鰻丼(うなどん、うなぎどんぶり)は、丼に入れた御飯の上に鰻の蒲焼を乗せた日本の丼物で、江戸の郷土料理とされる日本料理の一つ。タレは醤油と砂糖を主として作られるが、各店は門外不出の秘伝のタレとして作り方に工夫を凝らしている。鰻を焼くときにもタレが使用されて蒲焼となるが、このタレは御飯にかけ、鰻の蒲焼を乗せた後に再度かけるのが一般的である。山椒の粉は最後に振りかける。山椒は脂の多い鰻をさっぱりと食べるための工夫であり、消化を助けたり泥臭さを消す効果があるとされる。鰻の焼き方詳細は「蒲焼#鰻屋」を参照。鱗のない魚は総じて皮が厚く、鰻も例外ではない(ナマズなどとは違いきわめて小さな鱗があるが、皮膚に埋没している)。川や沼などに生息する天然産は、養殖物や輸入物に比べて蒸した後に蒲焼にしても弾力があり、噛むほどに滋味を愉しめるほどの歯ごたえがある。その一方、一般に出回っている養殖物のように箸先でほぐすことを期待しても切れないことがあり、直接蒲焼を口に運んで食いちぎらなければならないほどである。鰻丼のはじまりの頃は、焼いた鰻が冷めぬよう飯と飯の間に挟み、飯の上にも載せるスタイルが一般的であったが、江戸の鰻は柔らかい身であるほかに蒸して仕上げるため、飯のあいだに入れるにあたり身が崩れてしまう事から、次第に飯の上に鰻を載せるのみとなっていった。これに対し関西では鰻を蒸すことがないため身が崩れず、その結果飯のあいだに挟むスタイルが現在に至るまで残っている。なお鰻丼を関西などでは「まむし」と呼び、「真蒸」とも書かれる。その語源は飯の上に鰻やたれをまぶした「まぶし」から転じたものであるという説や、鰻飯(まんめし)が訛ったものする説のほか、鰻を飯の上に載せた上に更に飯を盛ることもあるので飯で蒸らす意の「ままむし(飯蒸し)」もしくは「まむし(間蒸し)」の転の説もある。蛇のマムシ(蝮)とは無関係である。宮川政運の「俗事百工起源」によると、堺町(現在の東京人形町)で大久保今助がこの鰻丼を考え出したとされている。一説には所用で水戸方面へ向かっていた今助が牛久沼のほとりの茶店で鰻の蒲焼で飯を食べようとしたところ、渡し舟が出そうになったため、今助は蒲焼を飯の上に乗せて皿をふた代わりにして渡し舟に飛び乗った。渡し舟が対岸に着き舟を降りた今助は蒲焼を食べようとしたら蒲焼は飯の蒸気と熱でよい香りになり、味も今まで食べたどの鰻の蒲焼よりも一番美味しい味だった。江戸へ戻った今助は丼に飯を入れてその上に蒲焼を載せ「鰻丼」として売り出すようになった。この御飯にタレが染込んだ味はこの芝居町で大人気となり、葺屋町(堺町の隣町)にある大野屋が「元祖鰻めし」という看板で売り出したのが最初だと言う。売り出しを開始した年代は特定されていないが、中村座や市村座が1841年に焼失して移転した経緯から、その前の頃に売り出したと推定される。ともあれ、天保の飢饉(1844年)に、天保通宝一枚で売り出したのが評判を呼んだという。近世風俗史の基本文献とされている守貞謾稿によると、鰻飯は「鰻丼飯」の略。明治に入る頃まで京阪では「まぶし」、江戸では「どんぶり」と言えば、この「鰻丼」を指した。また、このときに割り箸が登場した。現在も「鰻飯」という言葉を使う地域や店舗がある。用いる食器が重箱なら鰻重になる。鰻重には、鰻の肝の入った肝吸いが付く事が多い。鰻重は、一説では、山谷にあった川魚料理屋「鮒儀」(のちの「重箱」で、のれんを引き継ぐ店は今は赤坂にある)の初代、大谷儀兵衛が始めたといい、江戸後期にはあったとされるが、これについては誤謬説もある。異説では、重箱を使うものは大正時代に登場し、漆器を使うなど高級な印象を与えることを狙ったようで、現在でも鰻丼と比べると価格が高い傾向がある。また、鰻と御飯が二重になっている物をそう呼ぶ事がある(器の底から「御飯-鰻-御飯-鰻」と「重」ねる意味から)。
出典:wikipedia
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