LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

愛新覚羅溥傑

愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ、アイシンギョロ・プギェ、 転写:Aisin-gioro pu-giye、1907年4月16日 - 1994年2月28日)は、清朝最後の皇帝で、のちに満洲国皇帝に即位した愛新覚羅溥儀の実弟。清朝における地位は醇親王継嗣、満洲国軍人としての階級は陸軍中校(中佐に相当)。中華人民共和国では全国人民代表大会常務委員会委員、全国人民代表大会民族委員会副主任。立命館大学名誉法学博士。書家でもあり、流水の如き独特の書体は流麗で人気が高かった。2013年(平成25年)9月、溥傑の次女である福永嫮生から関西学院大学博物館開設準備室に、愛新覚羅溥傑家関係資料(愛新覚羅溥傑・妻の浩・娘の慧生・嫮生の各氏に関係する貴重な写真、原稿、書、書簡、書籍や、溥傑並びに浩夫人の実家である嵯峨侯爵家(旧正親町三条家)に関係する資料などが寄贈されている。醇親王載灃とグワルギャ氏(瓜爾佳氏)・幼蘭の次男として生まれた溥傑は、兄である第12代清朝皇帝(宣統帝)に仕え信頼を得ていた。また、醇親王家長男の溥儀が皇帝となったため、溥傑が醇親王家の継嗣となった。1929年(昭和4年)3月に婉容皇后の実弟・潤麒と共に来日し、日本語等の学習後、学習院高等科に留学。この間の1932年(大同元年)3月に満洲国が建国され、兄の溥儀が満洲国執政(のちに満洲国皇帝)となる。1933年(昭和8年)3月、学習院高等科卒業。同年9月、陸軍士官学校本科入学、1935年(昭和10年)7月に卒業して見習士官に任官。同年9月に満洲国陸軍に入隊する。溥傑は1924年(宣統16年=民国13年)に、端康太妃(光緒帝側室)の姪・唐石霞と結婚したが、価値観の違いからうまくいかず、唐石霞は実家に帰ってしまい、婚姻生活はその後の溥傑の日本留学とともに自然消滅した。満洲国皇帝に即位した溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向をもっていた。しかし日本の皇室典範及び皇室典範増補は、皇族女子の配偶者を、皇族、王公族、または勅旨により特に認許された華族に限定していたため、たとえ満洲国の皇弟といえども溥傑との婚姻は制度上認められなかった。そこで侯爵嵯峨実勝の長女で、昭和天皇の遠縁(父親同士が母系のまたいとこ、八親等)にあたる嵯峨浩との縁談が関東軍の主導でまとめられ、1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満洲国駐日大使館から発表され、同年4月3日に東京の軍人会館(現・九段会館)で結婚式が挙げられた。当時溥傑は日本の陸軍歩兵学校に在籍していたため、ふたりは千葉市稲毛に新居(愛新覚羅溥傑仮寓)を構えた後、同年9月に溥傑が、10月には浩が満洲国の首都新京へ渡った。明らかな政略結婚だったが、ふたりの仲は円満で、1938年(康徳5年/昭和13年)に長女・慧生、1940年(康徳7年/昭和15年)に次女・嫮生の二女に恵まれた。1937年(康徳4年)3月には日本の皇室典範を参考に満洲国の帝位継承法が制定されて「帝子孫皆在ラザルトキハ帝兄弟及其ノ子孫ニ伝フ」という文が盛り込まれており、当時関東軍や満洲国政府は溥儀の実子生誕は半ば諦めて将来の満洲国皇帝となる溥傑とその男子生誕を大きく期待していたとされる。1938年(康徳5年)10月、満洲国駐日大使館附武官室勤務を命じられて東京に赴任。翌1939年(康徳6年)11月に奉天の歩兵将校軍官学校教官に任官され教鞭を執る。1941年(康徳8年)12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と交戦状態に入ったことを受け、満洲国もこれらの国々と戦争状態に入ったものの、満洲国はほとんど戦禍を受けなかったために、満洲国陸軍の将校として前線に出ることはなかった。1943年(康徳10年)には日本の陸軍大学校に入校したため、溥傑とその一家はしばらくの間、東京に居を移すこととなった。1944年(康徳11年)12月、学習院初等科に在学中の長女の慧生を残して満洲に戻る。これが慧生と永遠の別れになる。1945年(康徳12年)8月8日、ヤルタ会談でのイギリスやアメリカとの密約により、突如ソビエト連邦政府はモスクワの佐藤尚武駐ソ連日本国特命全権大使に対して日ソ中立条約の破棄を通告し、まもなくソ連軍が北西の外蒙古(現在のモンゴル国)及び北東の沿海州の2方向からソ満国境を越えて満洲国に侵攻した。主力を南方戦線にとられていた関東軍は一方的に敗走し、溥傑やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連の進撃が進むと首都の新京を放棄して、朝鮮に程近い通化省臨江県の大栗子に避難していた。しかし、8月15日に太平洋戦争(大東亜戦争)に日本が敗北したことにより、その2日後の8月17日に国務院会議が満洲国の解体を上奏、8月18日には大栗子で溥儀が満洲国解体を自ら宣言するとともに皇帝を退位した。溥儀と溥傑は、ソ連軍に捕まることを避けて通化から日本軍機で日本へ逃亡する途中、経由地の奉天の飛行場で赤軍空挺部隊に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され、ソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に収監された。その後、1950年に中華人民共和国に送還され、戦犯とされて撫順戦犯管理所とハルビンの戦犯収容所で中国共産党による「再教育」を受けた。1954年、長女・慧生が国務院総理の周恩来に「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出し、感動した周により日本にいる妻子との文通を許可される。しかし、1957年(昭和32年)12月、学習院大学に進学していた慧生は、交際していた同級生の大久保武道と伊豆半島天城山でピストル心中した(天城山心中)。1960年に模範囚として釈放され、北京に帰る。翌1961年、妻の浩との再会を果たし、文化大革命を乗り越え、全国人民代表大会常務委員会委員を務めるなど、社会への復帰を果たした。また、1972年の日中国交正常化の後、7度の訪日で日中友好の架け橋として活躍した。1987年6月20日に、長年連れ添った妻の浩が北京の病院で死去した。溥傑はその後も日中友好の懸け橋として両国間で活躍し、1989年1月の昭和天皇崩御時には日本大使館に弔問に訪れた。1991年10月28日には立命館大学より名誉法学博士の名誉学位を贈呈されている。1992年10月23日の今上天皇の訪中にも立ち会った。1993年から療養していたが、1994年2月28日7時55分に北京で死去した。遺骨は溥傑の生前からの希望によって浩・慧生の遺骨と共に日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は山口県下関市の中山神社(浩の曾祖父である中山忠光が祀られている)境内にある摂社愛新覚羅社に、浩・慧生の遺骨とともに納められ、中国側の遺骨は三人共に中国妙峰山上空より散骨された。陸士時代は小柄な体つきながら相当な精神力の持ち主であり真面目で、厳しい訓練にも耐え抜いたと言う。それと同時に心優しい性格であった事も知られており、非常な家族想いで、妻や娘はもちろん、兄弟愛も強かった。溥傑は日本に留学した後、日本陸軍でも学び、満洲国の軍人としても活動している。下記はその軍歴である。満洲国での軍歴は(満洲国)で記す。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。