ロイヤル・サブリン (HMS Royal Sovereign, 05) は、イギリス海軍の戦艦。リヴェンジ級の1隻。本艦は1913年度海軍整備計画でポールマス海軍工廠で1914年1月15日起工。1915年4月29日進水。1916年4月18日竣工、同年5月に就役し本国艦隊(グランド・フリート)に所属したが、ユトランド沖海戦時には機関故障で参加する事が出来なかった。1930年代初頭に近代化改装が行われたが、主砲の最大仰角を15度から倍の30度に引き上げて射程距離の延伸を行い、1936年に後部甲板に装備していた水上機射出用カタパルトを撤去し、1938年に対空攻撃力強化のため10.2cm単装高射砲を10.2cm連装高射砲に換装した。1939年9月に第二次世界大戦が開始された時に本艦は依然として本国艦隊の艦隊司令長官フォーブス司令の貴下第二戦隊に所属していたが、本国艦隊から高速なフッドやレパルスが引き抜かれてドイツ海軍の通商破壊艦の捜索に就いている時も、低速な本艦は主だった活動はなかった。1940年中頃に本艦は地中海艦隊に編入された。1940年5月4日にアレクサンドリア到着。6月22日、戦艦ラミリーズ、空母イーグル、第2駆逐群と共にアレクサンドリアから出撃(BQ作戦)。これは船団護衛を目的としたものであったが、作戦は延期され6月23日にアレクサンドリアに戻った。6月28日に再出撃(MA3作戦)。7月2日帰投。7月7日からMA5作戦に参加。作戦中の7月9日にカラブリア沖海戦に参加したが、本艦の低速は決定的な戦いに間に合わないばかりか僚艦マレーヤの優速も殺し、イタリア海軍の戦艦コンテ・ディ・カブールとジュリオ・チェザーレとの戦いに参加できなかった。8月11日、アレクサンドリア出港。8月12日にスエズ運河を通って紅海に入った。これ以降ロイヤル・サブリンは1941年までの間に大西洋などでの輸送船団護衛任務に従事し、無事に果たした。1942年10月に本艦は、日本海軍の攻撃により壊滅した東洋艦隊を再編成するため短期であるが東洋に所属した。最初にセイロン島トリンコマリーで艦隊編成が成されたが、日本海軍の破竹の猛攻に東洋艦隊は積極的な行動を取るが出来ず、一部は地中海に撤退し、本艦を含む残りはケニア沖まで撤退する事となり、僚艦ラミリーズ、レゾリューション、リヴェンジらとアフリカ沖で船団護衛に従事した。第一次世界大戦時には有力な艦であった本艦も大規模な近代化改装を受けられなかったために日本海軍の擁する空母機動部隊に対して対抗できない時代遅れな戦力となってしまった。その後、本艦は1942年から1943年の間にアメリカで整備を受けた以外はこれといった活動はしていない。本艦に転機が訪れたのは1944年の事であった。イタリアが連合国軍に対し降伏した頃、ソビエト連邦から連合国に対しイタリアから賠償艦として超弩級戦艦の引渡しを強く求めていたが、連合軍はイタリア戦艦の代わりに本艦を貸与艦としてソ連へ引き渡す事とし、ソ連政府がそれに合意したために5月30日付けでソ連海軍へ移籍され戦艦「アルハンゲリスク」として就役した。6月以後には全ての人員がソ連海軍人員に交代され運用された。そして、同年8月24日に輸送船団 JW.59をムルマンスクまで護衛するために回航された。しかし、アルハンゲリスクは大戦終了まで不活発なままであった。そして、大戦が終了してからもソ連はアルハンゲリスクを手放なかったが、1949年2月4日にようやくイタリアから戦時賠償として引き渡されたコンテ・ディ・カヴール級戦艦「ジュリオ・チェザーレ」をソ連海軍が取得し「ノヴォロシースク」として就役したおかげで本艦はイギリス海軍に返還された。しかし、イギリス海軍では本艦のような旧式艦は既に必要としておらず、本艦は1949年5月18日に解体業者に引き渡された。
出典:wikipedia
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