マイケル・フレッド・フェルプス(Michael Fred Phelps, 1985年6月30日 - )は、アメリカ合衆国の競泳選手。身長193センチ。体重91キロ。オリンピックと世界水泳選手権の金メダリスト。メリーランド州ボルティモア出身。イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ドイツの血を引く家庭に生まれる。2013年7月現在、100m、200mバタフライ、400m個人メドレーの世界記録保持者であり、“水の超人”イアン・ソープ(オーストラリア)に代わり、世界の頂点に昇りつめた「水の怪物」。自由形でも世界トップレベルの実力を誇り、一大会で複数の種目を制する体力を活かして、オリンピックメダル獲得数史上1位の記録も打ち立てた。史上最強のスイマーとの呼び声も高い。もっとも得意とした200mバタフライでは、2001年3月に男子競泳史上最年少15歳9ヶ月で世界記録を更新してから現在まで12年間、一度も保持者の座を明け渡さずに7度世界記録を更新、2001年7月の世界選手権で優勝してから世界大会(オリンピックと世界選手権)では長らく敗れていなかった(2005年の世界選手権はエントリーせず)。傑出した選手の1つの記録が、10年以上というような長い年月に渡り世界記録として残ることはしばしばあるが、一人の選手が長い年月同じ種目の記録を更新し続けるということは競泳史上では稀である。同種目では2002年パンパシフィック選手権で敗れて(2位)以降、出場した60回のレース全てで優勝していたが、2011年4月8日から10日に行われたミシガングランプリで9年ぶりに敗れた。オリンピックにおいては、アテネ五輪(2004年)と北京五輪(2008年)で金メダルを連続取得していたが、ロンドン五輪(2012年)ではフィニッシュ寸前に抜かれ、100分の5秒差で2位(銀メダル)となった。しかし、これがオリンピックメダルとしては歴代最多タイの18個目となった。リオデジャネイロ五輪競泳競技終了時点でオリンピックメダルの通算獲得数28個、金メダルの通算獲得数23個となり歴代1位の記録となっている。また、オリンピック1大会でのメダル獲得数8個(アテネ五輪・北京五輪でそれぞれ8個)というのも歴代1位タイ記録である。しかも北京五輪で獲得した8個のメダルは全て金メダルであり、オリンピック1大会で8個の金メダル獲得というのは史上初の記録となった。世界選手権では通算33個のメダルを獲得している。うち、26個が金メダルである。大会成績以外の受賞歴は、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2009年、2012年度の世界競泳選手オブザイヤー(Swimming World Swimmers of the Year)、2001年、2002年、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2009年、2012年度のアメリカ競泳選手オブザイヤー(American Swimmer of the Year)など。薬物疑惑をかけられたことがあり、北京五輪の際は本人曰く一か月半の間に約40回の薬物検査を受けたという。2009年2月1日、英紙ニュース・オブ・ザ・ワールドにて、ガラス製の吸引器具で大麻を吸引しているらしき写真が掲載された。本人はその写真が本物であることを認めた上で謝罪した。しかし、2009年2月16日、サウスカロライナ州リッチランド郡の警察は、フェルプスが大麻を吸引した証拠や本人の自白がないため、フェルプスに対して刑罰を科さないことを発表した。スポンサーはケロッグ社の1社だけが降板したのみである。この件でフェルプスは米国水泳連盟から3か月間の出場停止処分を受けたのみである。2010年2月18日(現地時間)、バンクーバーオリンピックのアイスホッケー競技を観戦した際にメディアからの質問に応じ「30代までは泳がない」とロンドンオリンピックが最後のオリンピックになると明言。北京オリンピックで金メダルを獲得した8種目のうちいくつかには出場しない旨も明らかにした。2014年4月、現役に復帰することが判明。2015年、着用ギアをイタリア製ブランドの“aqua sphere/アクアスフィア”と契約し自身のMPブランドを立ち上げ開発にも携わる。2015年 12月3日 - 5日、アメリカ Frederal Wayで行われた冬季全米選手権大会に200m個人メドレー、100mバタフライ、200mバタフライの3種目にエントリー。3種目共に1位を獲得。広げると身長より遥かに長い腕と大きな足そして非常に柔らかい関節は、一掻きで大量の水を掻くことが出来るので、大きな推進力を生み出す。爆発的な推進力を生み出すドルフィンキックは、フェルプスのこれは全く体幹の軸がブレないため、抵抗が少なくてすむ。また、全身を鞭の様にしならせているので、更に推進力が増す。さらに驚異的なスタミナが、他の選手と違うフェルプス最大の特徴である。200m自由形、バタフライの150mターンは心肺能力が限界に近いので、通常はすぐに浮上してくる。しかしフェルプスはそこでまだ10m以上潜水できるほどのスタミナを持つ。彼の泳ぎは他の選手と比べて、スタートとターン時の潜水距離が圧倒的に長く、潜水から浮上した時点では他の選手より体半分リードを奪っている。この泳法は彼が得意とするドルフィンキックを最大限に生かす泳法と言える。2000年、15歳でシドニー五輪に出場し、200mバタフライで5位入賞する。2001年3月に200mバタフライの世界記録(当時)を更新し、男子競泳史上最年少の15歳9ヶ月で世界記録保持者となった。7月の世界水泳福岡大会では、200mバタフライで自己の持つ世界記録(当時)を更新して優勝。2002年、この年から個人メドレーにも本格的に力を入れ、400m個人メドレーで世界記録(当時)を更新。2003年の世界水泳バルセロナ大会では、400mに加え200m個人メドレーでも世界記録(当時)を更新。同レースで2位に入ったイアン・ソープに3秒6以上の差をつける圧勝であった。また、同大会の4x200mフリーリレーでは、第1泳者として1分46秒60で泳ぎ、自由形長距離界の王者グラント・ハケットを抑えて1位で次の泳者に繋いだ。このレースでクロールの潜在能力も高いことが覗えたことから、以降自由形にも本格的に力を入れ始める。そして、アテネ五輪では200m自由形にも出場することを表明し、当時この種目の第一人者であったイアン・ソープに挑戦状を叩きつけることとなった。2004年のアテネ五輪では、1972年のミュンヘン五輪におけるマーク・スピッツの7冠を超える8冠を目指したが、4x100mフリーリレーでは伏兵南アフリカとオランダに、200m自由形ではイアン・ソープとピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドに敗れて銅メダルに終わり、6冠に止まった。2005年は腰を痛めたこともあって精彩を欠き、世界水泳モントリオール大会では負担の大きい200mバタフライ、400m個人メドレーを欠場した。自己ベストも、200m自由形で1分45秒20を出したのみであった。2006年もあまりタイムを伸ばすことはなかったが、それでもパンパシフィック選手権で200mバタフライと200m個人メドレーで自己の持つ世界記録(当時)を僅かばかり更新した。2007年の世界水泳メルボルン大会では、低調だった2年前とは打って変わってタイムを大きく伸ばし、大会史上初となる7冠(個人種目5冠・リレー種目2冠)を達成し、5つの世界記録(当時)を更新した。しかし、4x100mメドレーリレーの予選においてイアン・クロッカーが引継違反をしてアメリカチームが失格となったため、競泳の国際大会史上初となる8冠は達成できなかった。2008年の北京五輪では、個人5種目とリレー3種目に出場した。9日間で17レースをこなさなければならない状況にも関わらず、全ての種目で金メダルを獲得し、ミュンヘン五輪でマーク・スピッツが達成した7冠を超え、競泳史上初・オリンピック史上初となる8冠を達成した。このうち100mバタフライを除く7種目では世界新記録となった(なお、100mバタフライは五輪新記録。100mバタフライは最後の最後で逆転に成功し、わずか0.01秒差の金メダルだった)。最終種目となった4x100mメドレーリレーの表彰式の最後に、この前人未到の功績を称えて記念品が贈呈された。2012年のロンドン五輪では、400m個人メドレーで萩野公介に競り負け4位に終わった。200mバタフライでは、チャド・レクロー(南アフリカ)とわずか0.05秒の差で銀メダルとなった。4×100mフリーリレーでも銀メダルに終わった。200m個人メドレー・100mバタフライ・4×200mフリーリレー・4×100mメドレーリレーにて同一種目3連覇を達成した。なお、過去2大会でメダルを獲得していた200m自由形にはエントリーしなかった。生涯において、世界新記録を39回樹立(個人種目29、リレー種目10)。太字で示しているものは現在の世界記録メリーランド州のボルティモアで生まれ育ち、トウソン高校を2003年に卒業。ミシガン大学に在籍中で、専攻はスポーツマーケティング・マネージメント。ニックネームはMPである。父親はメリーランド州の元警察官であるフレッド・フェルプスで、学生時代はフットボール選手だった。母親は中学校の校長をするデボラ(通称デビー)・フェルプスで、1994年に夫と離婚後、教育関係の仕事でマイケルら3人の子を育て、2009年には金メダリストを育てたシングルマザーとして自伝を出版した。ホイットニーとヒラリーの2人の姉をもち、姉たちも競泳選手であった。ホイットニーに至っては、1996年のオリンピックでアメリカのナショナルチーム入りが濃厚とされていたが、怪我により引退している。両親が離婚した9歳のとき、フェルプスは、注意欠陥・多動性障害(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder)との診断をうける。7歳で水泳を始めたのも、彼の姉の影響もあるが、多動性障害特有の有り余ったエネルギーのはけ口として、母親が水泳を始めさせた。10歳の時に、同年齢を対象にした全米大会で大会新記録をマークした。両親の離婚により、プールが父親を失った辛さをまぎらわす場ともなり、コーチが代理父のような存在だったという。2004年11月に、メーリーランド州ソールズベリーにおいて、酒気帯び運転で逮捕され、同年12月に、地裁で、罰金250ドルと保護観察18カ月の判決を受ける。保護観察期間中の禁酒、高校生に飲酒運転がいかに危険であるかを講演すること、米民間非営利団体(NPO)「MADD(飲酒運転に反対する母親たち)」がスポンサーする会合への出席が命じられた。その後、フェルプスは、テレビ番組に出演した際に、事件について「家族とアメリカ国民を落胆させてしまった」と反省を述べている。イギリスのガーディアン紙によると、フェルプスは1日に12000キロカロリーを摂取しており、一般男性の6倍になる。フェルプスの平均的な朝食は、卵焼きとチーズ、レタストマト、焼いた玉ねぎとマヨネーズを挟んだサンドイッチ3つ、さらに、2杯のコーヒーとオムレツ1つ、加えて、砂糖をかけたフレンチトースト3切れ、そして最後にチョコレートチップス3袋を食べる。昼食は、500gの大盛パスタ、マヨネーズのかかった大きなハム2つとチーズのサンドイッチを食べる。さらに、体力をつけるために、1000キロカロリーの栄養ドリンクを飲んでいる。夕食は、次の日の練習に備え、500gのパスタとピザ1枚を食べ、さらに1000キロカロリーの栄養ドリンクを飲んでいる。フェルプスはアメリカのNBCテレビに対し、「Eat, sleep and swim, that's all I can do.(良く食べ、良く睡眠をとり、良く泳ぐこと。これが僕に出来ることのすべてだ)」と語っている。フェルプスは、2012年のロンドンオリンピックを最後に競泳から一時引退。自身にとって最後の公式競技となった4x100mメドレーリレー(2012年8月4日)で通算22個目のオリンピック・メダル(金メダルとしては18個目)を獲得後、「自分は水泳において、やるべきことは全てやった」と語り、NBCのスタジオ・インタビューにおいて、司会のが何度尋ねても、引退の決心に変わりはないと述べた。「これまで、競泳であちこちの町を訪れたが、実際に町を観光したことはない。ホテルとプール以外のものも見てみたい」という理由により、今後は世界各地を旅行するつもりだという。2014年9月30日に米国メリーランド州で酒気帯び運転などの疑いで逮捕された。そのため米国水連から「6か月の競技会出場停止」「既に代表権を獲得していた翌年の世界選手権の代表権剥奪」という処分を下された。逮捕後の45日間のリハビリ施設収容中に、長年わだかまりとなっていた「父親に捨てられた」という感情と向き合い、父親と面会し関係修復した。2016年には引退を撤回して復帰しておりリオ五輪が改めて自身のファイナルレースになると公言している。
出典:wikipedia
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