ホセ・マヨバネクス・フェルナンデス・ロハス(José Mayobanex Fernández Rojas, 1974年11月2日 - )は、ドミニカ共和国ラ・ベガ州コンセプシオン・デ・ラ・ベガ出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。エバンジェリスコ工業高校を卒業後、マドレ・イ・マエストラカトリック大学に入学。1993年にモントリオール・エクスポズと契約。以降5年間はマイナーリーグでプレーし、からエクスポズ傘下のAAA級オタワ・リンクスで三塁手としてレギュラー出場した。1999年7月に怪我で離脱したマイケル・バレットに代わってメジャー初出場。同年は8試合にメジャー出場し、メジャー初安打も記録。のメジャー出場は無かったが、にはアナハイム・エンゼルス傘下のAAA級ソルトレイク・スティンガーズで打率.338・30本塁打・114打点を記録。2年ぶりのメジャー出場を果たし、13試合に出場したが目立った成績は残せなかった。、SKワイバーンズに入団し、打率.281・45本塁打・107打点を記録した。韓国では現地の発音からペルナンデスと呼ばれた。この年の本塁打数(45)は2015年ヤマイコ・ナバーロに抜かれるまで、1999年のダン・ローマイヤー(ハンファ・イーグルス)と並ぶ韓国プロ野球の外国人シーズン本塁打数タイ記録であった(なお2015年シーズン終了時点で、シーズン本塁打数のSKのチーム記録である)。オフに年俸契約で交渉が決裂し、SKを退団。SK退団後はメジャー復帰を目指してピッツバーグ・パイレーツのスプリングトレーニングに参加した。シーズン開幕直後の4月、千葉ロッテマリーンズに入団し、背番号は「42」に決まった。は4月中旬よりクリーンナップに定着し、シーズンを通して126試合に出場。打率.303・32本塁打・100打点・OPS.947を記録。来日1年目ながら日本の野球に適応し、素晴らしい成績を残したがオフに自由契約となる。の開幕前に西武ライオンズに入団。背番号は伊東勤の「何でも1番になってほしい」という願いから1に決定した。前年を上回る132試合に出場し、打率.285・33本塁打・94打点・OPS.887を記録。プレーオフでは全8試合で満塁本塁打1本を含む4本塁打を放ち、チームの2年ぶりのリーグ優勝に貢献。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは打率.310・1本塁打・6打点・OPS.858の成績を残し、チームは12年ぶりの日本一に返り咲いた。は復帰したカブレラが4番の座を守り、同じ三塁手の中村剛也や石井義人の活躍もあり指名打者での出場が多かった。来日以来最少の120試合の出場ながら、打率.293・26本塁打・OPS.911を記録したが、オフの12月2日に自由契約となった。2005年12月13日に東北楽天ゴールデンイーグルスと契約。背番号はロッテ時代と同じ「42」に決まった。は開幕からほぼ年間を通じて4番に座り、交流戦では35試合で打率.331・12本塁打・37打点・OPS1.089を記録し、最終的には打率.302・28本塁打・88打点・OPS.911を残した。パシフィック・リーグ三塁手部門にてベストナインを受賞。球団創設以来初の個人タイトルを獲得した。オフに背番号を「17」に変更。「ドミニカ・アメリカでも付けたことがある番号だったので、特別な思い入れがあった」とのこと。4月1日の対オリックス・バファローズ戦(フルキャストスタジアム宮城)では、3回裏に1イニング2本の満塁本塁打が出たが、1本をフェルナンデスが打った(もう1本は山﨑武司)。しかし、前半戦で打率.250を下回り、夏場でも一向に調子が上がらず、自身も「人生最大のスランプ」と漏らす程の低空飛行が続いた。オールスター明け以降は11本塁打・43打点と復調し、8月は打率.279・6本塁打・21打点の成績で月間MVPを獲得。8月以降は打率.350を残した。5年連続20本塁打を記録したが、打率.270・22本塁打・79打点・OPS.804と来日以来ワーストの成績に終わった。守備面では、一塁手・三塁手として12失策ずつを記録。一塁手と三塁手の両部門で同時に失策数リーグ最多になるという不名誉な珍記録を作ってしまった。は7月に本塁打を1本も打てないなど、最終的には本塁打こそ18本にとどまったが、打率.301・99打点、OPS.843の成績を残した。しかしシーズン終了後、打撃はもちろん守備も定評のある中村紀洋のFAによる楽天入団が決定、自身の失策数が多くこれがネックとなり、12月1日に自由契約となった。オフにオリックス・バファローズや阪神タイガースが獲得に興味を示したが、年内は契約がまとまらなかった。1月15日にオリックス・バファローズと契約。背番号は「3」に決まった。開幕前に右足指を骨折するが、開幕からレギュラーを任される。他に故障者が続出した事情もあって、カブレラとローズが共に戦線離脱した間は4番を任された事もあったが、一向に調子が上向かなかった。9月13日の対埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)では、7回裏に後藤武敏の打球を顔面に受けて左頬骨を骨折。全治約3ヵ月の重傷で戦線離脱した。117試合に出場して打率.261・15本塁打・47打点・OPS.740と不振に終わり、11月17日にライアン・ボーグルソンと共に退団した。はメキシカンリーグのキンタナロー・タイガースでプレーしていたが、離脱している中村剛也に代わる右の長距離砲を探していた西武が、6月25日に獲得を発表した。西武へは5年ぶりの復帰となり、日本野球界で8年目を迎えた。背番号は「52」に決まった。途中入団のため、57試合の出場に留まったが、9月7日には通算1000本安打を達成するなど、打率.339・11本塁打・45打点・OPS.925の成績を収めた他、三振は僅か26個だった。6月6日に出場登録日数が8年に達し、国内FA権を取得。それに伴い翌年から日本人選手扱いとなる。シーズン前半は不振に陥ったが、最終的には142試合に出場し、打率.259・17本塁打・81打点の成績を残した。ベストナイン(指名打者部門)にも選ばれたが、シーズン終了後の契約交渉が決裂し、12月2日付けで自由契約となった。2011年12月11日に楽天と契約したことが発表された。楽天へは4年ぶりの復帰となった。背番号はオリックス時代と同じ「3」に決まった。の開幕戦は5番・一塁手だったが2つの失策を犯してしまう。ほぼフルシーズン一軍に帯同したものの、打率.243・3本塁打・51打点・OPS.626と来日以来最低のシーズンとなった。一方で得点圏打率はチームメイトの聖澤諒に次ぐ、リーグ2位の.345を記録した。11月21日に自由契約公示された。はメキシカンリーグに復帰し、モンクローバ・スティーラーズでプレーしていたが、7月21日にオリックスが獲得を発表した。背番号は「44」に決まった。オリックスへは4年ぶりの復帰となる。8月9日の対西武戦でオリックス復帰後初本塁打を記録したが、以降は打撃不振に陥り、結局この本塁打1本のみで打率が2割に満たずにシーズンを終え、来日以来最低であった前年の成績をさらに下回った。10月25日に自由契約公示された。その後は現役を引退。愛称はミドルネームからとった「マヨ」。しかし、ファンからは「ホセ」と呼ばれることがある。楽天時代、ホームランの後にはテレビカメラの前でチームメイトと一緒にパフォーマンス(通称アギリータダンス - アギリータとはスペイン語でイヌワシの意)を披露していた。2007年から殊勲打を放った後に、メッセージ性の強い、哲学的なコメントを発表するようになった。キリスト教の教訓や読書で得た知識を基にしており、周囲を元気づけようという意識から始めたのだという。その後、楽天球団のモバイル公式サイトに、発表されたコメントを集めた専用のコーナーが設けられた。2007年7月13日、チームを激励するため、また自分を奮い立たせるために、チームメートに以下のメッセージが入ったTシャツを贈った。出身国であるドミニカ共和国の公用語はスペイン語であるが、ヒーローインタビューなどでは英語で話している。趣味は日本語研究で、日本に居る期間が長いためか、簡単な日本語の会話は通訳無しでも話せる。
出典:wikipedia
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