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黒田斉隆

黒田 斉隆(くろだ なりたか)は、江戸時代後期の大名。筑前国福岡藩第9代藩主。安永6年(1777年)9月21日、江戸城内一橋邸にて生まれる。一橋徳川家2代当主・徳川治済の三男で、母は側室・お富の方。第11代将軍徳川家斉は実兄で同母。福岡藩第7代藩主黒田治之の甥に当たる。幼名は、雅之助 。天明2年(1782年)12月19日、福岡藩主黒田治高の末期養子として僅か5歳で福岡藩黒田家の家督を相続する。のちに実兄、家斉から偏諱を授かり、諱名を斉隆とした。父の治済は将軍実父として、幕府内において隠然たる大きな影響力を持っており、先代の治高が死去前に養子として指名していた事や弟の先々代治之との繋がりから両家の重臣と話合いを持ち、息子の三男、雅之助(後の斉隆)を幼いまま、福岡藩黒田氏の養子に入れた。斉隆は若くして死去したため正室はいないが、側室の真妙院との間に、第10代藩主・斉清がいる。幼い頃より文学に嗜み、儒学を好んだ。側室・駒子(真妙院)の養父、福岡藩士で儒学者の渡辺忠蔵は藩が警護していた長崎にて平賀源内と問答をしている記録が残る。また、側室の駒子は、先々代、治之の正室、亀姫瑤津院の計らいにより、藩主生母として、新間の方(しんまのかた)と呼ばれた。 天明3年(1783年)、福岡藩領内に重臣等の献策もあり、藩儒・竹田定良と、儒医・亀井南冥に、藩校を創建することを命じる。天明4年(1784年)、定良が修猷館(東学問稽古所)(現在の福岡県立修猷館高等学校)、南冥が甘棠館(西学問稽古所)を開館している。寛政2年(1790年)10月15日、13歳で従四位下侍従・筑前守に叙任する。寛政5年、領地福岡に入る。翌年、領内を巡見し、領民の暮らしぶりを見て周り、顕彰をした。寛政7年(1795年)、斉隆は聡明で博識な藩主として家老たちからも期待されたが病に伏し6月23日、福岡城にて死去した。享年19。幕府には同年8月24日死去と届け出た。跡を嫡男・松次郎、のちの斉清が継いだ。また、斉隆の治世中には、黒田家の先祖を祀る事跡があった。天明3年には、3代藩主黒田光之に廃された黒田綱之を祀る幹亮権現社を創立。同年、初代長政を祀る黒崎大明神の再興。藩祖黒田孝高の父、黒田職隆の墓所が播磨姫路にて発見され、二百回忌の法要、および墓所の築造が当地にて行われた。

出典:wikipedia

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