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よしもと新喜劇

『よしもと新喜劇』(よしもとしんきげき)は、毎日放送(MBS)で毎週土曜日 12:54 - 13:54にテレビ放送されている、吉本新喜劇の喜劇舞台公演中継番組(コメディ番組)である。吉本新喜劇所属のタレントによって行われているコメディ劇のうち、なんばグランド花月にて公開録画されているものを示す。間寛平、今田耕司、東野幸治、藤井隆、山田花子、レイザーラモンHG(住谷正樹)など多くの出演者を売れっ子お笑い芸人として輩出したテレビ番組であり、松竹新喜劇と並び関西喜劇の双璧をなす。放送開始は1962年(昭和37年)9月。長寿番組のひとつに数えられており、演芸・バラエティ番組のジャンルでは日本最長寿を誇る。近畿のほか、中京・中国・四国・九州地方など主に西日本地域で長年放送されており、放送時間が土曜日の昼過ぎということもあって、(放送当時土曜の昼までの授業後)学校から帰宅した後、親子で食事をしながら見る子供も多く、ここでの劇中で使われる言葉がテレビを通じ、子供達の間で流行語となるほどの人気が出た。1997年から、この番組の全国版として「超!よしもと新喜劇」(後に「超コメディ60!」としてリニューアル)が東京のスタジオからゴールデンタイムで放送されていた。しかし、東京向けにアレンジされていたために、関西のみならず全国の新喜劇ファンの評判は芳しくなかったばかりか、出演者の間にも戸惑いが出る状況に陥り、低視聴率のまま短期間で終了したが(詳細は当該番組の項参照)、同番組が新喜劇座員を全国区の番組に出演するきっかけを作った。現在オープニングは、お約束のテーマソングで舞台の緞帳(どんちょう)が上がるものを映すものとなっている。2011年2月ごろまでは出演者とその役柄が高速でスクロールで流れる(スタッフロール)方式だった(役者の名前と顔を一致して覚えてもらうために、舞台に役者が初めて出てきたときも名前が再度表示されることがある)。終了後、緞帳が下りながらのエンドロールとして、出演者とスタッフの一覧が流れる。1990年代後半には、本編終了後に島田珠代などが進行する「玉手箱」のコーナーなど、舞台前や終了後に芸人2人がフリートークするコーナーがあった時期もある。今でも、一連の放送完了後、不定期にイベントや劇団員募集の告知は行われている。現座長は内場勝則、辻本茂雄、小籔千豊、川畑泰史の4人、2014年6月11日からはすっちーを加えた5人であり、2012年5月から2014年6月10日までは、これに副座長クラスの烏川耕一、清水けんじ、高井俊彦を入れた8人の中から1名が、作家と相談しつつ台本を作成する方式を採っていた。なお、通常公演は収録日から2週間程度の間を置いてテレビ放送されることが基本であるが、時事性の強い作品(クリスマスなど季節行事にちなんだモノ等)はテレビ放送を優先するため、公演とテレビ放送の順番は必ずしも一致しない。また、特番などによって放送日が収録日から1ヶ月以上あとになった場合、4本の撮り溜め(ストック)を放出するために「調整週」としてテレビ収録・放送が行われないこともある。2005年秋頃から字幕放送を実施している(一部地域を除く)。(笑い)と(拍手)の部分は人の顔と手の形を施した独自の表示をしている。収録先となる大阪・千日前なんばグランド花月ではHD化工事(期間:2007年2月22日 - 3月17日)が行われた。2007年4月17日 - 23日(5月5日放送)から工事完了により、MBS・CBCの地上デジタル放送ではハイビジョン放送が実施されるようになった。後にネット局に加わったTOKYO MXでは途中からハイビジョン放送を実施。MBSは朝日放送(ABC)と共同で、大阪テレビ放送(OTV)を合弁していたが、これを解消して新規にテレビ局を開局することとなったものの、1959年(昭和34年)の開局当時は大阪・堂島の毎日大阪会館に置かれた本社にスタジオが3つしかなく、しかも上層階に設置された上にいずれも狭小のため使い勝手が悪く局内製作に限界があった。このため、MBSは地場で劇場を所有する興行主と業務提携を交わし、その劇場に放送機材を設置して公開放送を行うことにした。終戦後に舞台演芸から映画館運営へと経営の主軸を移していた吉本興業は、映画の斜陽化を見通し、テレビ時代に見合うコンテンツとして舞台演芸に再参入するべく、大阪・梅田にあった映画館「梅田花月劇場」を演芸場に切り替える計画を進めていた。そこへMBSが大阪地区民放第4局として単独で開局することになり、コンテンツ確保とスタジオ不足を一気に解消できるとして、両社は提携契約を交わした。こうしてうめだ花月がMBSの放送機材設置場所に選ばれた。当時、吉本興業事業部次長だった八田竹男は、テレビ時代の演芸の形として、うめだ花月に観客を集めるため、所属芸人がテレビで名前を売る場を設ける必要があると考え、まったく新しいスタイルの軽演劇を起こすことにした。この軽演劇こそ吉本新喜劇の前身「吉本ヴァラエティ」で、うめだ花月とMBSテレビ双方の大看板になるべく、両社の社運をかけて立ち上げられた。MBSテレビ開局当日となった1959年3月1日、うめだ花月も開場。吉本ヴァラエティの初公演「アチャコの迷月赤城山」が記念番組として生中継された。これがこの番組の源流である。しかし、開局後しばらくはスポンサーが取りにくかったこともあって、新喜劇は不定期放送だった。やがて大正製薬がスポンサーに付き「サモン日曜お笑い劇場」の名前で、日曜正午から45分間に渡り放送された。また、初期(1962年12月2日 - 1963年秋)の頃、当時MBSのキー局であったNET(現:テレビ朝日)をはじめとする同系列全国同時ネットで放送された。しかし、笑いの嗜好がまったく異なる関東では受け入れられず、NETは翌1963年(昭和38年)6月、水曜日昼枠で地元芸人を中心とした『テレビ寄席』を立ち上げる。MBSでは『テレビ寄席』もネット受けするが、今度は逆に近畿圏の視聴者が東京の寄席に馴染めないという理由で低迷。関東での好評によって『テレビ寄席』が日曜正午へ移動した同年10月の改編で、MBSは『テレビ寄席』を、NETも『サモン日曜お笑い劇場』の放送を互いに打ち切りあった。このとき、当時MBS社長だった高橋信三は「江戸笑芸は関西では受け入れられにくい。テレビ寄席の視聴率が低迷するのは当社にとって判りきっていたことで、互いに打ち切り合うという判断は正しかった」と述べたという。高橋の腹心で、後にMBS社長になる斎藤守慶が中心となっていたMBSテレビ営業局は、大正が日曜12時台のNET系全国ネット提供を『テレビ寄席』に一本化する方針だったにもかかわらず、『テレビ寄席』と『日曜お笑い劇場』が同じ放送時間になったという理由で、引き続き『お笑い劇場』のスポンサーとして残るように依頼する(事実上の企画ネット番組)。大正の社長だった上原正吉は最終的に高橋の説得の前に折れ、出稿継続を了承した。これによって『お笑い劇場』は関西ローカルベースでの存続が決まり、『お笑い劇場』の1年前にスタートしていた『スチャラカ社員』で全盛を極めていたABCを追撃する体制を整え、遂には視聴率逆転に成功。これによりMBSの看板番組として、腸捻転解消までこの時間帯の在阪民放トップを独走した。一方のABCは1966年(昭和41年)、『スチャラカ』の担当ディレクターだった澤田隆治は、ABCの局舎移転にあわせてテコ入れを目論むが、これに脚本の香川登志緒が猛反発して番組から降板、翌1967年(昭和42年)4月に打ち切りに追い込まれる。その後もABCは『お笑い劇場』の裏番組として同種のコメディ番組をぶつけてくるが、軒並み視聴率を取れず、1年どころか半年(2クール)持たずに打ち切られるケースが続出して「魔の時間帯」と呼ばれるようになる。さらに、先述の澤田と香川の対立は同じ日曜日の夕方に放送されていた『てなもんや三度笠』に飛び火し、こちらも1968年(昭和43年)4月改編で打ち切られた。これを受けてABCは後続番組(『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』『スコッチョ大旅行』)のスタッフから澤田を外し、これが後に澤田が東阪企画を立ち上げる伏線となった。そして1971年(昭和46年)1月、ABCは現在も続く『新婚さんいらっしゃい!』を開始、旧OTV時代の『ダイラケのびっくり捕物帖』以来14年間に渡った日曜12時台のコメディの放送を一度は諦める。その『新婚さん』も最初は1年以内で打ち切られるのではないかという、半ば諦めムードの中で立ち上げられたとまでいわれている。やがて「○曜お笑い劇場」の名で、地方局にも番組販売という形で再び放送されるようになった。しかし、NET系列局のある地域であっても、中京広域圏では、当時の名古屋テレビや中京テレビではなく、長い間東海テレビ(フジテレビ系列局)で土曜の正午から放送されていた(後に名古屋テレビへ移行)。また、広島県でも広島ホームテレビではなく、広島テレビで放送されていた(1973年頃は土曜日の正午に放送されていた)。状況が一変したのは1975年3月31日、いわゆるテレビネットの腸捻転解消によって、MBSのキー局がTBSに代わった事である。このとき、大正製薬は『テレビ寄席』がまだ関東地区で一定の支持を得ていたこともあって、NET系列での企画ネットによる出稿継続を決定、これにより日曜12時台の大正提供枠を13年間続いたMBSから引き上げてABCへ移行した。こうしてABCで新たにスタートしたのが『日曜笑劇場・あっちこっち丁稚』である。これを受けてMBSは「日曜お笑い劇場」を現在と同じ1時間枠に変更、「花月爆笑劇場」 と番組名を改称。当時正午からだったお昼のJNNニュースをJNN排他協定の絡みで同時ネットしなければならなくなり、開始時間に制約ができたこと、また、日曜日の午後1時台がABCから移行したTBS発番組(『ロッテ歌のアルバム』と『家族そろって歌合戦』)の絡みで使えなくなった こと、さらに、ABCで土曜日に放送されていた『お笑い花月劇場』にぶつける必要性があったことなどから、土曜 15:00 - 15:55に移動させた。そして、大正製薬に代わる地場スポンサーを吉本興業と共同で開拓、番組の継続にメドをつけた。その後、日曜12時台には後続番組だった『がっちり買いまショウ』を移動させるが、JNNニュースによる開始時間の制約で、視聴者の多くがABCの『日曜笑劇場』に流れてしまい、1975年末『がっちりショッピング』に全面リニューアルしたものの、結局1977年(昭和52年)4月改編で終了した。この改編で正午からのJNNニュースがその前の午前11時台に移動し、時間の制約はなくなったものの、MBSは『花月爆笑劇場』を日曜日に戻してABCの『日曜笑劇場』にぶつけることはしなかった。この結果、MBSでは日曜日12時台の番組が、数か月で目まぐるしく変わっていき、1960年代後半のABCも真っ青の『魔の時間帯』となった。その結果、1979年0月改編で自社制作枠を返上してTBS制作番組のネットに変更、『ダイラケ』以来21年に渡ったTBS系列・日曜12時台の関西発バラエティ番組の歴史が途絶える事になった。視聴率面でも『アッコにおまかせ!』がスタートする1985年まで苦戦を強いられ続けた。その後、『花月爆笑劇場』は土曜12時台に再度移動し、現行の「よしもと新喜劇」のタイトルに変更される。1987年(昭和62年)、なんばグランド花月(NGK)が開館するが、当初NGKでは新喜劇興行は行われず、うめだ花月での興行、収録が続けられた。同じ頃ABCは『The ハタラケ興業』の打ち切りを持って一度は『日曜笑劇場』としての新作制作を中止、『お笑い花月劇場』を土曜日から日曜日に移動したものの翌1988年(昭和63年)4月改編で打ち切り、5月にはなんば花月も閉鎖された。しかし1989年(平成元年)の「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」で若手中心の「ニュー新喜劇」チームがうめだ花月からNGKに移動。翌1990年(平成2年)3月、うめだ花月が閉鎖され、当番組の公開録画の会場も長年慣れ親しんだ梅田から難波に移動した。2001年(平成13年)4月改編で、土曜日の午前にローカル生ワイド『せやねん!』がスタートすると、12時台もそちらに充てられることになり、『せやねん!』終了後の午後1時台の放送に変更され、現在に至る。出演者は毎回異なる。末尾の※印は座長(座長として出演しない場合もある)。なお、端役等すべての劇団員の氏名は「吉本新喜劇」の座員を参照のこと。ルミネオープン時にNGKから拠点を移したメンバーなお○印のメンバーはルミネでの座長現ルミネ、元NGKメンバー被配信局では、本編終了後に名珍場面集が放送される。そのほかにも、不定期でネットされる場合がある。2009年(平成21年)9月12日にMBSローカルの『よしもと新喜劇』が終了した後の14:00 - 15:24(JST)に、JNN系列全国28局(新潟放送は『ワンダフル競馬』放送のため、9月12日の16:00 - 17:24に時差ネット)ネットによる、吉本新喜劇50周年記念の特別番組「初めての人でも絶対笑える『よしもと新喜劇50周年SP』〜今田耕司とゆかいな仲間たち〜」が放送された。吉本新喜劇がTBS系全国ネットで放送されることは『超!よしもと新喜劇』(1997年10月-1998年3月)以来11年ぶりであった。今田耕司と小籔千豊が座長を務める「吉本新喜劇50周年全国ツアー」の内、2009年7月5日にシアターBRAVA!で行われた大阪公演「花月警察24時!」の模様と、今田や間寛平、池乃めだか、東野幸治、藤井隆、岡村隆史、千原ジュニアなど過去の新喜劇の名場面や、お蔵入りになった島木譲二の流血事件などの「お宝映像」などで構成された。進行は小籔と宇都宮まきが担当し、今田はご意見番として登場した。ナレーションは橋本のりこが担当した。近畿広域圏やRCC(広島県)では放送当日は「よしもと新喜劇」が2時間30分放送された。2010年(平成22年)8月28日の12:54 - 15:30に、MBS開局60周年記念番組として、関西ローカルで放送。通常の舞台中継に加え、小籔千豊主演によるドラマ仕立てのコントが組まれた。コントの内容は、ケーキ屋の息子・小籔が、2010年夏から1968年夏にタイムスリップし、同じくタイムスリップした内場勝則と遭遇。内場から、決して未来を変えることをしないように忠告されつつ、結婚前の父の元でアルバイトとして、働き始めて未来に戻るという内容。MBS60周年記念番組として放送されたことから、MBSテレビで放映された過去のバラエティ番組の中から『ヤングおー!おー!』『モーレツ!!しごき教室』『夜はクネクネ』『突然ガバチョ!』の1シーンが番組内の随所で放送された。また、舞台では浜村淳が『ありがとう浜村淳です』のテーマに乗ってゲスト出演した。

出典:wikipedia

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