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宝川政治

宝川 政治(たからがわ まさじ、1899年2月8日 - 1973年12月2日)は、高知県高岡郡東津野村(現:高知県津野町)出身の元大相撲力士。本名は兵頭 亀松(ひょうどう かめまつ)。1899年2月8日に高知県高岡郡東津野村(現:高知県津野町)で生まれる。幼い頃から地元の草相撲で大関となり、1921年5月場所にて幕下付出で初土俵を踏んだ。入門時で20歳を越してはいたが出世も早いとは言えず、1925年1月場所で新十両昇進、1927年5月場所で新入幕を果たすなど、幕下付出でのデビューとしては時間が掛かったと言える。1929年5月場所では1勝10敗と大きく負け越したが、この1勝は大関・大ノ里萬助を破ってのものだったため、幕内上位~三役に対する力量は持っているとされる。その後も幕内の真ん中で活躍していたが、1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって一時脱退、1933年1月場所で復帰した。同年5月場所では初日の番神山政三郎戦で敗れただけの10勝1敗(優勝同点)の好成績を記録したが、1934年5月場所で1勝10敗と再び大きく負け越したことで現役引退、廃業した。1932年のある日、宝川は大阪巡業に関して玉錦三右エ門がある贔屓筋の祝儀を拒否したのを咎め、口論に発展した。玉錦は偶然にも山口組系暴力団幹部・山口登の舎弟だったことから、この争いに組員の西田幸一・山田久一・田岡一雄が介入し、旅館に宿泊していた宝川を襲撃した。特に田岡は殺意を持って短刀を宝川の頭上に振り下ろしたが、寸前になって玉錦が制止して手元が狂い、宝川の右手小指と薬指の半分を切り落とした上に、宝川の額を割る結果となった(『山口組三代目 田岡一雄自伝』p.70。徳間書店、2006年)。この時宝川は、血まみれのまま畳に手を付けて謝罪したことで命拾いしている。宝川は笑い顔を見せないことで有名で、田岡曰く「(宝川は)力士としては小柄で相撲内容も地味、おまけに器量の悪いことで有名だった。ブサイクな顔を自分でもよほど気にしていたらしく、写真を撮られることを拒否したから人気も無かった」「ガマも背を向けたといわれるほど醜男」(『山口組三代目 田岡一雄自伝』p.63。徳間書店、2006年)と書いている。ただし、これらはいずれも山口組側の証言によるもので、その後も宝川が本場所で好成績を挙げていることや、後述のように引退後、郷里にて指圧療院を営んでいたことを考えると、少なくとも「右手の指を2本切り落とされた」という話の信憑性はかなり低い。廃業後は長生医学を学び、郷里・高知県で指圧療院を営んだ。1973年12月2日に死去、。

出典:wikipedia

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