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ジョン・マケイン

ジョン・シドニー・マケイン3世(、1936年8月29日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。パナマ生まれ。海軍兵学校卒業。連邦下院議員(1983年 - 1987年)、連邦上院議員(アリゾナ州選出、1987年 - )。共和党の重鎮議員だが、党派にとらわれない議会活動で知られ、しばしば (一匹狼)と形容される。共和党政権への厳しい批判も辞さないことから、一部の共和党支持者からの反発を浴びる一方、全体としての支持は根強い。そのため2004年の大統領選挙では、民主党候補ジョン・ケリーの副大統領候補となる可能性が盛んに報じられていた。宗教はバプティストで、尊敬する政治家は同国のセオドア・ルーズベルト元大統領である。著名な海軍提督の祖父と父を持ち、マケイン自身もアメリカ合衆国海軍航空士官としてベトナム戦争に従軍。1967年にハノイ市上空を飛行中に撃墜され、5年間に渡ってハノイ市のホアロー捕虜収容所(別名:ハノイ・ヒルトン)で、ベトナム民主共和国の捕虜となった。最初の2年は北ベトナム兵から厳しい拷問を受けながらも、拷問に耐えたエピソードで英雄視されており、その人気から2008年のアメリカ大統領選挙では共和党の大統領候補として指名を受けた。息子はアメリカ合衆国海兵隊に所属し、イラク戦争に出征している。1936年8月29日、パナマ運河地帯にあるで、スコットランド・アイルランド系の海軍大将ジョン・S・マケイン・ジュニアと、との間に生まれた。マケインの父も祖父もアメリカ海軍大将である。祖父のジョン・S・マケイン・シニアは航空母艦戦略のパイオニアであり、第二次世界大戦における太平洋戦域の指揮をとり、アメリカ軍をレイテ沖海戦等に導いた人物である。その功績から米海軍イージス駆逐艦の艦名の一つにもその名が採られている。10歳になるまで、父親の仕事の都合でコネティカット州ニューロンドン、ハワイ州パールハーバー、その他の太平洋の基地で育った。1941年のパールハーバーの攻撃以降、父親は長い間家族と離れることになった。マケインは当時、短気で乱暴な運転をする若者であった。第二次世界大戦が終わった後も父親は海軍に残り、時々政治問題渉外担当官として働いていた。家族は北部ヴァージニアに落ち着き、1946年から1949年までアレクサンドリアの米国聖公会系の学校に通った。結局、青年時代に、父親の仕事の都合で20もの学校に通った。1951年にエピスコパル・ハイスクールに通いはじめ、レスリングで2つのレター表彰を受けた。当時のニックネーム や から分かるように、激しく議論好きな気性で知られていた。祖父や父の足跡にならい、マケインは海軍兵学校に入学する。マケインは反体制的な士官候補生で、目立たない存在であった。また、教授や指導部と喧嘩することもあり、毎年100以上の罰点を受けた。彼は階級が上の人々が独断的に権力を行使することに納得せず、他人にそういった事が行われているのを見て間に入ることも時々あった。5フィート7インチで127ポンド(170cmで58 kg)と小柄であったがライト級のボクサーとして3年間戦い、技術面で欠けていたものの、恐れを知らず、「後退ギアを持たない」ことで知られていた。マケインのIQは133で、学業の面では英文学や歴史、政治といった、自分が興味のある科目では良い評価を得たが、他の成績は良くなかった。しかし、特に学校外の活動については同級生たちの間ではリーダー的な存在であった。難しい時ではあったが、父親や家族に対して自分も同じ気質を持っていることを証明したいという気持ちは揺るがなかったと後に書いている。マケインは1958年に無事に卒業した。成績は899人中894番目で、最下位から数えて6番目であった。マケインは卒業後に海軍少尉に任命され、2年半の間フロリダ州とテキサス州で A-1 のパイロットとしての訓練を受けた。当時のマケインはシボレー・コルベットを運転し、ストリップダンサーとデートをし、後に本人が語るところによると「概して健康と若さを誤用した」時期を過ごした。彼にはマニュアルを勉強する忍耐力がなく、平均より下のパイロットであった。また、テキサスでの演習中に墜落したこともあったが、大きな怪我をせずに脱出することが出来た。マケインは1960年に訓練を終え、爆撃機のパイロットとなった。マケインはカリブ海に位置していた航空母艦イントレピッドやエンタープライズに常駐するようになる。彼は1962年のキューバ危機の時期にはエンタープライズで警戒任務に当たっていた。飛行技術は次第に向上していったが、スペイン上空を低く飛行しすぎ、送電線に激突するも無傷だったという出来事もあった。その後ミシシッピに戻り、飛行教官となる。マケインは1964年からペンシルベニア州出身のモデルであったキャロル・シェプ (Carol Shepp) と交際をはじめる。彼女はマケインのクラスメイトと結婚していたが後に離婚し、二人は1965年7月3日に結婚した。マケインは当時5歳と3歳の彼女の連れ子二人を養子にした。また、1966年9月には娘が生まれた。1965年秋にはヴァージニア州ノーフォーク付近を飛行中に乗っていた飛行機がまたもや墜落し、無事に脱出するという出来事があった。マケインは自分の立場に不満を持つようになり、戦闘任務に志願した。1966年12月にはA-4のパイロットとして空母フォレスタルに任命され、地中海や大西洋を飛ぶようになる。この間、マケインの父親は1958年に海軍少将に、1963年には海軍中将に、1967年5月には在ヨーロッパアメリカ海軍最高司令官()にまでなっていた。1967年春、 フォレスタルはベトナム民主共和国への爆撃作戦であるへ任命される。この作戦では特に武器貯蔵庫、工場、橋梁などのあらかじめ選ばれた基幹施設をターゲットとするものであったベトナム人民軍はソ連製の高射砲で応戦してきたため、この任務は危険なものであった。最初の5回の爆撃では何事も起こらなかったが、次第にマケインはパイロットとして評価されるようになっていく。しかしマケインや他のパイロット達は、アメリカ合衆国国防総省からのマイクロマネジメントに不満を抱くようになっていた。マケインは後にこう書いている「ターゲットのリストはとても制限的なもので、我々は同じターゲットを何度も何度も爆撃しなければならなかった。多くのパイロットたちが自分たちの任務は実質的には価値の無いものと見ていた。はっきり言うと、我々は自分たちの軍人ではない司令官は全くの無能で、この戦争に勝つ気などほとんどないと思っていた。」その頃までに少佐となっていたマケインは、1967年7月29日に起きた出来事で危うく死ぬところであった。その日、クルー達が離陸の準備をしていたところ、F-4から一発のズーニー・ロケット弾が誤って発射されてしまった。出発準備を整えていたマケインのA-4にロケット弾が直撃し、燃料タンクの破裂を引き起こした。事が起こってから90秒後に彼の機の下についていた爆弾が爆発したが、彼はその前に間一髪で機から逃げ出すことが出来た。彼は爆弾の金属片で足や胸に怪我を負ったが、この事故で132名が死亡、62名が負傷、少なくとも20の航空機が破壊され、事態が沈静化するまでに24時間を要するという大惨事となった。この事件の2日ほど後にマケインはニューヨーク・タイムズのレポーターにこう語っている。「こういった事を言うのは難しい事だが、今、自分は爆弾やナパーム弾によって空母にいた人々に何が起こったかを見た。だから、北ベトナムにこれ以上そういったものを落としたくないという気持ちがある」しかし辞めることは思いもよらないことで、「自分はいつも海軍に所属していたいと思ってきた。自分はここで生まれ、他の職業を選ぶことなど考えたことはない。ただ、組織の中でやっていくことが自分にとっていつも問題になっている」とも語った。フォレスタルの修理に伴い、マケインはオリスカニーへ移る。マケインは1967年10月までには22回の爆撃任務を遂行していた。1967年10月26日、マケインはハノイ市の火力発電所の攻撃に参加した。マケインの乗ったA-4はS-75によって撃ち落とされた。マケインは両腕を骨折し、航空機から脱出の際に足にも怪我を負った。パラシュートで脱出したものの、チュックバック湖に落ち、あやうく溺れるところであった。マケインが意識を取り戻してみると、彼の周りには暴徒が集まっており、彼を叩いたり蹴ったり、服を引きちぎったりしていた。またライフルの台尻で肩を砕かれたり、銃剣で左足や腹部を突かれるなどした。マケインはその後、ハノイの捕虜収容所に搬送された。重傷を負っていたにも関わらず、ベトナム民主共和国側は彼を病院に連れて行かず、いずれにしろすぐに死ぬだろうと考えていた。ベトナム民主共和国側はマケインを殴打し尋問したが、彼は自分の名前、階級、認識番号、生年月日しか明かさなかった。その後、ベトナム民主共和国側はマケインの父親が海軍大将であることを知り、彼に医療処置を施し、マケイン捕縛を公表した。マケインが撃ち落とされて2日後、この出来事はニューヨークタイムズ紙のトップ記事となった 。マケインは6週間の間病院で最低限の治療を受け、またヴォー・グエン・ザップを始めとする多くのベトナム人の監視の下、CBSのリポーターからインタビューを受けた。多くのベトナム民主共和国の人々は、マケインは政治的・軍事的・経済的なエリートであると思っていた。その時点で50ポンドも体重が減り、ギプス姿で髪の毛も白くなっていた。マケインは1967年にハノイの戦争捕虜キャンプに送られ、他の二人のアメリカ人捕虜(そのうちの一人は後に名誉勲章を受けるであった)と共に監房に入れられた。二人はマケインが1週間持つとは思っていなかったが看病し、マケインはなんとか生き延びた。1968年3月には独房に監禁され、そこで2年間耐えた。1968年7月、マケインの父親はアメリカ太平洋軍の司令長官となり、ベトナム戦域すべてを指揮する立場となった。それに伴いマケインはすぐに釈放されるチャンスを与えられた。ベトナム民主共和国側はそれによって、自分たちの部隊は人道的であるというプロパガンダを世界に広めたいと考えていた。しかし彼は、アメリカ合衆国軍の行動規範 " にしたがってこれを拒否、自分より早く捕縛されているものが釈放されるなら受け入れるとの態度を示した。マケインの釈放拒否は、パリ協定の話し合いの場で、アメリカ側の大使W・アヴェレル・ハリマンに伝えられた。1968年8月、マケインに対する拷問が行われた。痛みを伴う姿勢で縛られたり、2時間ごとに殴打されるなどし、更に赤痢にもかかってしまい、辛さ故に自殺を図るも看守に止められた。4日間の拷問の後、マケインは、自分は " で " であると書かれた反アメリカプロパガンダの”告白”に署名させられた。しかし彼は形式ばった共産主義の専門用語を使ったり、英文法を無視して書くなどして、これは強制されたものであることが分かるように書いた。彼は後にこう語っている。「私は学んだ。すべての人に限界点があるということだ。あのとき私は自分の限界点に達した。」この時に受けた傷が元で、彼の腕は肩より上に上がらなくなってしまった。ベトナム民主共和国側はもう1つの文書にも署名させようとしたが、マケインはこれを拒否し、その結果殴打が続くことになった。他のアメリカ兵にも同じような拷問が行われた。ある時、戦隊のメンバーの名前を言うように強要された時、マケインはグリーンベイ・パッカーズの選手の名前を告げた。1969年10月、マケインを始めとする戦争捕虜に対する扱いが突然改善された。同年夏、殴打されるなどして弱っていた捕虜たちが釈放され、世界の報道機関が、これに対して声を上げ、非難し始めたためであった。1969年12月、マケインは Hoa Loa Prison に移送された。彼は引き続き反戦団体やベトナム民主共和国に同調するジャーナリスト達との面会を拒否し、面会者の一人に対して、自分のしたことに後悔は無く、同じ事をする機会があれば行うだろうと語った。マケインと他の捕虜達はあちこちのキャンプに移されたが、以前の扱いに比べると改善されたものであった。結局、マケインはベトナム民主共和国の捕虜として5年半を過ごしたことになる。1973年1月27日にパリ協定が結ばれ、アメリカ軍のベトナム戦争への関与は終わったが、捕虜たちに対する救出作戦()はその後も続いた。マケイン自身は1973年3月15日に釈放された。一方、1969年12月、マケインが北ベトナムで捕虜となっている間、妻キャロルが交通事故に遭い、瀕死の重傷を負っていた。マケインは1973年3月15日に北ベトナムより解放されたものの、キャロルは重度の障害者となっていた。マケイン自身も解放後、数ヶ月の高度の理学療法を要した。治療後、同年、アメリカ国防大学に入学し、翌年の1974年に卒業した。1976年にフロリダにある練習艦隊の部隊指揮官となった。この間にマケインは他の女性と関係を持ち、家庭環境は崩壊を始めていた。1979年4月に現夫人のシンディ・ヘンスリーと勤務地のハワイで出会ったマケインはシンディとの交際を深め、1980年2月に交通事故療養中のキャロルとの離婚を申し立てた。離婚にあたり、マケインは二軒の家の譲渡とキャロルの医療費の負担を条件に同年4月に離婚が成立した。翌月の5月17日、シンディと2度目の結婚をした。結婚式には前妻との子供達の出席はなかった。シンディはアンハイザー・ブッシュ社の独占販売権を持つの創業者を父親に持つ大富豪の娘であった。この結婚を期にマケインは1981年4月1日に海軍を大佐の階級で退役した。なお、父親は前月の3月22日に死去している。祖父や父親と同様に提督への昇進の可能性はあったものの、マケイン自身は次の転身を決めていた。海軍を退役後、シンディの実家の家業に従事するためアリゾナ州に転居した。1982年に義父の支援でアリゾナ州選出の連邦下院議員選挙に共和党から立候補し当選した。その後、1984年の連邦下院議員選挙で連続当選を果たし、1986年11月にアリゾナ州選出の連邦上院に立候補し、当選した。この間、妻シンディとの間に1984年10月、最初の子である長女メガン、1986年5月に長男のジョン、1988年5月には次男のジェームスが誕生している。マケインのリベラル寄りとも言われる一匹狼的行動は、内政問題によく現れている。同性婚・人工妊娠中絶・銃規制などにおいて、概ね保守の基本線を維持しているものの、強硬に主張することは少なく、特に同性婚問題に関しては、2005年アリゾナ州憲法の禁止案において賛成しながらも積極的な運動を行わず、翌年の合衆国憲法の修正条項には州による選択の自由を主張して反対票を投じた。中絶に関しても、近親相姦や強姦、母体に危険があるケースでは例外的に容認している。2005~6年にブッシュ政権による保守派の控訴・最高裁判事任命を巡って議会で両党が厳しく対立した折には、超党派で妥協案を探る議員グループ(14人のギャング)において主導的な役割を果たした。02年には民主党のファインゴールド上院議員とともに共和党の支持基盤である大企業の献金を制約する新法を成立させ、2005年には移民問題でも、違法入国者の永住権を認める法案を、民主党リベラル派のエドワード・ケネディ上院議員と共同で提案し(ジム・デミント、ジェフ・セッションズ各上院議員ら共和・民主両党保守派の猛反発で廃案)、2008年大統領選挙でも移民に寛容な立場を崩していない。また、同選挙戦において、地球温暖化対策を重要政策として掲げている唯一の共和党候補でもある。経済問題では概して「小さな政府」路線の支持者だが、2001年、2002年にはブッシュ政権の減税に反対した(修正案の提出はしたものの、政府原案に反対票は投じていない)。こうした一連の政策や行動は、リベラル派からの好感を買う一方で、ネオコンからの厳しい反発を呼んでいる。タカ派であり、介入主義的な傾向を持つ。ブッシュ大統領の「自由と民主主義の価値観を世界に広める」「全ての独裁の打倒」といった主張を支持し、いわゆるネオコンの外交思想と通ずる部分も多い。現実に、同勢力の論客であるウィリアム・クリストルやジョン・ボルトンは、マケイン支持を表明し、ロバート・ケーガンは大統領選の際に外交顧問を務めた。ただし、中東の民主化に関しては、ブッシュ政権が同盟国として重視したサウジアラビアなどの絶対王政も転覆させて、初めて成立するとも考えている。イラク戦争については「フセイン独裁打倒」という点から支持、2002年にはジョー・リーバーマンらと共に、イラクへの武力行使を可能とする決議を提出した。具体的なイラク政策においては、ドナルド・ラムズフェルド前国防長官を「米国史上最悪の国防長官」として強く非難したことがあるが、これは「少数精鋭・ハイテク兵器至上主義戦争論」に対し向けられたもので、マケインは一貫してイラク平定には数十万人の兵力が不可欠と主張し続けており、2007年の増派も強く支持した(後述)。兵力増強については、米軍とりわけ米国陸軍が開戦前から主張しながらラムズフェルドにことごとく退けられてきた経緯があり、ブッシュ政権初期の際に陸軍参謀長を務めていたエリック・シンセキは兵力増強を巡るラムズフェルドとの対立からその職を辞している。このほか中東に関しては、イスラエルを強く支持し、イランの核問題を巡っては、CBSに出演した際、最終手段として限定的空爆も排除すべきでないとしている。また、親イスラエル派でもあり、中東におけるイスラエルの軍事的優位の維持やイスラエル軍によるパレスチナ内での軍事作戦を支持しており、「エルサレムはイスラエルの不可分の首都」と東西エルサレム分割案にも反対している。中東訪問の際もイスラエルに配慮して、パレスチナ自治区は訪れなかった。しかし、この訪問の際に「イラクのアルカーイダは、イランを拠点にイラクへ出撃している」「イランがアル=カーイダを支援している」「ターリバーンはシーア派過激派」などと、事実と異なる発言をしている。介入主義的傾向は東アジアに対しても向けられる。マケインはプーチン大統領のロシアに対する最も厳しい批判者として知られ、その言論弾圧・政敵の排除や覇権主義的な外交を非難、G8の一員としての資格にも疑問を向け、ロシアを外す代わりに、インドとブラジルをメンバーに加えるべきだとしている。ミャンマーの軍事政権への支援を巡っては、軍政に対する小規模でも経済支援を続ける、日本国政府の川口順子外務大臣(当時)を名指しで糾弾した。また対北朝鮮外交の強硬派であり、食糧支援や大韓民国の太陽政策を厳しく批判したこともある。ウクライナではオレンジ革命を支援した(この動きを支援した同じ名前のNGOの代表であった。現在も中枢にいる)。また、コソヴォ独立運動の熱心な支援者でもあり、コソヴォ独立を承認しないロシアとセルビアを強く非難していた。また、1999年にCTBT批准の是非が米国上院で議論となると、ジェシー・ヘルムズと共に当時対応に慎重だったトレント・ロット院内総務を説得、否決への流れを作る。他方で自身の捕虜としての経験もあり、捕虜や囚人の人道問題に最も熱心に取り組む議員として知られている。対テロ戦争を巡ってアブグレイブ刑務所などで問題化した捕虜・囚人等の拷問・虐待問題を厳しく批判し、「敵に対する態度こそ、アメリカ自身の姿をはっきりと描き出す」(“”)との態度のもと、グアンタナモ米軍基地を含む収容所での囚人への非人道的扱いを禁止する法案修正などを主導し、グアンタナモの閉鎖も主張している。マケインは同盟国を中心とした民主主義国家との連携を重視し、2008年大統領選に向けた外交構想において、それを「民主国家連盟」という概念の元に提示した(フォーリン・アフェアーズ2007年11-12月)。2008年大統領選の有力候補のうちでは、比較的日本に対する人脈や関心が強いと言われており、そのアジア政策の作成には海軍兵学校の後輩にあたるリチャード・アーミテージが関わっている。前述の構想における、日米同盟の強化、拉致問題を含む北朝鮮の人権問題への関心、日本の国連安保理常任理事国入りへの賛意、「価値観外交」「自由と繁栄の弧」への言及などにそれが現れている。こうした対日関係を重視する政策については、日本政府関係者などに、現ブッシュ政権との継続性という観点から望ましいとする見解が多いが、集団的自衛権問題をはじめ安全保障協力における対日要求も強まることも指摘されている。ベトナム戦争で激しい拷問を受け、障害を負った過去にも関わらず、マケインは上院議員としてベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国の国交正常化に寄与した。アメリカ合衆国軍による枯葉剤の使用問題に関しては、「アメリカ合衆国連邦政府はベトナム人の枯葉剤被害者と汚染地域の浄化に4,600万ドルを支出しています。多くのベトナム人にとって痛切な問題であり、私たちは被害者への賠償などを引き続き進めていかなければなりません」と述べている。変わったところでは、大の国際式ボクシングフリークであり(自らも海軍兵学校時代ボクシングの選手であった)、いわゆるモハメド・アリ法を成立させたり、それまで米国各州独自に分立していたボクシングコミッションを、統括・調整活動等を行うUSBAと、その全米統一ルール(ユニファイド・ルール)を制定・調整する機関であるABC(the Association of Boxing Commissions:アソシエーション・オブ・ボクシング・コミッション)の設立に寄与したりするなど、ボクサーの安全管理、プロモーターやマネージャーからの搾取を防ぐ活動にも熱心に取り組んでいる。ボクシングフリークのためか1990年代に生まれたUFCなどの大会で有名な、「殴る、投げる」などすべてを認める「総合格闘技」には否定的で、禁止運動の先頭に立っていた。ただし、その後アメリカの総合格闘技界が、結果的にマケインらの批判に応える形で安全面に配慮しルールなどを整備。マケインも2005年に、日本の格闘技団体「PRIDE」が米国カリフォルニア州の興行ライセンスを取得しようとした際、米国総合格闘技のルールを支持し、PRIDEの現行ルールは危険すぎる(UFCで禁じられている踏みつけやサッカーボールキック、膝蹴りなどが容認されていた)と批判する立場から、同州のアスレチック・コミッションで証言するなどした。2000年の大統領選挙では、ジョージ・W・ブッシュ・テキサス州知事(のちの大統領)と共和党の指名を争った。大きな基盤と資金・知名度を持つブッシュが圧倒的に優位と見られていたが、選挙運動を集中的に行っていたニューハンプシャー州の予備選挙でマケインが20ポイント近い大差で勝利し、ブッシュ陣営を驚かせた。この影響で党内の穏健派がマケイン支持にまわり、アリゾナ州やミシガン州でもマケインが勝利、マケイン旋風という言葉が生まれた。しかし、ジム・ギルモア知事(当時)などが全面的にブッシュ支持で固まったことにより2月29日のバージニア州など3州での予備選で大差で敗北すると形勢は完全にブッシュペースに転ずる。また、ブッシュ陣営による中傷を含むネガティブ・キャンペーンにより、3月7日の「スーパーチューズデー」で、大票田であるカリフォルニア州やニューヨーク州を含む各州での敗北後、選挙戦からの撤退を表明。共和党候補を断念した。同予備選ではヘンリー・キッシンジャー元国務長官やゲイリー・バウアー牧師などがマケインを支持していた。なお、選挙戦において、ベトナムに行く代わりに州軍に入ったブッシュが「彼は(ベトナムでの)長い捕虜生活で頭がおかしくなっている」と侮蔑し問題となったが、共和党員がより問題視したのは、サウスカロライナ州の予備選の際に、マケインがブッシュをクリントンと同一視するかのような発言に対してである。この間、ブッシュ陣営の「黒い肌の隠し子がいる(パキスタン系の養子がいることを捏造した)」、「妻は薬物中毒(傷病によるもの)」と彼に対するネガティブキャンペーンは続いていた。早くから2008年大統領選への出馬が確実視されていたが、2007年2月28日、CBSテレビのトーク番組にて出馬を明言、4月には正式に出馬表明した。本命候補として満を持して選挙戦に臨んだが、ジョージ・ブッシュ大統領が行った米軍の当初計画・2万人規模(最終的な規模は3万人に増大)のイラク増派を「戦争に負けるくらいなら、選挙に負けた方がまし」と公言し、自ら提言・全面的に支持したことから支持率が急落。増派後の2007年4月に側近議員ら数名とバグダードを訪問、その際には護衛が100人以上つくなど物々しい警戒態勢で、イラクの治安状況の過酷さを反対に印象付ける。帰国後も「報道されない真実」と題するWP紙への意見広告を掲載してその大義を説いたが低迷は続き、また前述のような堅実的な側面が保守派からの支持を得るのに大きな足枷となった。逆風下では献金も集まらず、財政難から約150人いた陣営スタッフの50人以上を解雇するなど苦しい選挙戦を強いられ、夏頃には事実上の脱落の可能性も報じられる有様で一時は党内で5位、支持率が一桁に下落したこともあった。しかしながら、共和党支持者の間ではイラク戦争の支持は常時6割の水準を保っており、前述の米軍増派は8月以降徐々に成果が現れ、アル・カーイダへの攻勢とバグダードなどでの治安改善、米兵死者数の激減が報じられると、支持も回復。11〜12月には選挙戦から撤退したサム・ブラウンバックや保守系・現無所属上院議員で元民主党副大統領候補のジョー・リーバーマンがマケイン支持を表明した。こうして、年明けの予備選・党員集会開始を前に、再び注目を集めていった。緒戦のアイオワ州を捨て、必勝を期して臨んだ2008年1月8日のニューハンプシャー州予備選で劇的な勝利を収めて一躍本命に返り咲き、勝利宣言の際には、支持者からMcC is Backの大歓声で迎えられた。余勢を駆って15日のミシガン州予備選に臨んだが、経済問題を中心においたミット・ロムニーに敗北。無党派の票では優ったが、共和党員とりわけ不法移民を良しとしない保守派の票では大きく水を空けられ、宗教右派が強いサウスカロライナ州や、党員のみの投票によるフロリダ州での選挙戦が懸念された。しかし19日のサウスカロライナ州予備選で勝利。共和党では長年に渡り、同州での勝者が指名を勝ち取っており、勢いを大きく増した。24日にはニューヨーク・タイムズが、翌25日には俳優のシルベスター・スタローンが相次いで支持を表明。29日投票のフロリダ州予備選ではロムニーとの激戦の末、勝利を収めた。1924年以降、同州で敗れながら本選に勝った共和党候補はなく、同州での勝利の意味は極めて大かった。その後同予備選での惨敗を受け撤退したルドルフ・ジュリアーニとアーノルド・シュワルツェネッガーらが支持を表明。2月5日の天王山スーパー・チューズデーではニューヨーク州、カリフォルニア州といった大票田を含む9州で勝利し、ロムニーが撤退を表明、指名獲得をほぼ確実にした。この後、前フロリダ州知事のジェブ・ブッシュと元大統領のジョージ・ブッシュが支持を表明する一方、「ニューヨーク・タイムズ」に2000年大統領選挙の際の女性ロビイストとの愛人スキャンダルを報じられた。この件については記者会見で両者ともに一切の関係を否定。なお、同報道を行ったのが左派の「ニューヨーク・タイムズ」だったことから、これまでマケインを激しく批判していた人気DJのラッシュ・リンボーが全面擁護の論陣を張るなど思わぬ収穫ももたらした。3月4日の4州予備選ではいずれも勝利、代議員数において過半数を獲得し、ハッカビーの撤退とともに共和党指名獲得が事実上確定した。春以降、激戦が続く民主党の候補者争いを尻目に、本選挙における重要州を巡る全国遊説を続けていたが、6月3日、民主党の指名候補がバラク・オバマに決定したのを受けて、本選挙に向けた対策を加速。全国党大会を翌週にひかえた8月29日には副大統領候補に、高い支持率を誇るアラスカ州の女性知事のサラ・ペイリンを選んだことを発表したが、事前の予想を覆す人選は大きな衝撃を与え、メディアの注目を一手に集めるとともに、賛否両論が噴出した。ペイリンを選んだ理由については、いろいろな憶測があるものの、一つにはペイリンが熱心なキリスト教福音派の信者であったことから、キリスト教右派の支持を獲得しようとしたためと見られている。9月7日、USAトゥデイ(電子版)が公表したギャラップ社との共同世論調査によるとマケインの支持率が50%に上昇し、民主党のオバマ候補の支持率を4ポイント上回った。しかし、米CBSテレビとニューヨーク・タイムズ紙が10月14日に発表した世論調査によると、オバマの支持率が53%で、マケインの支持率が39%と14ポイントの差をつけられた。2008年11月5日、一般投票の開票状況から民主党のオバマが当選確実であるとする速報をTV各社が流すと、マケインは支持者を前にオバマの勝利を祝福する旨宣言した。この演説においてマケインは自らの支持者にオバマの新政権への協力を要請した。敗北宣言を行なった後、マケインがステージを去る際には、黒人副長と確執していた白人艦長が自らの非を認め和解してエンディングを迎える映画『クリムゾン・タイド』のメインテーマ(作曲:ハンス・ジマー)が会場内に流されていた。後日確定した結果は、選挙人獲得数173‐365、得票率46%‐53%の差であった。同年11月25日、地元・アリゾナ州で記者会見を行い、2010年に予定される次期上院選で5選を目指す考えを明らかにし、安全保障政策の視察のためイラクとアフガニスタンを早期に訪問する意向も同時に示した。ただ、2010年8月の共和党予備選では、過去の遺産税廃止や不法移民政策への反発から、同党の元下院議員・ジョン・ヘイワースの猛追を受け苦戦。3月には関係悪化が囁かれていたサラ・ペイリンが応援に駆けつけた。同党予備選ではペイリンの他、かつての政敵であるミット・ロムニーを始め、スコット・ブラウン、ティム・ポーレンティー、地元アリゾナ州議員の多数がマケインを支持している。予備選では過去に例を見ない苦戦を強いられたが、かつては積極推進の立場にあった不法移民合法化政策を転換、アリゾナ州議会が同年4月に制定した「新移民法」についても理解を示し、終盤で支持を拡大した。この時点でマケインの5選は確実となり、11月2日に行われた本選では59.1%の得票率で当選した。2012年大統領選の共和党予備選ではミット・ロムニーを支持した。なお、2008年大統領選の共和党予備選では撤退後のロムニーから支持を得ていた。2015年1月、アメリカ合衆国上院軍事委員会委員長に就任。2016年大統領選では、共和党予備選で首位を独走する実業家ドナルド・トランプの大統領としての資質に懸念を表明するミット・ロムニーの演説に同意した。

出典:wikipedia

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