金城 龍彦(きんじょう たつひこ、1976年7月27日 - )は、大阪市東成区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。現役時代は、横浜ベイスターズ→横浜DeNAベイスターズでのプレーを経て、2015年に読売ジャイアンツ(巨人)で引退。2016年からは、巨人の三軍打撃コーチを務める。元在日韓国3世で、近鉄バファローズの投手だった金城晃世の三男として出生。旧名は金 龍彦(キム・ヨンオン、김용언)で、横浜選手時代の2000年に結婚したことを機に、日本国籍を取得した。近大付高時代は投手で、同期の藤井彰人とバッテリーを組んでいた。2年生の夏に、大阪大会決勝で松井稼頭央・福留孝介を擁するPL学園に勝利し、第75回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦で、金子誠を擁する常総学院に敗れた。当時は、投手でありながら1番打者を任されていた。には韓国の高校野球大会に在日韓国人チームの一員として出場するが、その際には現地の韓国人に受け入れてもらえず厳しいバッシングを受け、とても悔しい思いをしたという。高校卒業後は社会人野球の住友金属に所属。速球と大きく曲がるカーブを武器に活躍。チームを日本選手権優勝に導き、1997年には優秀選手にも選ばれる。1998年度のドラフトで、横浜ベイスターズからの5位指名を受けて入団。投手としての指名であった。入団を機に打者へ転向するとともに、スイッチヒッターに挑戦。本来は右打者だが、社会人での4年間に1度もバットを握っていなかったため、ブランクを埋めようと必死に打撃練習に取り組んだ。1年目の10月3日の対中日ドラゴンズ戦でプロ初出場。翌、対読売ジャイアンツ戦で代打で出場し槙原寛己からプロ入り初本塁打を記録。これをきっかけに2番打者、三塁手のレギュラーに定着。驚異的なペースでヒットを積み重ね、打率が一時4割を超え話題となった。8月18日の対阪神タイガース戦で打率.384で規定打席に到達した。そのまま閉幕まで打率トップを維持し、首位打者のタイトルを獲得し新人王に選出された。同時受賞はプロ野球史上初であり、横浜の選手が新人王となるのは斉藤明雄以来23年ぶりであった。オフにはテレビCMにも出演するなど飛躍の一年となったが、当時、球団が金城の人気を盛り立てようとファンから募集して決まった「ハマの龍神」というニックネームは、あまり定着しなかった。、三塁手としては失策が目立ったことや、俊足・強肩を生かすため、新監督の森祇晶の意向でこの年から外野手へ本格転向。他球団のマークが厳しくなったこと、サインプレーを好む森監督の采配によって2番打者としての要求が増え、自由な打撃が出来なくなったことなどから打率を大きく下げたが、球団記録となる43犠打を記録するなど繋ぎ役として活躍。しかしはキャンプイン前の減量が仇になり、さらに大きく打率をさげて1割台に終わった。は1番打者として打率3割を記録し、16本塁打を記録するなど長打力も身につけた。同年、1試合左右両打席本塁打を2回記録したが、1年での記録はセ・リーグ史上初であった。外野転向後は主に中堅を守っていたが、から多村仁が中堅に入り、金城は右翼を守るようになった。同時に、打順も6番になったが、2年連続となる打率3割を記録した。に打順が3番になると、ロバート・ローズの球団記録にあと1本と迫る191安打を記録し、打点も自己最多を記録。さらに、守備も評価され、ゴールデングラブ賞を初受賞。これらの働きが評価され、3月に開催されたWBC日本代表に選出された。2006年は前年に続き3番・右翼に入るが、調子が上がらず、後半になると7番打者に回り、最終的な打率も.268に終わる。しかし故障者が相次ぐ中全144試合出場を果たした。は多村が福岡ソフトバンクホークスへ移籍したこともあり、再び中堅手に戻る。前半戦は打撃不調に陥るが、後半戦で打率を2割8分台まで持ち直した。2度目のゴールデングラブ賞を受賞した。は4月に猛打賞を3度記録するなどしたが、夏場には調子を落とし、スタメン落ちもしばしば経験した。最終的には打率.247で、本塁打も9本の成績に終わる。FA権を取得したが、FA権は行使せず残留することを表明し、横浜と2年の複数年契約を結んだ。以降はスタメン出場が激減し、守備固めや代打として出場することが目立つようになった。オフにFA権を行使したが他球団からオファーはなく、年俸5000万円の1年契約で横浜に残留した。は体重を首位打者を獲った当時に戻した。開幕スタメンこそならなかったが、前半戦はレギュラーに定着。夏場はスタメン落ちが増えるも安定した成績を残していたが、9月26日の対広島東洋カープ戦で走塁中に左足を痛め、左大腿二頭筋肉離れで全治4~6週間と診断され戦線を離脱する。そのまま復帰できずにシーズンを終え、108試合の出場に留まった。は開幕スタメンに名を連ね、4月1日の開幕第3戦となる対阪神戦で横浜DeNAベイスターズとしてのチーム第1号本塁打を放つ。9月14日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)にて村中恭兵からこの日2安打目となるヒットをセンター前へ放ち、通算1500本安打を達成。スタメンの機会は多かったが、代打での打率が3割越えを記録するなど、代打で結果を残すことが多かった。一方得点圏打率が.132に終わるなど、チャンスには極端に弱かった。結局、オフには40%ダウンの3000万円プラス出来高で契約更改を行った。。5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦で通算100号本塁打を達成。118試合に出場し、打率.291、本塁打6、打点36を記録した。、5月26日の対オリックス戦(横浜スタジアム)の延長10回2死一、二塁の場面で代打で出場、サヨナラ打となる中前適時打を放つ。通算8本目のサヨナラ安打は球団タイ記録となった。しかし、一軍では2002年以来の本塁打0に終わった。シーズン終了後には、現役からの引退とコーチへの就任を打診した球団に対して、海外FA権の行使を宣言。球団が宣言選手の残留を認めない方針を立てているため、事実上退団が決まった。海外FA権の行使を宣言した金城に対して、巨人だけが交渉に応じたため、2014年11月15日の初交渉で同球団への入団に合意。2014年12月8日の入団記者会見には、自身と同じくFA権の行使によってヤクルトから移籍した横浜時代の同僚・相川亮二も顔を揃えた。背番号は33。には、春先から野手の故障者や不振が相次いだことを受けて、開幕から1番打者としてスタメンに起用された。古巣・DeNAと横浜スタジアムで対戦した4月15日には、移籍第1号となる3点本塁打を放ってチームの勝利に貢献。試合後には、移籍後初めて、同スタジアムでヒーローインタビューを受けた。しかし、試合を重ねるにつれて、打率が徐々に下降。左前腕外頭部の損傷で登録を抹消された6月以降は、一軍公式戦での出場機会がなかった。二軍のイースタン・リーグ優勝で臨んだ福岡ソフトバンクホークスとのファーム日本選手権(10月3日・サンマリンスタジアム宮崎)では、「7番・左翼手」としてスタメンに起用されると、3安打を放って優秀選手賞を受賞。その一方で、一軍公式戦への出場は36試合にとどまった。2015年10月18日に、球団へ任意引退を申し入れた。球団は、この申し入れを受諾したうえで、金城の現役引退を発表した。11月5日に、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された。2016年から巨人が三軍を新設することを受けて、同年から三軍の打撃コーチを務める。プロ入りを機に投手から野手に転向したのは、150キロのストレートを投げる肩の強さ、身体能力の高さに横浜のスカウトが目をつけたことがきっかけ。それと同時にスイッチヒッターになったのは俊足を活かすためである。右打席のときはバットを振り切り、左打席ではフォロースルー直後に一塁へ駆け出す。上体を突っ込み気味にしながら打つというプロ野球選手でも珍しいバッティングフォームだが、ボールとの距離感を掴むためにはこのフォームが一番打ちやすいという。横浜時代の通算8本のサヨナラ安打は球団最多タイ記録である。礼儀正しく謙虚な人柄である。子どもの頃から人に対してとても優しく謙虚な姿勢の父を見てきたため、その姿をずっと目標にしてきたとのことである。
出典:wikipedia
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