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フェルナンド・セギノール

フェルナンド・アルフレド・セギノール(Fernando Alfredo Seguignol , 1975年1月19日 - )は、パナマ出身の元プロ野球選手(内野手)。ヤンキース3A、エクスポズなどを経て、にオリックス・ブルーウェーブに入団。一塁手または指名打者として出場し、5月5日の大阪近鉄バファローズ戦と翌5月6日の千葉ロッテマリーンズ戦で2試合連続左右両打席本塁打を記録、更にこの年の7月26日にもシーズン3度目の左右打席本塁打を達成(ともに日本プロ野球史上初)。オリックス入団前は「大崩れしないコンスタントな成績」、「スイッチヒッターの中距離打者」という触れ込みであったが、実際は当たれば飛ぶがめったに当たらないという粗っぽい打者であり、打率は2割を超えるか超えないかという低空飛行で、4番を打っていた時期もあったがすぐにレギュラーも危うくなった。貧打に喘いだチームにとって23本塁打は中軸としての役割を果たしたが、打率は.204と結果を残せず、首脳陣との対立もあり限りでオリックスを解雇された。にヤンキースの傘下の3Aに所属し、本塁打と打点の2冠王を達成。メジャー再昇格も果たした。それを見込まれ翌年に北海道日本ハムファイターズが獲得した。開幕直後の打率は4割を大きく越え、4月の月間MVPを受賞。それ以降も並外れたパワーで、広い札幌ドームで本塁打を量産していった。この年は打率.305、本塁打44本、打点108で福岡ダイエーホークスの松中信彦と同数で本塁打王を獲得し、ベストナイン(指名打者部門)にも選ばれた。2005年は前半戦はいまひとつ調子が上がらず、7月までには16本しか本塁打を打てなかったが、後半戦になると調子を上げ、8・9月だけで15本と本塁打を量産した。前年110三振を記録したが、この年は更に30個以上多い141三振を喫した。チーム全体でも1151三振を喫し、チーム三振数のプロ野球記録を作る一因となった。2006年は前半戦に極度の不振に陥り、一時は稲葉篤紀に4番の座を譲ることもあった。本塁打・打点は前年より少なく物足りなかったが、優勝争いを繰り広げていた9月に4割・8本塁打と驚異的に盛り返し優勝に貢献した。日本シリーズで日本一になった際には歓喜の輪に入りながら人目をはばからず号泣していた(輪の中で同じく泣いていた新庄剛志と慰め合っていた)。アジアシリーズは下述の通り出場していない。オフには日本ハム球団が2006年シーズンの契約に契約終了後の優先交渉権を盛り込んでおらず、また、セギノールの代理人とは契約終了前の11月中には一切連絡が取れない状態だったため、同年12月1日に日本ハムの支配下を一旦離れフリーエージェント(自由契約)となった。日本ハム側はそれ以後も残留に向けた交渉を行い、他球団からのオファーも無く、に入ってから金銭及び契約年数で双方の歩み寄りがあり、再契約を結んだ。はシーズン通して不振で調子が上がらず打率.249・本塁打21本と低調な成績に終わってしまった。日本シリーズでは打率.333を記録、2本塁打を放つも、2億6800万と言う高年俸もネックとなり、来季の契約更改は行わない方針を球団が掲げ、この年限りで退団となった。その後オリックス・バファローズや横浜ベイスターズが興味を示したが、獲得には至らなかった。3月、コロラド・ロッキーズとマイナー契約を結ぶも、開幕直前に戦力外通告される。その後、メキシカンリーグを経て、デトロイト・タイガース傘下の3A・トレドでプレー。同年7月、東北楽天ゴールデンイーグルスと契約。背番号は日本ハム時代と同じ5。なお、楽天の背番号5は9月にエリック・バレントが解雇されて以来、球団と野村克也監督の方針で空き番となっていたため、入団決定と同時に背番号5を貰うことができた。8月にチームに合流してからは、持ち前のパワーを遺憾なく発揮。(打撃のインパクトの瞬間「ハウッ」と雄叫びを上げながら本塁打を打ったことも)9月には月間MVP(パ・リーグ打者部門)に輝いた。最終的にはわずか39試合の出場ながら、打率.324・本塁打13本・打点40点の好成績を収めた。12月、球団からシーズンの契約が合意に達したことが発表され、同年も楽天でプレーすることが決まった。は開幕戦に4番ファーストでスタメン出場。開幕1打席目でダルビッシュ有から両リーグ一番乗りとなる第1号2ランを放ったが、打率が.165と2割にも満たないなど極度の不振が続き、5月24日に一軍登録を抹消された。その後、7月4日に一軍登録されてからは復調し、最終的には打率.253、14本塁打、54打点の成績を残したが、結局、シーズン終了を以って自由契約となり退団。からは米国のプロ野球独立リーグ・アトランティックリーグのニューアーク・ベアーズでプレーしていた。6月3日にオリックス・バファローズと契約。以来、8シーズンぶりに古巣への復帰(ただし球団は合併している)となった。交流戦後の6月18日に一軍登録され、絶好調だった北川博敏に代わり試合に出ていたが、わずか6試合の出場で、打率.130、0本塁打1打点と調整不足を露呈し、6月26日に登録抹消。7月16日に再昇格したが、またも結果は残せず、7月29日に再度登録抹消。その後、一軍に再登録されることはなく、11月11日に自由契約となった。結局オリックスでは2002年同様活躍できず、この年は2002年をさらに下回る結果に終わってしまった。2011年は、アトランティックリーグのランカスター・バーンストーマーズでプレーした。同年12月、読売ジャイアンツの駐米スカウトに就任。2016年2月現在はシカゴ・カブスの国際スカウトを務める。2006年の日本シリーズ終了後、アジアシリーズ前に一度帰国する。そして10月30日、自宅のあるアメリカから日本に再入国しようとするが、母国・パナマ発行の自身のパスポートが10月6日限りで失効していたことが発覚する。就労ビザは有効期限内だったため違法ではなく、事なきを得たが、更新に手間取り、再入国が予定より大幅に遅れて、アジアシリーズへの出場が出来ないばかりか、優勝パレード、ファン感謝デーにも参加不可能になってしまった。参加できなかったセギノールは自宅でアジアシリーズをテレビ観戦した際、このシリーズから復帰した木元邦之を見て「新しい三塁手を取ったのか」というコメントを残している。セギノールと木元はセギノールが日本ハムに入団以来、3年間チームメイトだった。

出典:wikipedia

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