佐伯海軍航空隊(さえきかいぐんこうくうたい)は日本海軍の部隊の一つ。瀬戸内海奥に位置する呉軍港から太平洋に出撃する艦艇が航行する豊後水道の安全確保を図るため、上空哨戒を行う航空隊である。ほぼ全期間を呉鎮守府部隊として豊後水道の哨戒に専念した。豊後水道での潜水艦攻撃を描写したアメリカ映画「深く静かに潜航せよ」にも、佐伯空の任務を髣髴させる航空機の活動が描かれている。豊後水道は、呉軍港に出入港する艦艇が必ず通過する。この海域を防御するため、海軍は昭和6年より九州東岸に航空基地を建設する計画を立てた。候補地となった大分県南海部郡佐伯町と宮崎県東臼杵郡富高町は半年にわたり熾烈な誘致活動を繰り広げた。昭和6年8月に佐伯への設置が内定し、佐伯町は番匠川河口の女島を提供した。地元の協力を得て、佐伯空の工事は順調に進捗し、昭和9年12月1日に開隊を迎えた。各軍港に設置された航空隊が偵察専門であったのに対し、豊後水道防衛に備えた佐伯空は爆撃機を中心に編成され、内戦航空隊の中では館山海軍航空隊に次ぐ実戦力を持っていた。自治体名の「さいき」ではなく、古来より呼び習わされてきた「さえき」を名乗る。先に同じ文字で始まる佐世保海軍航空隊が存在したため、機体識別記号は「サヘ-機体番号」(歴史的仮名遣では「さへき」と書くため)と記入していた。 以後、艦隊の出入港に合わせて豊後水道の航路警戒に従事。 以後、豊後水道~都井岬南方海上で潜水艦との接触が頻発。先制爆撃・水上艦誘導など対潜掃討に従事。佐伯飛行場は終戦までに6回の空襲を受け、基地のみならず市民にも被害が出た。九州各地の飛行場が特攻作戦のためにフル稼働する中、佐伯飛行場は豊後水道の哨戒任務に専念していた。しかし、大和の出撃を最後に連合艦隊の出入港は凍結され、佐伯空の哨戒任務の価値は大きく落ちていた。滑走路が造成された女島地区は民間に開放され、佐伯自動車学校や興人佐伯工場などが新たに開かれた。特に興人構内は戦前の施設が多く残されている。対岸の航空隊司令部庁舎は戦災から免れ、海上自衛隊佐伯基地分遣隊庁舎として現在も活用されている。
出典:wikipedia
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