迎賓館(げいひんかん)は、外国の国家元首や政府の長などの国賓を迎え入れたときに、宿泊等の接遇を行う施設。皇居宮殿での歓迎晩餐会の答礼など、外交儀礼のための接宴として、天皇や皇族などが臨席し、晩餐会が行なわれることもある。日本の迎賓館は、東京都港区赤坂の迎賓館(赤坂迎賓館)と、京都府京都市上京区の京都御苑内に京都迎賓館があり、内閣府の施設等機関である。通常は非公開だが、接遇に支障のない時期(通常は8月)に、事前の申し込みにより、一般参観することができる。2016年度からは観光振興のために、通年一般公開され、赤坂迎賓館前庭は申し込み不要で無料だが、本館・主庭、和風別館はインターネット申し込みで有料、ネット申し込みできない者は正門前でも当日整理券で有料入館できる。京都迎賓館もインターネット申し込みで有料、ネット申し込みできない者は京都迎賓館西門で当日整理券で有料入場できる。迎賓館の使用については、「迎賓館運営大綱について」、国・公賓の定義および接遇内容については、「国賓及び公賓の接遇について」などにより定められている。これらの規定によれば、迎賓館での宿泊及び接遇を行うことができるのは外国の元首またはこれに準する者で、国賓として招請することを閣議決定した場合である。また、行政府以外の三権の長相当の外国の賓客についても閣議決定により宿泊させることができる。さらに、首脳外交など実務を目的として訪日する外国の元首や首相などに対しては、「公式実務訪問賓客」として宿泊を伴わない招宴その他の接遇も行われている。過去3回行われた東京サミットなどの多国間国際会議も、この接遇範疇に該当する行事として実施された。京都迎賓館においては、上記の目的に加えて地方公共団体による外国元首・首相等の接遇にも使用できると規定されている。なお近年では、内閣総理大臣と外国首脳との会談には外務省の飯倉公館(東京都港区麻布台一丁目)が利用されることも多い。東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に建設された。鹿鳴館などを設計したお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により、元紀州藩の屋敷跡(明治6年宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。)に建てられた。しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかった。嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。1924年(大正13年)、大正天皇の皇子・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)との婚儀が成ると、その後の数年間、赤坂離宮は裕仁親王一家の住居たる東宮御所として使用されたが、裕仁親王が天皇に即位した後は離宮として使用されることも稀になった。終戦時には高松宮宣仁親王が昭和天皇に、皇居を出て赤坂離宮へ移り住むことを提案したが、天皇は使い勝手が悪く経費がかさむとして拒否している。第二次世界大戦後、赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用された。その後国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた東京都港区芝白金台の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、1962年(昭和37年)に当時の池田勇人首相の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定された。これを受けて、池田及び池田の後継として1964年(昭和39年)に首相に就任した佐藤栄作の2代の政権下で政府部内で検討を重ねた結果、『旧赤坂離宮を改修し、これを外国賓客に対する迎賓施設に供する』ことが、1967年(昭和42年)に決定された。こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、本館は村野藤吾、和風別館は谷口吉郎の設計協力により、田中角栄政権当時の1974年(昭和49年)3月に現在の迎賓館が完成した。新装なった迎賓館に迎えた最初の国賓は、1974年11月に現職のアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードだった。2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、大規模な改修工事が行われている。2009年(平成21年)12月8日、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定、明治以降の文化財としては初の国宝となった。日本が独自の文化を守りながらの西洋化と富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を『武勲の者』という印象を表現するために、正面玄関の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に西洋の宮殿建築に日本風の意匠が混じった装飾になっている。また、当時電気が珍しかった日本においてイギリス製の自家発電装置を備え付けて照明に電気を使い、アメリカ製の自動温度調節機能付き暖房装置を設置した。ただし、この暖房装置は正常に作動せず、室温が突然上がったり下がったりするトラブルに幾度も見舞われたという。煉瓦石造で西欧様式の建物は高温多湿の日本の気候には全く適さず、晩春から早秋にかけては天候によっては室内の湿度が著しく上がり、暖房はあっても冷房はないために居住性が著しく低く、これに対処するために片山東熊は電気式の除湿機を設置する計画も考えていたが、こちらは実行に移されなかった。建築当初の調度品はタペストリーなど日本製の物もあったが、椅子などの家具の多くはドイツやフランスなどから輸入したものを使用していた。この建物が迎賓館になった際に建物から放出されたこれらの家具の一部は現在博物館明治村に保存・公開されている。主庭は全面砂利敷きであり、中央には噴水池や花壇が設けられている。フォード大統領(1974年、ハナミズキ)、エリザベス女王(1975年、ブラウンオーク)、ゴルバチョフ大統領(1991年、フユボダイジュ)の記念植樹がある。京都迎賓館は、1994年(平成6年)10月に国立京都迎賓館として建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。英字表記は Kyoto State Guest House である。洋風の赤坂迎賓館とは対照的な和風建築として日建設計により設計され、江戸時代に園家・柳原家・櫛笥家など、複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の敷地の北東部に建設された。南側を表(公の場),北を奥(私的施設)と位置付け、建物の南半分には会議・会談,晩餐,和風会食,管理等の施設が,北半分には賓客の居住・宿泊のための施設が配置されている。開館後初の国賓は、ベトナム社会主義共和国主席のグエン・ミン・チェットだった(2007年11月28日–29日滞在)。玄関前の「真の庭」、館内の中央「行の庭」、賓客宿泊室に面する「草の庭」の3面で構成される。「庭屋一如」の現代和風の庭園として、尼崎博正の監修により、佐野藤右衛門を棟梁とする京都の庭師により作られた。国際博覧会が開催された時は、外国館参加の各国から王族・元首・閣僚級の賓客が、各国のナショナルデーに会場を訪問するために、「迎賓館」が設置される。「万博迎賓館」として、前述の内閣府の迎賓館とは区別される。国際博覧会開催中だけの臨時施設であるが、博覧会閉幕後も保存されている例もある。
出典:wikipedia
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