団後のにデトロイト・タイガースでメジャー復帰を果たすものの、不本意な成績に終わり、同年限りで現役引退。現役引退後は代理人として活躍。その後、メジャーリーグ選手会(MLBPA)専務理事補佐を経て、からはニューヨーク・メッツでGM補佐などを務めていたが、にマイナーリーグの選手に中傷、暴力行為、またメッツの選手との口論など数々の悪態が報道されたため、2009年7月27日付で解雇された。2014年には、8月19、20日の西武戦(福岡ヤフオクドーム)で開催するイベント「福岡クラシック2014」に、初代ダイエーOB助っ人としてウィリー・アップショーと共に招聘を計画されていたが実現しなかった。同僚の助っ人ライトと同様、非常に気性が激しく、審判の判定に激昂したり、乱闘騒ぎを起こすことが多かった。1988年には8~9月だけで3度の退場処分を受けている。1989年以降は退場こそあるものの乱闘をはじめ大きなトラブルは起こしていない。これは、1シーズンの退場記録では当時の日本記録であった。その他、退場にはなっていないが、1988年の対ロッテ戦でジョージ・ライトが荘勝雄から受けた死球を巡って乱闘になった際は、当事者ではないのにもかかわらずロッテの選手に暴行を働いたり、、東京ドームでの対日本ハム戦では西村基史がウィリー・アップショーへ死球を与え大乱闘となった際にも他所で若菜嘉晴と殴り合いをしていた。またその人相だけで相手投手を怖がらせる程であり、登板中の武田一浩(日本ハム)の元に自分のスイング後にすっぽ抜けたバットが飛び、普通ならグラウンドインしてしまったバットは一・三塁のコーチが受け取りバッターに渡すものであるが、この時はバナザードが直々にマウンドまで、しかも小走りなどでなく武田の顔をじっと睨みながらゆっくりと歩を進めたため、武田が非常に動揺している様子がテレビ番組で度々珍プレーとして紹介されていた。気性の荒さとは対照的に、1989年にロッテのマイク・ディアズがダイエーの山内和宏から死球を受け、乱闘になった際はアップショーと共に暴れるディアズをなだめていた。また飲酒も喫煙もせず練習態度も真面目だったという。1988年6月に近鉄バファローズのリチャード・デービスが大麻使用のために解雇された際、当時の南海の杉浦忠監督は、インタビューで、「ウチの外人は2人とも、酒もタバコもやらずに練習も真面目に取り組むので、その点は本当に良かった」とコメントしている。
出典:wikipedia
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