アラン・マイケル・ジンター(Alan Michael Zinter, 1968年5月19日 - )は、アメリカ合衆国・テキサス州出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。2016年からMLB・サンディエゴ・パドレスで打撃コーチを務める。のMLBドラフトでサンディエゴ・パドレスから23巡目(全体584位)指名されたが、アリゾナ大学へ進学した。のMLBドラフトでニューヨーク・メッツから1巡目(全体24位)指名され、6月20日に契約。この年は傘下のA-級ピッツフィールド・メッツとA級セントルーシー・メッツでプレー。A級では48試合に出場し、打率.239・3本塁打・32打点だった。はA+級セントルーシーとAA級ジャクソン・メッツでプレー。A+級では98試合に出場し、打率.291・7本塁打・63打点・8盗塁だった。はAA級ウィリアムズポート・ビルズで124試合に出場し、打率.220・9本塁打・54打点・3盗塁だった。はAA級ビンガムトン・メッツで128試合に出場し、打率.223・16本塁打・50打点だった。はAA級ビンガムトンで134試合に出場し、打率.262・24本塁打・87打点・1盗塁だった。3月31日にリコ・ブローニャとのトレードで、デトロイト・タイガースへ移籍した。移籍後は傘下のAAA級トレド・マッドヘンズで134試合に出場し、打率.238・21本塁打・58打点・13盗塁だった。はAAA級トレドで101試合に出場し、打率.222・13本塁打・48打点・4盗塁だった。オフの10月16日にFAとなった。1995年12月13日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。は傘下のAAA級ポータケット・レッドソックスで108試合に出場し、打率.269・26本塁打・69打点・5盗塁だった。オフの10月15日にFAとなった。1996年11月29日にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。は傘下のAAA級タコマ・レイニアーズで110試合に出場し、打率.287・20本塁打・70打点・3盗塁だった。オフの10月17日にFAとなった。1997年12月4日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。は傘下のAAA級アイオワ・カブスで129試合に出場し、打率.287・23本塁打・81打点・3盗塁だった。オフの10月16日にFAとなったが、11月12日にカブスとマイナー契約で再契約した。はAAA級アイオワで14試合に出場し、打率.255・3本塁打・8打点だった。1999年4月28日に西武ライオンズと契約。当時西武は、この年から入団していたグレッグ・ブロッサー、アーキー・シアンフロッコが全く打てないのが災いし、深刻な貧打に陥っていたことからジンターの獲得が決まった。ちなみにAAA級アイオワで同僚だった野茂英雄とバッテリーを組んだ経験もあり、野茂は「日本で活躍できる」と太鼓判を押していた。5月14日のオリックス・ブルーウェーブ戦で日本プロ野球史上6人目の「初試合満塁本塁打」を打つ(他には駒田徳広や井口資仁などが記録)など来日当初はそこそこに打っており一時期は4番も打っていたが、日本の投手に慣れられるには時間はかからなかった。なぜか日本ハムファイターズ戦には強く、7月初めの3連戦では3試合とも本塁打を打っているが、全体としてはジリジリと打率は下がっていき、2割割れが近付いてきた8月中旬に二軍に落ちると、そのまま一軍に上がることなく解雇された。1999年11月7日に古巣のカブスとマイナー契約を結んだ。はAAA級アイオワで90試合に出場し、打率.227・14本塁打・35打点だった。8月23日にトレードでアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍。傘下のAAA級ツーソン・サイドワインダーズで11試合に出場し、打率.361・1本塁打・5打点だった。オフの10月15日にFAとなった。2000年11月1日にヒューストン・アストロズとマイナー契約を結んだ。は傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズで104試合に出場し、打率.265・19本塁打・65打点・1盗塁だった。はAAA級ニューオーリンズで開幕を迎え、63試合に出場。打率.231・11本塁打・39打点・2盗塁だった。6月17日にアストロズとメジャー契約を結んだ。プロ13年目・34歳でようやくメジャーの舞台に立ち、翌18日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビュー。7回表に代打として出場したが、一塁ゴロに終わった。この年は主に代打として39試合に出場し、打率.136・2本塁打・3打点だった。オフの10月15日にFAとなったが、12月20日にアストロズとマイナー契約で再契約した。はAAA級ニューオーリンズで114試合に出場し、打率.254・17本塁打・57打点・1盗塁だった。オフの10月15日にFAとなった。2003年11月12日に古巣のダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。はAAA級ツーソンで開幕を迎えたが、6月8日にダイヤモンドバックスとメジャー契約を結んだ。昇格後は主に代打として10試合に出場していたが、6月21日に左足の故障で15日間の故障者リスト入りした。6月29日に60日間の故障者リストへ異動し、8月20日に復帰。この年は28試合に出場し、打率.206・1本塁打・6打点だった。オフの10月11日に40人枠を外れ、AAA級ツーソンへ降格した。はAAA級ツーソンで47試合に出場し、打率.216・2本塁打・14打点だった。オフの10月28日にFAとなった。1月9日に古巣のアストロズとマイナー契約を結んだ。この年はAAA級ラウンドロック・エクスプレスで99試合に出場し、打率.259・12本塁打・44打点・1盗塁だった。オフの11月1日にFAとなった。は独立リーグ・アトランティックリーグのサマセット・ペイトリオッツに加入。93試合に出場し、打率.261・13本塁打・43打点だった。この年限りで現役を引退した。にダイヤモンドバックス傘下ルーキー級ミズーラ・オスプレイの打撃コーチに就任。オフの12月3日にA+級バイセイリア・ローハイドの打撃コーチへ異動した。12月3日にAA級モービル・ベイベアーズの打撃コーチへ異動した。12月2日にクリーブランド・インディアンス・マイナー組織の打撃コーディネーターに就任。3年間務めた。11月4日にアストロズの打撃コーチに就任した。11月16日、2016年シーズンよりパドレスの打撃コーチに就任する事が発表された。ジンターは来日直後に同僚となった当時ルーキーの松坂大輔に、「君は日本の(カブスで同僚だった)ケリー・ウッドだと聞いてきたよ」と言った。ウッドは前年にメジャーデビューし、メジャータイ記録の1試合20奪三振を記録するなど大活躍して新人王を取った投手であったため、この言葉はジンターにとっては松坂に対する最高の賛辞であった。しかし、当時からメジャー志向が強かった松坂はメジャーに関しても造詣が深く、ウッドが右肘を故障して1999年はシーズン絶望ということを知っていた。折りしも松坂は開幕からの投げ過ぎが原因で登録抹消中であったため、ウッドほどの重傷ではないにせよ、置かれた状況はウッドと似たようなものであった。このため、ジンターの言葉が不吉に聞こえてしまった松坂は苦笑するしかなく、その場は気まずい雰囲気になってしまったという。
出典:wikipedia
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