竹下派七奉行(たけしたはななぶぎょう)は、1980年代後半に竹下登・金丸信が自民党内に結成した経世会(竹下派)において、竹下・金丸の後継者と目された7人の有力政治家を指した言葉。彼らの歴史は、基本的に竹下系と金丸系の対立を軸に推移する。小渕・橋本・奥田の3人については、このうちいずれか1人を入れないでいうことも多くもあり、その場合は六奉行とよばれた。中曽根康弘は5年間にわたり内閣総理大臣を務め、竹下の自民党総裁就任にあたって影響力を行使したが、リクルート事件で党籍離脱に追い込まれたため、経世会への求心力がますます高まった。その頃から七奉行は次々と要職に起用されてゆき、権力の中枢を歩むことになる。宇野政権では大逆風となった1989年参院選に敗れた橋本幹事長が「チクショー」と悔しがるシーンがTVで放映され話題となったが、この参院選では不人気の宇野首相に代わり、人気弁士として全国を応援に回った橋本が評価を高めることになった。こうして最初に総理候補とされたのが1989年のポスト宇野総裁選びでの橋本だった。しかし、この時小沢が橋本の女性スキャンダルを探し出し橋本総理の芽をつぶす。これが「一龍戦争」の発端である。結局、金丸が担いだ海部政権では、橋本と入れ替わるように小沢が幹事長に就任。海部政権の長期化と共に小沢の権力伸張は著しくなる。金丸の威光を背景に政策を牛耳り、竹下派竹下系を政策中枢から外したため、橋本・梶山らが不満を募らせる。1991年5月の東京都知事選挙では、小沢は都連と対立した上敗北。この責任を取り小沢が幹事長辞任、後任幹事長に派副会長だった小渕が就任。しかし小沢は同じく派副会長から会長代行に昇格、派での影響力を増すことになった。この異動には将来小沢を会長に据えたい金丸の意向があった。これに対し竹下は再度総理として登板することに意欲を持っており、小沢を会長に据えることは反対であった。1991年9月、小選挙区法案を巡り、解散賛成派の金丸系と、解散反対派の竹下系が完全に対立する。海部は選挙制度改革派の若手に押され「重大な決意で臨む」と記者会見などで発言し解散して信を問う決意を固め、小渕幹事長も解散準備を行うが、解散決定の閣議15分前に小沢会長代行が海部に「経世会は解散を支持せず」と伝える。進退窮まった海部総理は内閣総辞職に追い込まれた(海部おろし)。この時は金丸系と竹下系の役回りが逆であったと思われていることが多い。10月10日、自由民主党総裁選挙において海部の後継総裁を争った宮沢喜一・渡辺美智雄・三塚博との面接を行ったのが小沢と渡部であり、小沢の個人事務所で実施されたことから「小沢面接」と呼ばれた(当選回数や年齢などで上の人間を自分の事務所に呼びつけたことで党内外から批判の声も大きかったが、当時は祝日でホテルの確保が困難な事情もあった)。竹下派会長であった金丸信が1992年に発覚した東京佐川急便事件で会長職を辞任したのをきっかけに、後継会長を巡る派内抗争に発展した。この結果、派閥オーナーである竹下と、会長代行である小沢の対立が深刻化した。七奉行は竹下側に立った「小渕・橋本・梶山」と、表の羽田・裏の小沢を二枚看板とする「小沢・羽田・渡部・奥田」に分裂することになる。後継会長人事で、竹下系は竹下の側近中の側近である小渕を推し、小沢・羽田系は清新なイメージの羽田を推した。両者は中間派であった羽田グループの引き込みに奔走。羽田に対し、竹下は「派閥会長」「宮沢後の総理総裁」を約束し、小沢は「選挙制度改革の実現」を訴えた。強硬な政治改革論者であった羽田は、小沢に合流することを選択。羽田と親密であった奥田らも同調した。衆議院では小沢系が67人中35人と過半数を固めたが、参議院は衆議院を握ればそちらへ流れると見て工作を怠った。一方小渕系は竹下の命を受けた青木幹雄・斎藤十朗らが小渕支持工作に奔走し38人中30人を固め、直後の金丸・竹下・小沢の3者会談で小沢が竹下をなじる一幕があった(参院は小沢の「参院は(衆院さえ固めれば)後からついて来る」という参院軽視発言が瞬時に伝わったため、それまで衆院で優勢な体制を築き上げつつあったにもかかわらず参院側の離脱を招いた。また、先に事務所の金庫を押さえたのも竹下側であった)。最終的に会長を決定する経世会最高幹部会で、座長の原田憲が小渕支持の座長見解を出し、小渕が後継会長の座に就いた。旧竹下系は小渕派となり、第4派閥に転落した。一方の小沢・羽田系44名は経世会を離脱して改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げた。これによって竹下派七奉行は同じ派閥の中で活動することはなくなった。宮沢内閣で冷遇された羽田派はやがて自民党を離党して新生党に発展し、自民党の55年体制を崩壊させた。一方小渕派は徐々に力を取り戻し、自民党の政権復帰後は1995年の総裁選で梶山・野中広務が橋本総裁実現に大きく貢献した。橋本は総理就任後梶山を官房長官に就け構造改革・財政再建を断行する。1997年頃、連立相手をめぐり梶山は新進党内で孤立しかけていた小沢と保保連合構想を模索し、自社さ派の野中広務と対立する。橋本ははじめやや保保派寄りと見られていたが1997年9月、橋本と小渕が自社さ派に屈する形で自社さ派の勝利で対立が決着した。これにより、梶山が官房長官を辞任し、橋本と決別することになった。橋本内閣は景気の悪化による1998年の参議院選大敗の責任をとり総辞職。後継総裁をめぐって、竹下、野中ら自社さ派の推す小渕と保保派の推す梶山が真っ向から対立。橋本は同年齢、同期で最大の親友である小渕を支持し、梶山は小渕派を離脱して総裁選に出馬した結果、小渕が勝利し小渕政権が誕生。一方、1998年7月には奥田敬和が死去している。小渕政権は前任の橋本改革路線とは正反対の経済財政政策を採り、景気回復に努めた。この頃から野中広務・青木幹雄・村岡兼造らポスト七奉行世代の実力者が派をリードするようになった。2000年5月小渕が死去すると、派閥会長は橋本が引き継いだ。小渕と橋本は政策的には距離があったが政局では一度も敵対することはなかった。しかし会長になっても橋本改革路線は復活せず、野中・青木・村岡を含めた集団指導体制になった。また、2000年には竹下・梶山が相次いで死去している。2001年3月、ポスト森総裁選に野中を推す声が派内で高まるが、青木が強硬に反対し実現せず、結局橋本が再び立候補することになった。橋本は野中の要望を聞き入れ総理時代の改革路線を大幅に修正し、景気回復との両立を図ることを公約に立候補したが、「変人」小泉純一郎の前にまさかの大敗北を喫した。2006年7月、橋本龍太郎が腸管虚血で死去。2009年8月、得票確保に疾走した小沢の功績もあり、民主党が衆議院議員総選挙において絶対安定多数を上回る308議席を獲得。第1党に躍進。議場にて戦友とも言うべき羽田と労を労うシーンも見られた。なお、羽田はこの任期をもっての引退を示唆している。2012年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙において、前述の羽田に加えて渡部も出馬せず引退した。第182回国会召集時点で、現職の国会議員は小沢ただ一人となった。羽田・小沢・梶山の3人は金丸信から、「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評価されていた。奥田・小沢・梶山・橋本は強行型、小渕・羽田・渡部は調整型のリーダーといわれる。
出典:wikipedia
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