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大波 (駆逐艦)

大波(おおなみ/おほなみ)は、日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦夕雲型の7番艦である。第三次ソロモン海戦で活躍した白露型駆逐艦「夕立」駆逐艦長吉川潔中佐が、本艦の初代駆逐艦長を務めた。その艦名は大波に由来し、海上自衛隊の護衛艦「おおなみ(初代)」、「おおなみ(2代)」に引き継がれた。1939年度(マル4計画)仮称第122号艦として藤永田造船所で建造。1942年(昭和17年)6月20日、本艦に『大波』、夕雲型8番艦に『清波』の艦名が与えられた。同日附で2隻(大波、清波)は夕雲型駆逐艦に類別された。11月15日附で平山敏夫少佐は大波艤装員長ならびに吹雪型駆逐艦白雲艦長に任命される。12月20日附で平山艤装員長は免職。後任として吉川潔中佐(夕立沈没時駆逐艦長)が本艦艤装員長に任命された。本艦は12月29日に竣工(初月と同日)。舞鶴鎮守府籍となる。同日附で3隻(涼月、初月、大波)は警備駆逐艦に定められた。本艦は呉鎮守府直率部隊に編入される。1943年(昭和18年)1月16日、それまで第二水雷戦隊旗艦だった長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」は第十六戦隊へ転出、第二次ソロモン海戦での損傷修理を終えた川内型軽巡洋艦2番艦「神通」が第二水雷戦隊に復帰する。「神通」は駆逐艦部隊(夕雲、風雲、秋雲、雪風)や大型艦3隻(武蔵、瑞鶴、瑞鳳)等と共に呉からトラック泊地へ進出していった。1月20日、「大波」は呉鎮守府直率部隊(司令長官高橋伊望中将)から第二水雷戦隊(司令官小柳冨次少将)に編入された。前年末のルンガ沖夜戦で夕雲型6番艦「高波」を喪失(同時に第31駆逐隊司令清水利夫大佐戦死のため司令不在)、夕雲型駆逐艦2隻(長波、巻波)となっていた第31駆逐隊に配属。同日に呉を出港。高雄型重巡洋艦2番艦「愛宕」と長良型軽巡1番艦「長良」(途中合流)をトラックまで護衛する。長良艦長指揮下の3隻(長良、愛宕、大波)は1月25日にトラックに到着、「大波」は姉妹艦「長波」と合流した。同時期、秋月型1番艦「秋月」(第十戦隊旗艦)が米潜水艦の雷撃で大破、その際に十戦隊司令官木村進少将が負傷したため、1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将は第十戦隊司令官に転属。後任の二水戦司令官には伊崎俊二少将が任命された。小柳少将は1月23日に退隊、伊崎司令官は1月30日に着任した。2月上旬のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)で、第31駆逐隊は分散配備された。「長波」はトラック泊地で待機。「巻波」は撤収部隊旗艦(指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官)として行動していたが、第一次撤収作戦で被弾、睦月型駆逐艦「文月」に曳航されて退避した(他に夕雲型2番艦巻雲自沈処分)。「大波」は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊長官(旗艦愛宕)の指揮下で、第四戦隊・第五戦隊・第四水雷戦隊等と共に牽制部隊として行動する。ケ号作戦成功を受けて、連合艦隊司令長官山本五十六大将はトラック泊地の主力艦の内地帰投を決定した。「大波」および駆逐艦「時雨」も回航部隊(指揮官栗田健男第三戦隊司令官)に加わることになった。また戦死した清水第31駆逐隊司令の後任として、2月12日附で香川清登大佐が任命されている。31駆司令駆逐艦も大波に変更された。2月15日、第三戦隊(金剛、榛名)、空母2隻(隼鷹、冲鷹)、水上機母艦日進、重巡2隻(鳥海、利根)、駆逐艦5隻(時雨、大波、黒潮、陽炎、嵐)はトラック泊地を出港する。悪天候のため航空隊を収容できなかった隼鷹隊(隼鷹、陽炎、黒潮)のみトラックへ引き返した。19日、鳥海隊(鳥海、冲鷹、嵐、大波)は佐世保や舞鶴へ向かう艦艇と分離。20日、本艦は横須賀に帰投した。2月25日、夕雲型8番艦「清波」が第31駆逐隊に配属され、同駆逐隊は夕雲型定数4隻(第1小隊《大波、清波》、第2小隊《巻波、長波》)を揃えた。2月28日、「大波」は陽炎型駆逐艦16番艦「萩風」(第4駆逐隊)と共に空母「冲鷹」を護衛して横須賀を出港し、トラックへ進出した。3月5日到着。以後、トラック周辺での対潜掃討や輸送作戦に従事。この間、31駆2小隊(巻波、長波)はそれぞれ本土に回航され、修理に従事する。4月9日、第31駆逐隊2隻(大波、清波)は第四根拠地隊の指揮下に入り、ラバウル方面で船団護衛に従事する。4月30日、駆逐艦4隻(長波、潮、時雨、有明)は空母2隻(冲鷹、雲鷹)と軽巡「那珂」を護衛してトラック泊地に到着。だが、「長波」は5月8日に空母2隻(冲鷹、雲鷹)や大和型戦艦1番艦「大和」等を護衛して内地へ帰投、その後は北方部隊に編入された。第31駆逐隊第1小隊(大波、清波)は5月10日に第四根拠地隊の指揮下を離れた後も、引き続きトラック周辺での間接護衛の任務に就いた。5月中旬にはトラックから日本本土へ戻る駆逐艦「春雨」(ウェワクで米潜水艦の雷撃により大破中)、補給艦間宮以下輸送船団の護衛を途中まで実施した。その後の本艦は呉に帰投し、修理と整備を行った。7月13日、ニュージョージア島の戦いに伴うコロンバンガラ島沖海戦で軽巡「神通」(第二水雷戦隊旗艦)が沈没、増援部隊指揮官伊崎俊二第二水雷戦隊司令官が戦死、二水戦司令部も全滅した。「大波」は7月18日に吹雪型駆逐艦「漣」(第7駆逐隊)とともに特設給兵船日朗丸(日産汽船、6,534トン)と日威丸(日産汽船、6,542トン)を護衛して瀬戸内海を出撃した。この間の7月19-20日、姉妹艦「清波」はニュージョージア島の戦いにともなうコロンバンガラ島夜襲作戦および輸送作戦に参加、夜間空襲をうけ駆逐艦「夕暮」と共に撃沈された。戦力再編のため日本海軍は7月20日附で第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦長良)を解隊し、高間少将を二水戦司令官に任命。駆逐艦時雨・五月雨以下四水戦戦力と二水戦残存部隊を合流させ、第二水雷戦隊を再建することになった。本艦は7月28日にトラックに到着。「巻波」は舞鶴海軍工廠で整備を続け、「長波」は島風型駆逐艦「島風」・「五月雨」等と共にキスカ島撤退作戦に従事、第31駆逐隊は分散行動を続けた。8月4日、「大波」は陽炎型18番艦「舞風」(第4駆逐隊)、大鷹型航空母艦1番艦「大鷹」と共にトラックを出港、「舞風」は4日夕刻に分離したため、護衛は大波1隻となった。8月6日13時、対空訓練のため「大鷹」は之字運動をやめ速力18ノットで直進していた。この時、米潜水艦パイク ("USS Pike, SS-173") が魚雷6本を発射した。大鷹右舷中央部(煙突附近)に魚雷1本が命中したが不発だった。「大鷹」は潜望鏡に向けて高角砲と機銃を発砲、後方の「大波」も制圧射撃に加わったが、パイクは損傷なく離脱して行った。8月9日、2隻(大鷹、大波)は横須賀へ到着した。本艦は舞鶴に回航されて8月12日に到着、舞鶴軍港にて姉妹艦(長波、巻波)や軽巡2隻(名取、長良)、駆逐艦「不知火、初春、太刀風」等と共に修理を実施した。当時の舞鶴海軍工廠では夕雲型3隻(浜波、早波、早霜《345号艦》)、秋月型駆逐艦8番艦冬月《361号艦》、松型駆逐艦1番艦松《5481号艦》等を建造中だった。9月上旬、第31駆逐隊各艦(長波、大波、巻波)の修理完了。「大波」は丁一号輸送部隊に編入されてポナペへの輸送に従事。10月15日、清波除籍にともない第31駆逐隊は夕雲型3隻(長波、巻波、大波)に減少した。この頃の大波は第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)と行動をともにしてエニウェトク環礁に進出。カビエンへの輸送任務を終えた後、11月6日にラバウルに進出し、第十戦隊(司令官大杉守一少将)の指揮下に入ってブーゲンビル島タロキナ輸送に輸送隊として参加した。7日にラバウルへ帰投、ブカ島輸送を終えた駆逐艦「時雨」も同港に到着した。11月11日、ラバウルは大規模空襲を受け、第二水雷戦隊は夕雲型10番艦「涼波」が沈没、姉妹艦「長波」が大破・航行不能という損害を出した。損傷のない「大波」は「長波」を曳航しようとしたが、ワイヤーが「大波」のスクリューに絡まったため、曳航は「巻波」が行うことになった。他の第二水雷戦隊各艦に被害はなかったが、第十戦隊旗艦の軽巡「阿賀野」が艦尾に被雷して中破した。同日夕刻、第二水雷戦隊・第十戦隊各艦(軽巡《能代》、駆逐艦《早波、藤波、五月雨、風雲、若月》)は重巡「摩耶」および潜水母艦「長鯨」を護衛してラバウルを出発、トラックへ向かった。この後、能代隊(能代、藤波、早波)は米潜水艦スキャンプから雷撃されて航行不能となった阿賀野救援に向かった。二水戦・第27駆逐隊(時雨、白露)も既にトラック泊地へ帰投しており、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波《航行不能状態》)となった。他の第二水雷戦隊各艦(能代、島風、第24駆逐隊《海風、涼風、満潮》、第32駆逐隊《早波、玉波、藤波》、第27駆逐隊《時雨、白露、五月雨、春雨》)は、各方面に分散して行動していた。日本軍はアメリカ軍の次の目標をブーゲンビル島北西のブカ島とにらみ、戦力強化のため第十七師団の一部をラバウルより輸送することとなった。1943年(昭和18年)11月24日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将の指揮下、第31駆逐隊司令香川清登大佐ひきいる日本軍駆逐艦部隊5隻は、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:天霧、夕霧、卯月)、警戒隊(指揮官第31駆逐隊司令香川大佐:大波《司令駆逐艦》、巻波)という編制でブカ島への輸送作戦を実施する。第一次輸送は11月21日に行われ、妨害を受けることなく輸送は成功した。11月24日、第二次輸送のためラバウルを出撃。ブカ島に兵員、物資を陸揚げし、代わりにラバウルに引き上げる海軍の航空要員600名を乗せて、22時45分にブカ島を離れた。その帰途の11月25日、ニューアイルランド島セント・ジョージ岬東方海上でアーレイ・バーク大佐率いる(フレッチャー級駆逐艦5隻)にレーダーで捕捉され、先制雷撃(魚雷15本発射)を受けた(セント・ジョージ岬沖海戦)。魚雷が命中した「大波」は轟沈、「巻波」も大波同様の運命を辿った。第31駆逐隊司令香川大佐(戦死後、少将に進級)、吉川艦長以下大波乗組員230名全員が戦死し、また2隻(大波、巻波)と共に「夕霧」も撃沈された。本海戦(吉川の戦死と駆逐艦3隻《大波、巻波、夕霧》沈没)は、太平洋戦争における日米の技術格差と敗因を象徴する戦いとなった。12月3日、ラバウルに取り残されていた「長波」は駆逐艦「水無月」に曳航され、軽巡「夕張」と駆逐艦「文月」の護衛下でトラック泊地へ向かった。1944年(昭和19年)1月25日、軽巡「長良」に曳航され、駆逐艦2隻(卯月、夕凪)護衛下で呉に到着。長波修理中の2月10日、夕雲型駆逐艦2隻(大波、巻波)は帝国駆逐艦籍、夕雲型駆逐艦のそれぞれから除籍された。また長波1隻のみとなっていた第31駆逐隊に同じ夕雲型駆逐艦の3隻(沖波、岸波、朝霜)が編入され、同隊は定数4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)を回復した。

出典:wikipedia

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