大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。これまでに知られている大逆事件には、の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく大逆罪を犯す犯意程度で有罪とされた。いずれも詳細は、各事件の項目を参照されたい。冒頭のとおり、「大逆」と言えば一般的にはこの事件が指される。堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件。敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下している。信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。社会主義運動はこの事件で、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。いわゆる〈冬の時代〉である。徳冨蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、明治44年(1911年)1月に秋水らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。永井荷風は『花火』の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書いている。また、秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった。帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。また翌明治45年(1912年)6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表した一方、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく。大石誠之助の甥である西村伊作は大石の遺産の一部で文化学院を創設した。このことについて柄谷行人氏は「大正デモクラシー、大正文化というのは、実質的に、大逆事件で死刑になった人の遺産で成立した」と指摘している。1923年12月27日、難波大助が虎ノ門で第48帝国議会の開院式に向かう摂政・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の車に向けてステッキ状の銃を発砲・狙撃し、現行犯で逮捕された暗殺未遂事件。皇太子に怪我は無かったが、隣に座っていた侍従長が顔に負傷。1924年11月13日に大審院で死刑判決。15日に死刑執行。この事件により、第2次山本内閣は総辞職、警視総監・湯浅倉平、警視庁警務部長・正力松太郎らが懲戒免官、難波の出身地である山口県の知事が2か月間の減給となった。衆議院議員で庚申倶楽部だった大助の父難波作之進は即日議員辞職し、山口県熊毛郡周防村(現・同県光市)の自宅で閉門蟄居後、食事を取らず餓死した。1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキスト・朴烈と愛人の金子文子が、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、1925年5月2日に朴烈が、5月4日に文子が、それぞれ大逆罪にあたるとされた事件。1926年3月25日に死刑判決。4月5日に恩赦で無期懲役に減刑されるが、文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年7月22日に栃木女囚刑務所で、文子は看守の目を盗んで縊死。同年7月には内閣転覆を狙った北一輝により取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ獄内での待遇が数か月政治問題化した。朴烈は敗戦後の1945年10月27日に出獄。いまや徹底した反共思想の持ち主であった朴は在日本朝鮮人連盟(朝連、朝鮮総連の前身)への参加を避け、1946年10月に韓国民団の前身となる在日本朝鮮居留民団を結成し、初代団長を1949年2月まで勤めた。帰国後李承晩政権の国務委員を勤めるが、朝鮮戦争の際、北朝鮮へ連行。後に南北平和統一委員会副委員長として活動。朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が1932年1月8日、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件。李奉昌事件、あるいは桜田門不敬事件とも呼ばれ、また日本政府は李奉昌不敬事件と呼んだ。時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。9月30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932年10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。1946年に在日韓国・朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われ、「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウルの孝昌公園に埋葬されている。
出典:wikipedia
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