蘆野 資俊(あしの すけとし、寛永14年(1637年) - 元禄5年6月26日(1692年7月29日))は、江戸時代の旗本(交代寄合)。蘆野資泰の子。蘆野家19代目当主。左近、民部。室は伊奈忠治の娘。子に蘆野資親、井上正房(井上正次養子)。正保3年(1646年)11月12日に10歳で家督を継ぎ、交代寄合として芦野2,700石を相続。正保4年(1647年)9月6日に初めて徳川家光に謁見した。この資俊の代にそれまでに開墾した新田分を追加して蘆野氏の知行地の石高は3,010石まで上昇している。元禄4年(1691年)に芦野温泉神社を建立。元禄5年(1692年)6月26日に死去。享年57。墓所は栃木県那須郡那須町蘆野の建中寺。法名は常秀。資俊は松尾芭蕉の門人で、江戸蕉門の1人。俳号を桃酔という俳人でもあった。奥の細道に「此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ」(元禄2年(1689年)4月20日)と記述がある。かつて資俊が西行が歌を詠んだ芦野の遊行柳を見せたいと言っていたので立寄り句を詠んでいる。資俊はこの時江戸に在府しており、芦野宿仲町の外れにあった「角の茶屋」の松本市兵衛に案内をさせている。ちなみに「郡守戸部某」と書かれているのは、人物名をぼやかす為であり、民部を戸部としたのは、民部を唐風の呼び名「戸部」に変えたのだという。元禄10年(1697年)の「陸奥鵆」(編者天野桃隣)に「春雨や寝返りもせぬ膝の猫」という句が載せられている。
出典:wikipedia
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