高波(たかなみ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦夕雲型の6番艦である。艦名は高波に由来し、海上自衛隊の護衛艦に継承された。1939年度(マル4計画)仮称第121号艦として浦賀船渠で建造。1941年(昭和16年)の段階で日米戦争が始まらなければ、昭和17年度の戦時編制で第六航空戦隊(特設航空母艦3、第31駆逐隊《長波、巻波、高波、大波》)に所属する予定だった。1942年(昭和17年)1月20日、建造中の秋月型駆逐艦3番艦に「涼月」、夕雲型駆逐艦6番艦に『高波』の艦名が正式に与えられた。同日附で夕雲型駆逐艦に類別。3月16日午後4時30分、横須賀鎮守府長官平田昇中将立ち合いの元で本艦は進水。同日、第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)と随伴艦(秋雲、霰、陽炎)も横須賀に入港している。3月28日、浦賀船渠で夕雲型3番艦「風雲」が竣工した。7月24日、浦賀船渠に高波艤装員事務所を設置。7月25日附で朝潮型駆逐艦6番艦山雲駆逐艦長小野四郎少佐は本艦艤装員長に任命される。小野少佐は8月20日附で高波艤装員長職務を解かれ、朝潮型3番艦満潮艦長小倉正味中佐が本艦艤装員長に任命される(同艦はバリ島沖海戦で大破、修理中)。8月31日に竣工。小倉中佐も正式に本艦駆逐艦長となった。高波艤装員事務所を撤去。同日附で空母「雲鷹」は呉鎮守府籍、空母「大鷹」と秋月型駆逐艦2番艦「照月」(高波と同日附8月31日竣工)は佐世保鎮守府籍、本艦は舞鶴鎮守府籍となる。その上で、2隻(照月、高波)は警備駆逐艦に指定された。9月27日、ソロモン諸島に陸軍部隊を輸送する『沖輸送』の第一船団として、輸送船賀茂丸(日本郵船、8,524トン)と陸軍病院船波上丸(大阪商船、4,731トン)を第46号哨戒艇とともに護衛して佐伯を出撃する。しかし目的地ラバウルを目前にした10月7日、第一船団はの地点でアメリカの潜水艦スカルピン ("USS Sculpin, SS-191") の魚雷攻撃により「波上丸」が沈没した。この『沖輸送』参加中の10月1日付で、「高波」は第二水雷戦隊(田中頼三少将・海軍兵学校41期:旗艦五十鈴)第31駆逐隊に編入。同駆逐隊司令は清水利夫大佐(前職、第21駆逐隊《初春、初霜、若葉》司令)。清水司令は本艦を司令駆逐艦に指定した。護衛任務を終えた後はトラック諸島に回航され、10月10日に到着した。10月11日、第二水雷戦隊(軽巡洋艦五十鈴《二水戦旗艦》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を艦砲射撃する第三戦隊(金剛型戦艦2隻《金剛、榛名》。司令官栗田健男中将・海兵38期))を護衛してトラックを出撃。対するアメリカ軍は10月11日-12日のサボ島沖海戦で重巡古鷹と駆逐艦3隻(吹雪、夏雲、叢雲)を撃沈して勝利をおさめたものの、大小の損害を受けて消耗した米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将)もガ島海域から撤収した。10月13日から14日にかけての深夜に行われたヘンダーソン基地艦砲射撃で、第15駆逐隊・第24駆逐隊は第三戦隊(金剛、榛名)の直衛、第31駆逐隊は警戒隊、応援に派遣された第19駆逐隊はガ島~ルッセル諸島の哨戒隊として行動、「長波」がアメリカ軍魚雷艇を撃退した。ヘンダーソン飛行場はかなりの損害を受けたが、航空機42機、B-17重爆6機、日本軍が知らなかった新造滑走路(戦闘機用)が健在だった。14日深夜~15日0017には三川中将直率隊(重巡《鳥海、衣笠》、駆逐艦《天霧、望月》によるヘンダーソン飛行場砲撃が実施されたが、二回の艦砲射撃を受けても同基地はいまだ稼働航空機を多数残していた。一方、第四水雷戦隊(旗艦秋月、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》)が護衛してした高速輸送船団(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸、笹子丸、埼戸丸)は15日朝の時点でガ島に物資・重火器・弾薬・人員の約8割を揚陸していた。ところがヘンダーソン飛行場よりアメリカ軍機のべ129機が襲来して輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を喪失、揚陸した物資も米空母ホーネットの艦載機・ガ島航空隊・米艦隊の艦砲射撃により16日の時点で大部分を焼き払われている。輸送船団の苦戦をみた山本五十六連合艦隊司令長官は15日9時15分に重巡洋艦2隻にガ島飛行場砲撃を下令。第三戦隊とともにガダルカナル島を後にした第二水雷戦隊は、飛行場砲撃隊に指定された第五戦隊の重巡2隻(妙高、摩耶)の護衛に二水戦4隻(旗艦《五十鈴》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)を加勢させる形で兵力を分割した。第五戦隊は10月14日夜にガダルカナル島タサファロングの浜辺に突入して撃沈された高速輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を見つつ、10月15日夜に艦砲射撃を敢行。砲撃は約1時間で終わり妙高20㎝砲弾476発、摩耶20㎝砲弾450発を発射、第31駆逐隊も253発の砲撃を行った。戦場を離脱後、10月17日夜に第二艦隊(司令長官近藤信竹中将・海兵35期)および第三艦隊(南雲忠一中将・海兵36期))主力と合流し、補給を行いつつ敵を求めて進撃を続けた。10月26日の南太平洋海戦における第二水雷戦隊は前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊長官:旗艦愛宕)に所属し、第四戦隊(愛宕、高雄)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(妙高、摩耶)、第二航空戦隊(隼鷹)と共にアメリカ軍機動部隊と交戦した。10月30日にトラックに帰投した。11月3日、第二水雷戦隊は外南洋部隊増援部隊としてトラックを出撃してショートランドに向かい、5日11時30分到着。同地で増援部隊指揮官は橋本信太郎第三水雷戦隊司令官から田中頼三第二水雷戦隊司令官に変更され、橋本三水戦司令官は軽巡川内以下第三水雷戦隊各艦をひきいてトラック泊地へ戻った。田中司令官はさっそくガ島への鼠輸送を指揮することになった。11月6日深夜、甲増援隊(第15駆逐隊《親潮、早潮、陽炎》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《巻波、高波、長波》、第10駆逐隊《夕雲、風雲》)はショートランドを出撃。途中でB-17 の空襲を受け、高波は軽傷者1名、長波は負傷者16名を出した。輸送隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した。11月12日、増援部隊(早潮《二水戦旗艦》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、天霧、望月)は第三十八師団(佐野忠義中将)の将兵を乗せた11隻の輸送船とともにショートランドを出撃。しかし第三次ソロモン海戦第一夜戦と翌日昼間空襲で3隻(比叡、暁、夕立)が沈没しヘンダーソン飛行場砲撃が中止されたことを受け、命令に従い輸送船団は一旦ショートランド泊地に戻った。外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)は西村祥治第七戦隊司令官(旗艦「鈴谷」)ひきいる外南洋部隊支援隊(巡洋艦《鈴谷、摩耶、天龍》、駆逐艦《夕雲、巻雲、風雲、朝潮》)にガ島飛行場砲撃を命じ、自らも主隊(鳥海、衣笠、五十鈴)をもって掩護にあたった。支援隊は13日深夜に飛行場砲撃を実施したが、重巡2隻(鈴谷、摩耶)の砲撃では飛行場を破壊できず、14日昼間のアメリカ軍機の空襲(飛行場から飛来)で「衣笠」が撃沈され、各艦(鳥海、摩耶、五十鈴)も損傷を受けている。一方の輸送船団(第二水雷戦隊)も、14日夜の揚陸を予定して13日15時30分ショートランド泊地を出撃、支援隊飛行場砲撃成功の報告を受けてガ島へ向け南下していた。衣笠が沈没しつつあったころ、輸送船団もヘンダーソン飛行場から飛来した空母エンタープライズ("USS Enterprise, CV-6") の艦載機、陸軍機、海兵隊機による8度にわたる反復攻撃を受ける。11隻の輸送船は6隻が沈没、「佐渡丸」が駆逐艦2隻(天霧、望月)に護衛されて退避した。田中少将は駆逐艦と残存の輸送船4隻をサボ島沖に向かう前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦《愛宕》、射撃隊《愛宕、高雄、霧島、長良、電、五月雨》、直衛隊《朝雲、白雪、初雪、照月》、掃蕩隊《川内、浦波、敷波、綾波》)の後につけさせてガ島へむかった。前進部隊とウィリス・A・リー少将指揮下の米艦隊(戦艦《ワシントン、サウスダコタ》、駆逐艦4)との間に第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起すると、田中司令官は第15駆逐隊(親潮、陽炎)をして米戦艦を追撃させた(親潮は魚雷発射、1本命中報告《誤認》、陽炎は魚雷発射せず)。自身は輸送船団と共に反転。日本艦隊から2隻(霧島、綾波)が沈没し、米戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)が戦場から離脱した段階で近藤中将は輸送船団の突入を下令する。外南洋部隊指揮官(三川中将/第八艦隊司令長官)は通常の揚陸を指示したが、田中司令官は第八艦隊の命令を無視する形で、輸送船4隻(広川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)をタサファロングの浜辺に擱座させた。人員約2000名は揚陸したものの、日中の空襲と米艦隊の艦砲射撃により輸送船4隻は炎上、揚陸物資・弾薬・重火器のほとんどを喪失した。第二水雷戦隊は11月15日にショートランドに帰投した。輸送船団によるガダルカナル島突入が失敗に終わると、ガダルカナル島の友軍2万数千名に対する糧食・弾薬の補給は緊急案件となった。各種輸送手段を研究した連合艦隊は、ドラム缶を用いた鼠輸送に切り替える。参加部隊は11月27日までにショートランド泊地に集結した。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと第八艦隊司令部(三川軍一中将・海兵38期)に二度意見具申したが、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された。二度も意見を却下された田中少将は、輸送隊の駆逐艦から予備魚雷を降ろし、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた。増援部隊の区分は、警戒隊(指揮官二水戦司令官、第31駆逐隊《長波、高波》)、第一輸送隊(指揮官佐藤寅治郎第15駆逐隊司令、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、巻波)、第二輸送隊(指揮官中原義一郎第24駆逐隊司令、第24駆逐隊《江風、涼風》)の計駆逐艦8隻である。田中少将は「長波」に将旗を掲げた。高波は第31駆逐隊の司令駆逐艦で、航行隊形は高波-親潮-黒潮-陽炎-巻波-長波《旗艦》-江風-涼風だった。11月29日夜22時45分、第二水雷戦隊はショートランドを出撃して北方からガダルカナル島を目指した。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17 (戦史叢書ではB-25)に発見される。これを受け、南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は「東京急行」を阻止すべく、カールトン・H・ライト少将のを出撃させた。サボ島沖に差し掛かった20時頃、「高波」は下令により単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備える。21時12分、高波は第67任務部隊を発見し『100度方向ニ敵ラシキ艦影見ユ』と報告、1分後に「黒潮」も敵艦影を発見、輸送隊は警戒しつつドラム缶投入準備を続けた。21時15分、高波は『敵駆逐艦七隻見ユ』と報告し、これを受けて田中少将は『揚陸止メ、全軍突撃セヨ』(21時16分)を下令する。ルンガ沖夜戦(アメリカ軍呼称タサファロンガ海戦 "Battle of Tassafaronga")の始まりである。アメリカ軍側はレーダーで第二水雷戦隊を補足、平行反航の針路で航行していたが、レーダー目標と背後のガダルカナル島海岸が混ざって絶好の雷撃機会を逸した。第67任務部隊前衛駆逐艦群の魚雷は命中しなかったが、巡洋艦部隊は他の駆逐艦より「いくらか近くにいた駆逐艦(高波)」を砲撃、炎上させた。一方で、敵発見を報じた「高波」は21時20分頃から第67任務部隊の集中砲火を浴び、舵故障を起こしつつ人力操舵で操艦した。12.7㎝主砲で反撃しつつ酸素魚雷8本を発射したものの、袋叩きの末航行不能となった。生還した江田高一(高波航海長)は『砲弾が集中したとき、息ができないほどだった』と回想している。旗艦「長波」は魚雷を発射すると、反転して避退した。第24駆逐隊(江風、涼風)は距離約8000mで魚雷を発射後、旗艦に追及した。第一輸送隊(親潮、黒潮、陽炎、巻波)は米艦隊に気付かれず、その隙を突いて距離3000mで酸素魚雷を発射。その槍衾は第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲い掛かった。先頭のミネアポリス ("USS Minneapolis, CA-36") には魚雷が2本命中し艦首を吹き飛ばし、ミネアポリスの後方を包んでいたニューオーリンズ ("USS New Orleans, CA-32") も魚雷の射線に飛び込み、艦首に魚雷が命中してミネアポリス同様に鼻先を失った。3番艦ペンサコーラ ("USS Pensacola, CA-24") は損傷したミネアポリス、ニューオーリンズの両艦を避けるべく左に舵を切ったが、両艦からの火災によってペンサコーラの艦影が浮かび上がり、日本側による2度目の雷撃の格好の目標となってしまった。ペンサコーラには1本が後部マスト直下の左舷側に命中し、機械室が破壊され砲塔3基が使用不能になった上、大火災が発生した。4番艦ホノルル("USS Honolulu, CL-48") は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。当初無傷だった5番艦ノーザンプトン("USS Northampton, CA-26") は避退する第二水雷戦隊を追撃中に、第15駆逐隊(黒潮、陽炎)が発射した魚雷が命中。魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった。ノーザンプトンは左に大きく倒れ、3時間後に傾斜して燃えながら沈没していった。日本側は、ワシントン型戦艦1隻撃沈・オーガスタ型巡洋艦1隻轟沈・3隻火災(1隻沈没)を報じ(実際戦果、重巡洋艦1沈没、重巡3大破)、米軍は駆逐艦4隻撃沈確実・2隻以上撃破(うち2隻は沈没確実)と見積もった(実際戦果、高波沈没、長波小破)。23時ごろ、戦場を離脱中の第15駆逐隊(親潮、黒潮)は田中司令官(長波)より高波救援命令を受けた。反転した2隻は漂流する「高波」を発見、『短艇なし』の報告をうけて接舷救助を試みる。「親潮」から見ると、「高波」の上部構造物は原型がなく、船体の各所から白煙がのぼり、沈没は時間の問題だった。乗組員の移乗直前、「高波」の見張り員は敵艦の接近を報告。第67任務部隊の駆逐艦部隊が接近してきたため(第15駆逐隊側は巡洋艦2、駆逐艦3と報告)、予備魚雷を降ろしていた2隻(親潮、黒潮)に反撃の手段はなく(この時、黒潮は残魚雷2本発射)、救援を中止して避退した。23時30分頃、清水司令の命令により「高波」は自沈の処置がとられる。当時生存者約100名は退去を開始したが、沈没直前の23時37分に米艦隊が発射した魚雷が艦尾に命中、続いて艦尾の爆雷および弾薬庫が爆発し、サボ島の南6海里の地点(アイアンボトム・サウンド)で沈没した。駆逐艦長小倉正身中佐は高波艦橋で指揮中、1番砲塔被弾時の弾片と爆風により重傷。艦橋から運びだされたのち、戦死している。第31駆逐隊司令清水利夫大佐(海兵46期)も行方不明となった(戦死認定、少将進級)。高波乗員のうち211名が戦死。生存者(准士官以上4名、下士官兵29名)はガ島へ泳ぎ着いた。本海戦で増援部隊旗艦「長波」(田中司令官)は真っ先に避退してしまい、開戦以来の『第二水雷戦隊司令部は弱い』という批判を打ち消すことができなかった。「高波」を囮同然にした挙句、長波(田中司令官)が先に帰ってしまった事に対する反発もあったという。戦史叢書では本海戦における勝利について「高波が一艦で敵の攻撃を引き受けた為、他の駆逐隊が態勢を立て直し夜戦能力を発揮できたから」と総括している。連合艦隊司令部はルンガ沖夜戦の戦訓から警戒駆逐艦の増強を認め、秋月型駆逐艦2番艦「照月」と第17駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(浦風、谷風)を増援部隊に編入した。田中司令官は新鋭艦照月を旗艦として12月11日に第四次ドラム缶輸送を実施したが、アメリカ軍魚雷艇の襲撃により「照月」を喪失、田中司令官も負傷した。田中司令官は「長波」に移乗して脱出、輸送作戦も失敗している。第四次輸送作戦は、山本五十六連合艦隊司令長官が『あらゆる手段を講じ任務達成に努めよ』と激励した作戦だった。12月18日、参謀総長杉山元陸軍大将は昭和天皇に海軍の度重なる輸送作戦失敗について奏上した。駆逐艦「高波」は12月24日附で帝国駆逐艦籍、第31駆逐隊、夕雲型駆逐艦のそれぞれから除籍された。12月29日附で第二水雷戦隊(増援部隊)司令官は田中少将から小柳冨次少将に交代(30日到着)。その後、田中少将は舞鶴海兵団やビルマ第13根拠地隊にまわされ、海上勤務に戻ることなく終戦を迎えた。本艦と共に戦死した清水大佐(戦死後、少将)の後任には、1943年(昭和18年)2月12日附で香川清登大佐が任命されている。司令駆逐艦は、夕雲型駆逐艦7番艦「大波」に変更された。
出典:wikipedia
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