清波(きよなみ)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦夕雲型の8番艦である。1943年(昭和18年)7月20日、夜間空襲を受け沈没した駆逐艦夕暮の救援中に撃沈され、2隻ともほぼ総員が戦死した。1939年度(マル4計画)仮称第123号艦として浦賀船渠で建造される。1942年(昭和17年)6月20日、夕雲型7番艦に『大波』、本艦に『清波』の艦名が与えられる。同日附で2隻(大波、清波)は夕雲型駆逐艦に類別された。8月17日、進水。同年12月1日附で陽炎型駆逐艦17番艦萩風駆逐艦長畑野健二少佐は、清波艤装員長に任命される。12月3日、浦賀船渠に艤装員事務所を設置。12月28日附で清波艤装員長は有馬時吉中佐に交代する。有馬は、駆逐艦菊月艦長、山雲艦長、綾波艦長等を歴任し、昭和17年11月28日まで駆逐艦親潮駆逐艦長だった。清波は1943年(昭和18年)1月25日に竣工した。艤装員事務所を撤去。正式に舞鶴鎮守府籍となり、警備駆逐艦に指定となる。そのまま横須賀鎮守府部隊に編入された。1943年(昭和18年)2月25日、清波は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将・海軍兵学校42期)・第31駆逐隊に編入され、同駆逐隊は夕雲型駆逐艦4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。第31駆逐隊の編制は第1小隊1番艦大波、2番艦清波、第2小隊3番艦巻波、4番艦長波に変更されている。前任の駆逐隊司令清水利夫大佐はルンガ沖夜戦で夕雲型6番艦高波沈没時に戦死しており、後任の香川清登大佐は2月12日附で任命されたばかりだった。2月27日-28日、清波は白露型駆逐艦7番艦海風(第24駆逐隊)とともに特設巡洋艦盤谷丸(大阪商船、5,351トン)および西貢丸(大阪商船、5,350トン)を護衛して横須賀を出港し、トラック諸島に向かう。3月8日にトラックに到着。一緒に護衛する艦艇が夕雲型姉妹艦大波に代わり、3月12日にトラックを出港してタラワに向かった。3月20日、船団(大波、清波、盤谷丸、西貢丸)はタラワを出発、他艦と別れた清波はクェゼリン環礁に回航され、輸送船「天城山丸」(三井船舶、7,620トン)の護衛をまかされた。2隻(清波、天城山丸)は同地を3月22日に出港し、3月25日にトラックに帰投した。つづいて26日に靖国丸の護衛に出向き、27日トラックへ帰投する。4月9日、31駆2隻(大波、清波)は内南洋部隊に編入される。その後も5月10日までの間、第四根拠地隊および第二海上護衛隊の指揮下にてトラックとラバウル、カビエン方面との船団護衛に従事した。この間、31駆僚艦の長波は横須賀に回航され北方部隊(第五艦隊基幹)に編入、キスカ島撤退作戦に従事することになった。6月5日、駆逐艦3隻(清波、萩風、潮)は、空母2隻(雲鷹、冲鷹)の横須賀回航を護衛する事になった。6月5日トラックを出発し、本土へ向かう。6月11日横須賀到着。6月16日、清波は第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡「五十鈴」、駆逐艦部隊(第27駆逐隊《時雨、初春、夕暮》、第7駆逐隊《潮、曙、漣》、第16駆逐隊《雪風》、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第24駆逐隊《涼風》、秋月型《新月》、夕雲型《清波》)という戦力で横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した。ガダルカナル島の戦いに勝利したアメリカ軍は、次の目標をガ島北西のニュージョージア諸島に定めた。6月30日、アメリカ軍はカートホイール作戦を発動。ニュージョージア島、レンドバ島などへ上陸を敢行してニュージョージア島の戦いがはじまり、ソロモン諸島方面の状況は緊迫の度合いを増した。7月2日、駆逐艦2隻(夕暮、清波)は油槽船玄洋丸を護衛し、空母龍鳳基地要員を便乗の上でトラックを出発、7月5日ラバウルへ到着する。同日夜、外南洋増援部隊(第三水雷戦隊)はクラ湾夜戦に参加、旗艦としていた秋月型駆逐艦5番艦新月沈没と共に増援部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官と三水戦司令部は全滅した。そこで重巡鳥海艦長有賀幸作大佐が臨時に増援部隊(第三水雷戦隊)の指揮をとった。また鳥海を増援部隊に編入してしまったので、第八艦隊(司令長官鮫島具重中将・海兵37期)は臨時旗艦を陽炎型駆逐艦8番艦雪風に定めた(執務はブイン基地でおこなう)。7月7日、南東方面部隊は兵力増強を要請し、連合艦隊は第二水雷戦隊に所属する軽巡神通と駆逐艦清波を南東方面部隊に編入、2隻(神通、清波)は第八艦隊(司令長官鮫島中将)の指揮下に入った(7月8日トラック出港)。つづいて連合艦隊は第七戦隊(司令官西村祥治少将・海兵39期)および同戦隊所属の重巡2隻(鈴谷、熊野)に出撃準備を命じた。第七戦隊は駆逐艦2隻(有明、朝凪)をひきいて7月10日朝ラバウルに到着、外南洋部隊支援部隊に編入された。一方、戦死した秋山少将の後任として伊集院松治大佐(金剛型戦艦金剛艦長)が7月7日附で第三水雷戦隊司令官に任命されていたが、伊集院は7月10日に着任したばかりであり、三水戦の準備は整っていなかった。新司令部の準備がととのうまでの間、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が増援部隊の指揮をとることになった。7月11日、ラバウルに巡洋艦(鳥海、川内)、駆逐艦部隊(三日月、夕凪、雪風、浜風、谷風、夕暮)が集結し、南東方面部隊の戦力は整いつつあった。警戒隊(指揮官/二水戦司令官)軽巡1隻・駆逐艦6隻(神通、清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)は7月12日3時30分ラバウルを出撃、輸送隊(指揮官/22駆逐隊司令)・駆逐艦4隻(皐月、水無月、夕凪、松風)は18時40分にブインを出撃した。7月12日深夜にコロンバンガラ島への輸送作戦の途中で生起したコロンバンガラ島沖海戦では、第二水雷戦隊旗艦の軽巡神通が第36.1任務群(ヴォールデン・L・エインスワース少将)のアメリカ・ニュージーランド巡洋艦部隊の集中砲火によって沈没するが、残された駆逐艦部隊は二度の雷撃でアメリカの軽巡洋艦ホノルル ("USS Honolulu, CL-48") 、セントルイス ("USS St. Louis, CL-49") およびニュージーランドの軽巡洋艦リアンダー("HMNZS Leander") に損傷を与え、アメリカの駆逐艦グウィン("USS Gwin, DD-433") を撃沈した。しかし神通の沈没により第二水雷戦隊は伊崎司令官・司令部要員ごと全滅。そこで7月20日附で第四水雷戦隊を解隊し、第四水雷戦隊司令官高間完少将を第二水雷戦隊司令官に任命。同隊司令部および戦力(軽巡長良、駆逐艦時雨、夕暮、有明、五月雨等)を第二水雷戦隊残存兵力(第31駆逐隊《清波、大波、長波、巻波》、第24駆逐隊《涼風、海風、江風》、附属《島風》)と統合することにした。一方、コロンバンガラ島沖海戦および7月6日夜のクラ湾夜戦では輸送部隊は巡洋艦部隊に遭遇して戦闘を行ったため、主目的である輸送作戦を完遂できなかった。また日本軍は大きな損害を受けたが、それ以上にアメリカ軍に大打撃を与えたと判断し、再び敵水上艦艇の撃滅と輸送作戦の実施を企図した。7月16日、第三水雷戦隊司令官(伊集院大佐)が率いる水雷戦隊の区分は(軽巡川内〔三水戦旗艦〕、第1小隊《16駆司令〔雪風〕:雪風、浜風、清波、夕暮》、第2小隊《22駆司令〔皐月〕:皐月、水無月》)・輸送隊(30駆司令:三日月、夕凪、松風)となる。16日夜、夜戦部隊主隊(熊野、鈴谷)および水雷戦隊(川内、雪風、浜風、夕暮、清波)はラバウルを出撃する。だがブイン大規模空襲により駆逐艦初雪が沈没、2隻(皐月、水無月)が小破したことで作戦中止。ブカ島北方で反転し、17日夕刻ラバウルに戻った。18日、夜戦部隊主隊に重巡鳥海が加わり、輸送隊の駆逐艦夕凪は水無月に入れ替えられ、修理が間に合わない皐月の作戦参加は見送られた。7月18日夜ラバウル出撃時の夜戦部隊戦力は、旗艦/重巡洋艦熊野以下主隊の重巡3隻(鈴谷、熊野、鳥海)、水雷戦隊(三水戦旗艦《川内》、第16駆逐隊司令「雪風」座乗《雪風、浜風、清波、夕暮》)、途中合流の輸送隊(三日月、水無月、松風)であった。ラバウルを出撃した夜戦部隊は、翌7月19日にショートランド北方で輸送隊と合流し、コロンバンガラ島を目指す。夜になってベララベラ島北方で輸送隊を分離し、夜戦隊はクラ湾を遊弋する。これら一連の西村部隊の行動は、米軍のPBYカタリナ飛行艇によって捉えられていた。このカタリナは「ブラック・キャット」と呼ばれる夜間哨戒機であり、レーダーで西村夜戦部隊を補足するとガダルカナル島へ通報する。そのころ輸送隊は揚陸に成功したものの西村司令官指揮下の夜戦部隊は敵艦艇を認めず、クラ湾北方で23時に反転する。月が出ていたため、海面は明るかった。7月20日、カタリナからの通報を受けたアメリカ軍は、ヘンダーソン飛行場から雷撃機TBFアヴェンジャーを発進させ、西村部隊に対し夜間空襲を敢行する。反転後の夜戦部隊の陣形は、巡洋艦部隊(川内、熊野、鈴谷、鳥海)が単縦陣を形成し、旗艦熊野右舷側に清波-夕暮が、旗艦左舷側に雪風-浜風が前後に並んでおり三つの単縦陣が並行して航行していた。午前0時35分頃、TBFが放った魚雷が駆逐艦夕暮に命中し、夕暮は轟沈した。清波は直ちに反転し、夕暮の救援に向かい生存者を救助中との報告が入った。だが2時30分以降連絡が途絶え、総員戦死と認定された。清波と同様に夕暮も総員戦死と認定された。アメリカ軍によれば、夕暮の沈没地点。清波はの地点でB-25ミッチェル爆撃機に撃沈された。8月5日に救助された清波乗組員の西川水兵長によれば、清波は夕暮の生存者20名を救助したのち爆撃を受けて船体機関部・後部に爆弾が命中、航行不能となった。黎明時にふたたびアメリカ軍機約15機の空襲を受け機関室部分に爆弾3発が命中、轟沈した。当時60名ほどが漂流していたが、四日後になり孤島に漂着した西川以外は行方不明になったという。清波の沈没について軍事評論家の伊藤正徳の話によれば、西村祥治司令官は反転にあたって従来用いていた二直角転回ではなく、この日に限って一斉回頭を命じたとされる。伊藤は西村司令官が常用していた二直角転回を下令していた場合、清波-夕暮の位置に雪風-浜風がいたと述べ、普通であれば敵の空襲を受け撃沈されたのは雪風と浜風だったはずと主張している。但し、西村司令官が一斉回頭を命じたのはクラ湾が狭かったからとの証言があるが、伊藤は偶然や運的要素に注目するのみで、クラ湾の広さで二直角転回が可能であったかどうかは考察していない。また「巡洋艦部隊の編成は鈴谷、摩耶、天龍だった」、「回頭後間もなく現れた敵機が清波と夕暮を襲撃し、スキップホンピング(反跳爆撃)により二隻とも轟沈された」と記すなど、伊藤の認識は戦闘詳報の記録と食い違いがある。一方、夜戦部隊の被害は駆逐艦2隻(夕暮、清波)喪失にとどまらなかった。旗艦熊野には魚雷1本が命中して損傷。最大発揮速力24ノットとなる。熊野は浜風に護衛されて避退を続けた。輸送隊(三日月、水無月、松風)も物資揚陸成功後の帰路に夜間空襲を受け、駆逐艦2隻(水無月、松風)が小破した。この夜間攻撃の結果、日本海軍はコロンバンガラ島に部隊を送り込む際には、クラ湾経由ではなくベラ湾からコロンバンガラ島南方ブラケット水道を通過する危険な航路を使用する事となった。清波は10月15日附で夕雲型駆逐艦、第31駆逐隊、帝国駆逐艦籍、それぞれから除籍された。
出典:wikipedia
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