LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

アンバーシャダイ

アンバーシャダイとは、日本の競走馬、種牡馬である。1981年の有馬記念、1983年の天皇賞(春)等に優勝。1983年度優駿賞特別賞を受賞。総獲得賞金4億6205万4400円は当時歴代第1位の記録である。種牡馬としても宝塚記念優勝馬メジロライアンらを輩出するなど成功を収めた。馬名はコハクの英語名「amber」+冠名「シャダイ」。主戦騎手は加藤和宏。通算10度のリーディングサイアーを獲得したノーザンテーストの初年度産駒。社台グループ総帥・吉田善哉の所有馬であったが、出生直後には別の馬主に1500万円で購買されており、本来はその馬主が所有してデビューする予定であった。しかし当歳時に右膝に裂傷を負い、競走馬としての将来を危ぶまれたために購買がキャンセルされる。傷の完治を待って吉田の所有馬となったが、怪我から1年近くは調教も施されないまま放牧地で遊ばされていた。1979年、競走年齢の3歳に達し、一旦は関西の厩舎に入ったが、受け入れ先の調教師が急死する。転変の末に吉田と親しい二本柳俊夫厩舎へ入るも、怪我の経験や、見栄えのしない馬体が嫌われて担当厩務員が決まらなかった。最終的に太田英二が志願して担当者となったが、入厩当初のアンバーシャダイは痩せこけて冬毛が伸びたみすぼらしい状態であり、その第一印象は「まるでドブから出てきた馬」というものだった。デビューは4歳と遅れたが、2戦目で初勝利を挙げる。しかし以後は長らく条件馬として過ごし、4歳時に出走した重賞競走は東京優駿(日本ダービー)のみであった。しかし5歳を迎えて4戦目に出走したダイヤモンドステークスで3着と好走すると、続く条件戦をレコードタイムで勝利、休養を経ての秋緒戦も連勝し、オープンクラスに昇格する。続く毎日王冠で2着、天皇賞(秋)で4着とした後、通算21戦目となる目黒記念(秋)で重賞を初制覇した。続いて出走した有馬記念では、厩舎の先輩馬であり、これを最後に引退が決まっていたホウヨウボーイが1番人気に支持され、アンバーシャダイは3番人気であった。しかしレースでは後方に控えると、最後の直線半ばでホウヨウボーイを一気に交わし、同馬に2馬身半の差を付けて八大競走初制覇を果たした。加藤がホウヨウに騎乗するため、代役での騎乗となった東信二にとっても、これが八大競走初制覇となった。戦前、「ホウヨウボーイが横綱ならアンバーシャダイは関脇か小結」と語っていた二本柳は、「ホウヨウボーイに花道を飾らせてやりたかったが、そうは行かなかった」と語った。また、東も後に2着狙いのレースをしたと明かしており、「交わした瞬間は『ウワァ、どうしよう勝っちゃった』って感じ」「ホウヨウボーイに悪かった」と回想している。6歳時は緒戦のアメリカジョッキークラブカップに勝利、アルゼンチン共和国杯で前年の菊花賞優勝馬ミナガワマンナの2着を経て、春の天皇賞に臨んだ。しかし「無冠の帝王」と呼ばれたモンテプリンスのレコード優勝から1馬身余の2着と敗れた。夏にはアメリカのアーリントンミリオンへの遠征が計画されていたが、競走後に脚部不安を生じたことにより、秋まで休養に入った。復帰後は毎日王冠4着、天皇賞(秋)5着を経て、連覇を目指して有馬記念に出走。最後の直線で先頭に立ったが、ほぼ最後方の位置から追い込んだヒカリデュールにゴール寸前で交わされ、クビ差の2着に終わった。最後のシーズンとなった1983年は、緒戦のアメリカジョッキークラブカップ勝利、アルゼンチン共和国杯でミナガワマンナの2着と、前年と全く同じ戦跡を辿り、迎えた春の天皇賞では1番人気に支持された。スタートで出遅れたが、道中は中団に付け、第3コーナーから早めにスパートをかけて後続を突き放す。しかし直後でマークしていたホリスキーが並び掛け、激しい競り合いとなる。残り100メートル地点でホリスキーが先頭に立ったが、ゴール前でアンバーシャダイが再び差し返し、1着で入線。4度目の挑戦で天皇賞制覇を果たし、獲得賞金は史上初の4億円突破となった。その後、宝塚記念への出走馬を選ぶファン投票において第1位に選出されたが、左前脚に繋靱帯炎を発症して休養に入る。復帰後の秋は、5度目の出走となった天皇賞で3着、ジャパンカップ6着を経て、3年連続出走の有馬記念で3着となったのを最後に競走馬を引退した。この年、天皇賞制覇を称えてJRA賞特別賞を授与され、翌1月15日にはメジロティターンと合同での引退式が行われた。引退後は総額3億6600万円のシンジケートが組まれ、北海道静内町(現・新ひだか町)のアロースタッドで種牡馬となった。競走馬としては典型的な長距離馬であったが、父と同様に様々なタイプの産駒を輩出し、トウショウボーイ、マルゼンスキー、ニホンピロウイナー、サクラユタカオーらと共に内国産種牡馬の中心を担った。1992年には、GI競走で3度の2着となったカミノクレッセなどの活躍により、内国産種牡馬で最上位となる総合ランキング4位(中央競馬では3位)という成績を残した。以降も毎年のように重賞優勝馬を輩出、また「内国産種牡馬は後継種牡馬が育たない」とされる中で、メジロライアンが後継として優れた成績を残し、1996年にはメジロドーベルが阪神3歳牝馬ステークスを制覇、父子三代でのGI級競走制覇を果たしている。2002年に種牡馬を引退。その後はアロースタッドで功労馬として余生を送った。2007年1月29日、放牧中に右肩を骨折。獣医師の診察を受けたが手の施しようがなく、安楽死の措置が執られた。31歳であった。※括弧内太字はGI級競走父については同馬の項を参照のこと。母はアメリカで競走生活を送り、3勝。産駒で競走馬として大成したのは本馬のみだったが、牝駒が繁殖馬として成功し、本馬の甥にイブキマイカグラ、サクラバクシンオー、又甥にファストタテヤマなどがいる。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。