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宝永永字丁銀

宝永永字丁銀(ほうえいえいじちょうぎん)とは宝永7年3月6日(1710年4月4日)より鋳造が開始された丁銀の一種。秤量貨幣である。単に永字丁銀(えいじちょうぎん)とも呼ばれる。また宝永永字丁銀および宝永永字豆板銀を総称して永字銀(えいじぎん)あるいは永中銀(えいちゅうぎん)、また単に中銀(ちゅうぎん)と呼ぶ。表面には「大黒像」および「寳」の文字および両端の二箇所の「宝」字に加えてその内側にやや小型の「永」字極印が打たれ「常是」の極印は無い。永字丁銀の十二面大黒は未確認である。また「宝」字極印の玉の上部がウ冠まで突き抜けていることを特徴とする。元禄16年11月23日(1703年)に起きた元禄関東地震に続き、宝永4年10月4日(1707年)の宝永東海・南海地震、11月23日には富士山が噴火し江戸は火山灰の降灰に見舞われ、加えて将軍の代替り、皇居の建造など諸工事の必要経費がかさみ、幕府の財政はますます困窮した。宝永6年正月10日(1709年)、五代将軍徳川綱吉が没し、徳川家宣が将軍職に就くこととなった。2月3日、その代替わりの諸費用についてに家宣が重臣を集めて尋ねたところ、荻原重秀は相次ぐ天災対策費に加え、宝永5年3月8日(1708年)の宝永の大火における内裏炎上に伴う建替えなどの出費が嵩むとして幕府財政の窮状を訴え、この緊急事態を切り抜けるには金銀吹替えの他にないとした。『折たく柴の記』常御座所改造及金銀改制廃止封事(引用)。荻原重秀の訴えに対し、家宣は吹替え以外に手段は無いものかと下問したところ、新井白石が応えて意見を述べた。白石曰く、重秀の云うところの昨年充当した財源は一昨年の税収であり、37万両に加えて昨年の税収である76-7万両、合計110余万両があるはずである、各支出は重要性に応じて翌年までかけて分割して支払えば良いとした。貨幣吹替えに消極的であった家宣は、「悪質なものを出せば天譴をうけて天災地変を生ずるおそれがある」と白石の意見を採りいれ、吹替えの建議を禁止した。一方で新井白石らは宝永7年夏頃に市中に見慣れぬ悪銀が流通していることに気が付くが、これは荻原重秀が将軍の承諾を取り付けることなく内々に銀座と結託し、独断専行で銀貨吹替えを遂行したのであった。このため、旧銀貨との交換手続きおよび通用に関する触書などが出されることは無かった。一ヶ月足らずでさらに品位を低下させた三ツ宝銀の鋳造となったため、江戸時代の一般流通目的の丁銀としては鋳造期間が短く、かつ鋳造量が最も少なく、現存数も極めて稀少である。宝永永字豆板銀(ほうえいえいじまめいたぎん)は宝永永字丁銀と同品位の豆板銀で、「寳」文字および「永」字を中心に抱える大黒像の周囲に小さい「永」字が廻り配列された極印のもの「廻り永」を基本とする。両面に大黒印の打たれた「両面大黒」は未確認であり、また「大字永」、「群永」あるいは「大字宝」などといったものも存在しない。規定品位は銀40%(五割六分引ケ)、銅60%である。明治時代、造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた。宝永永字銀については以下の通りである。雑分はほとんどが銅であるが、少量の鉛などを含む。『吹塵録』および『月堂見聞集』によれば丁銀および豆板銀の合計で5,836貫余(約21.8トン)である。公儀灰吹銀および回収された旧銀から丁銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は永字銀では鋳造高の10%と従来より高く設定され、また吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は1,477貫余であった。

出典:wikipedia

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