鶴田 浩二(つるた こうじ、1924年(大正13年)12月6日 - 1987年(昭和62年)6月16日)は、日本の俳優、歌手。本名は小野 榮一。兵庫県西宮市出生。静岡県浜松市出身。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演した。また歌手としても多くのヒットを出し、独特の歌唱法でも有名だった。戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた抜群の風貌で一躍トップスターに躍り出た。初期はその甘い表情でアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争ものでみせた渋い魅力で、日本映画を代表する大スターとして長らく君臨した。また、独特の哀愁を帯びた声と歌唱法により、歌手としても人気が高かった。女優の鶴田さやかは三女。他に7代目清元延寿太夫に嫁いだ娘もおり、清元節三味線方の清元昂洋、歌舞伎役者の二代目尾上右近は実孫である。また、弟と称していた俳優の北斗学(北十学)は、若い頃の恋人との間に生まれた実子である。戸籍上の出身地は、静岡県浜松市。西宮時代は父と母は結婚しておらず、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との入籍を許可しなかったためである。鶴田の母は、鶴田を連れて西宮から浜松へと移り住み、別の男性と籍を入れた。母は、水商売をして生計を立てていたため、幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていた。祖母は、鶴田の母を産んだ際栄養失調によって失明。祖母との二人暮らしは極貧そのもので、洗面器で米を炊いていたという。程なく、祖母が他界。家でたった一人の生活となる。母会いたさに遊廓へ一人で向かったが、客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。その上、義父は博打好きであった。こうした幼少期の思い出からから、鶴田は嫌いなものに夕日を挙げている。また、鶴田の娘も父が語った自身の少年時代の思い出話について、友達と遊んだとかそういった仄々とした話題が全くなかったと供述している。14歳の時に、俳優に憧れ当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。此花商業学校から19歳で関西大学専門部商科に入学するがその年に学徒出陣令により徴兵。終戦まで海軍航空隊に所属し、その体験が人生に多く影響を及ぼした。また22歳の時に薬の副作用で、左耳が難聴になってしまう。1951年(昭和26年)公開の松竹映画「地獄の血闘」に出演した際、共演した歌手の田端義夫に、歌唱方法についてのアドバイスを受け、以後、鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」と言う独特の歌唱スタイルになった。他にも右手小指を立て、マイクを白いハンカチで包んで持つ歌唱スタイルでも有名である。1948年(昭和23年)、高田浩吉と大曾根辰夫監督の尽力で松竹入り。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二、高橋貞二と共に松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のブロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。1952年(昭和27年)には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロを興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子(後に石原裕次郎を発掘しプロデュース)らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した、戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)も大ヒット。戦後最大のロマンスといわれた二人だが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。1953年(昭和28年)1月6日午後7時頃、大阪・天王寺で鶴田浩二襲撃事件が発生した。鶴田は美空ひばりの芸能界の兄貴的存在であり、美空の後ろ盾である山口組三代目組長の田岡一雄とは旧知の間柄であったにもかかわらず起きた事件であった。後に田岡は鶴田と会う機会があったが、田岡は脅しや暴力に屈しない鶴田の筋を通す生き方を認め和解、親交を深める事になっていく。「三代目の前で堂々としているのは鶴田ぐらいのもの」と周囲が驚くほどであった。1955年(昭和30年)、マネージャーの兼松廉吉が青酸カリを飲み死亡。1956年(昭和31年)1月15日、元山口組興行部の西本一三は関西汽船「ひかり丸」から海に落ち死亡。いずれも自殺とされているが、原因ははっきりしない。映画界のトップスターを襲った鶴田浩二襲撃事件は大きく報道され、当時まだ一地方の組織であった山口組が一気に全国的知名度を持つことになった。それと同時に山口組の機嫌を損ねると酷い目に遭うという恐怖を日本の芸能界興行界に定着させることになった。凄惨な事件の後も人気は衰えず、1953年(昭和28年)夏、『野戦看護婦』(児井プロ制作・新東宝配給)ではたった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高額のギャラを得る。これまで松竹との契約ギャラが1本につき180万円で45日間拘束であった。因みにこの年の映画館の入場料は80円であった。花道を通る間に真っ白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になるほど浩ちゃん人気は凄まじく、平凡・明星でも人気投票No.1を守り続け、昭和20年代最大のアイドルとして君臨した。裕次郎以前の映画界において抜群の集客力であった。新生プロは「ハワイの夜」の他「弥太郎笠」等ヒット映画を複数出し、クレインズ・クラブ・プロも主宰したが、鶴田は独立プロの難しさを実感し、フリーとなり、松竹、新東宝、大映、東宝の各映画会社で主演した。1953年には海軍飛行予備学生の手記集を原作とする独立プロ系作品『雲流るる果てに』に主演。レッドパージで浪人中だった家城巳代治監督、木村功ら新劇系の共演陣とは特攻観をめぐって対立することもあったが、夜を徹しての討論などでわだかまりを解き、初期の代表作となった。鶴田は試写で人目もはばからず泣き続け、「天皇陛下にご覧いただきたい」とも発言している。東宝との契約では、必ずクレジットのトップとすること、専属マネージャーを帯同する等の条項が入っていた。鶴田は東宝のスタジオにも大スターらしく、常に大勢の取り巻きを連れて入った。しかしそれは三船敏郎や戦前から活躍する大御所俳優、大監督でも専属のマネージャーは勿論、付き人、個室もないという民主的な社風の東宝ではスタッフの反発を招いた。1955年の『続宮本武蔵 一乗寺の決闘』では佐々木小次郎役の準主演者鶴田が、宮本武蔵役の主演者三船を差し置いてクレジットのトップとなった。1955年(昭和30年)、大映で山本富士子と共演した『婦系図 湯島の白梅』(衣笠貞之助監督。泉鏡花の名作『婦系図』の映画化)での美しく哀しい恋愛シーンは今も語り継がれている。しかし、1956年(昭和31年)の作品『日本橋』(市川崑監督。原作は同じく泉鏡花)にも出演予定だったが、撮影所所長と交際していたある女優を寝取る、というスキャンダルを起こし、降板となる。1958年(昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続けるが、かつてのような大ヒットとはならず、初めてのスランプを味わう。1960年(昭和35年)、東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂(のち、同社社長)が、第二東映の設立による役者不足を補うため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』と俊藤浩滋に相談し、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と俊藤が鶴田を口説き、当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、東映に円満移籍となった。時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた。1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒットさせる。ここから世に言う任侠映画ブームが始まる。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健と共に多くのヤクザ映画に出演。本職も唸らすその男の情念は熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画はテレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中、多くの観衆を集め続けた。「人生劇場シリーズ」、「博徒シリーズ」、『明治侠客伝 三代目襲名』、「関東シリーズ」、「博奕打ちシリーズ」、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。1970年代に入って歌「傷だらけの人生」がヒット。同名で映画化もされた。左手を耳に添えて歌う独特のスタイルはよく知られているところである。第二次世界大戦中に海軍軍人として多くの戦友を失ったことから、戦争の悲劇に対する思いは人一倍であり、それが役者人生の原動力にもなっていたと言っていい。一方、テレビドラマにも黎明期から出演している。中でも1976年(昭和51年) - 1982年(昭和57年)まで放送されたNHKのドラマ「男たちの旅路」シリーズ(山田太一原作)は大ヒットとなった。ただ鶴田の評判は必ずしも良好なものばかりではなく、好き嫌いが激しく屈折したプライドから周囲との衝突や暴言も多かったとされる 。撮影所において宇野重吉、加藤泰や三國連太郎とは口も利かなかったという。何か伝言しなくてはならない時には人を介し行った。その場合丹波哲郎が多かった。また山城新伍も快く思っていなかった。山城は鶴田存命中からラジオ番組で 「殺したい俳優がいて鶴田浩二と言う」 など実名をあげて非難していた。一例として 「あの人は必ず遅れてくる、それもわざと。あの人が大スターだと言うのは誰でも知っている。それを皆んなの前でやらないと気が済まないんだ。1時間、2時間経っても鶴田さんが来ない。監督も痺れを切らして次の撮影に移行する。そうすると判で押したように鶴田さんが来て監督の横に椅子を置き撮影を見ている。おもむろに 〝監督、俺は誰だ?〟 はい? 〝俺は誰だと聞いているんだ?〟 鶴田浩二さんです。 〝鶴田浩二だろう? 俺の撮影を先にやろう!〟 と言って現在の撮影をストップさせ自分の撮影に入らせる。そして悠然と撮影所を後にする。それの繰り返しで、それを皆んなの前でわざとやるんだよ、あの人は!」 山城の憤りは凄く鶴田存命中から批判していたのだから相当なものだったのだろう。また自著で「当時は、新人俳優が楽屋周りを掃除することが慣習的になっていたが、“俺は芝居をやりに来たんだ。掃除しに来たんじゃねぇ!”って突っ張って一切の雑務を行わなかったし、若山先生側にいたこともあって、鶴田さんとか先輩からかなり嫌われた。かなりとんがってたからね」と述懐した。そのため親しい友人は一人もいなかった一方で、寂しがり屋な一面もあり自分の誕生日には役者仲間を自宅に招待して、バースデーパーティーを開いていたという。反面、頼まれれば引立て役として若手を育てるため助演するのも厭わず、松方弘樹や梅宮辰夫などを公私にわたり可愛がり、松方は俳優だけでなく人生の師匠としても鶴田を慕い、葬儀では号泣した。1985年(昭和60年)にガンが判明したが、本人には本当の病名を伏せていた。翌1986(昭和61)年に病をおして主演したNHKのドラマ『シャツの店』が、彼の遺作となった。その後、闘病生活が続いたものの、1987(昭和62)年6月16日に肺癌のため62歳で死去。鶴田の葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、鶴田の亡骸に旧海軍の第二種軍装(白い夏服)を着せた上、棺を旭日旗(いわゆる軍艦旗)で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。弔辞は池部良が務めた。故人の遺志により墓碑は高野山奥の院、位牌は高野山大円院に安置されている。墓所は鎌倉霊園。尚、鶴田の死去からわずか1か月後の1987年7月17日、鶴田と同じく昭和の大スターだった石原裕次郎が、52歳で肝細胞癌により亡くなっている。又鶴田とも親交が深かった美空ひばりは当時入院中で、同年8月3日に一旦退院したものの、1989(平成元)年3月に再入院、同年6月24日に間質性肺炎と呼吸不全のため、52歳でこの世を去った。鶴田の没後、少年期の多彩な女性関係や、母親の証言による衝撃的な出生のいわれ、財産分与等についてのスキャンダラスな報道がマスコミで報道され、家族は精神的な痛手を蒙った。無類の野球好きとしても知られ、鶴田ヤンガースなる私設野球チームを率いたこともある。生前の右派的言動、また多くの軍歌を歌ったことや戦争映画の主演から右翼と評される事もあり、実際に右翼の宣伝車による街頭行動の際、彼が唄う曲が流される事も多い。「博奕打ち 総長賭博」を絶賛していた鶴田ファンの三島由紀夫と雑誌で対談して以来、同い年ということもあり親交を暖めるようになる。反面、戦争責任者を憎むこと甚だしく、「東條英機は切腹するべきであった」、「特攻隊は外道の戦術」と公に批判してもいた(軍歌『同期の櫻』を唄う際には、涙ぐみながら唄う姿が見られた)。要するに、戦争経験で多くの知己を亡くした彼の年代の多くがそうであったように、愛国心と反骨心の持ち主であったといえよう。特攻基地を飛び立つ戦友たちを見送っていった鶴田は、シベリアで倒れていった戦友たちを見ていた作曲家吉田正と親交が深かった。「鶴さん」「吉さん」と呼び合う仲で、鶴田のヒット曲のほとんどは彼の作曲のもの。上の記述の通り元海軍軍人である。若き特攻隊員の苦悩を描いた『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督、1953)に主演して以来、特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。戦後、元特攻隊員と称するようになる者は多く一つの流行でもあったが、鶴田はあまりにも有名人であるため同隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかった。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通した。これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた。特攻隊生き残りの経歴については、映画会社が宣伝の一環ででっち上げ、本人も積極的に否定せず、特攻崩れを自称する当時の風潮に迎合しただけというのが実情とされている。しかし特攻隊員を見送る立場であった経験から、実際の特攻隊の生き残りよりも本物らしく演じ、『男たちの旅路』においてはこのイメージが最大限に活用された。1949年(昭和24年)の「男の夜曲」で歌手活動を始める。これは、師匠の高田浩吉から「鶴田は歌が上手い」と聞いたポリドールに懇願されたことによるものであった。しかし本人はこのデビュー曲について「嫌々連れていかれたスタジオで、無理やりレコーディングさせられた曲」と後年語っている。それが40年近い歌手人生のスタートであったが、それ以来彼は歌う場面であってもあくまで「俳優の鶴田浩二」として挨拶し、歌手が本職であるという態度は終生取らなかった。「歌手は本業ではない」という謙虚さ故か、ハンドマイクで歌う際は持ち手をハンカチで包むようにして手の汗が付かないよう気遣いを見せた。上述にもあるように左手を左耳に添え、音程を確かめるように歌う姿とともに、「鶴田独自の歌唱スタイル」として広く知られることとなった。1960年(昭和35年)頃までの歌手としての鶴田は、甘い歌声で恋愛を主とした映画主題歌などを歌うことが多かったが、「好きだった」ヒット後はそれほど大きなヒットに恵まれなかった。しかし1960年代半ばから任侠映画や戦争映画への出演が増えたのに伴い、任侠や中年男の悲哀、そして戦友への鎮魂歌(主に軍歌)を、渋みの加わった声で熱唱する新たな一面を見せるようになっていった。それを代表するのが「傷だらけの人生」そして「同期の桜」である。また、こうしたオリジナル曲の他に、鶴田は軍歌も多数歌っている。また、戦前の流行歌のカバーのほか、フランク永井・和田弘とマヒナスターズ・石原裕次郎などのカバーもしており、生涯歌った曲は約200曲を数える。2009年(平成21年)、実娘・鶴田さやかはCD「涙の宝石」内で、現在の編集技術を使って「赤と黒のブルース」「好きだった」の2曲で鶴田とデュエットしている。
出典:wikipedia
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