III号戦車(さんごうせんしゃ、Panzerkampfwagen III)は、第二次世界大戦のドイツの20トン級中戦車である。当初は生産が非常に少なかったが大戦中盤(1941 - 1942年頃)までドイツ戦車隊の主力であった。制式番号は Sd.Kfz.141、Sd.Kfz.141/1、Sd.Kfz.141/2。ドイツ国防軍が訓練用のI号戦車を造ったのち、きたるべき戦車戦術を考慮した主力戦車とすべく製造した中戦車である。訓練用の戦車による演習やスペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)での実戦によってもたらされた戦訓により、現代戦車の基礎を形作るさまざまな新基軸と先進的な技術が投入された。新しい技術を採用して設計されたIII号が主力を務め、既に確立された技術のみで設計されたIV号戦車がIII号などの主力の支援を務めるという運用構想であった。1934年、陸軍はこの構想に基づいて戦車を開発することができる会社に重量15トン程度で設計にいくつかの条件を示した戦車を発注した。15トン程度というのは当時の欧州における輸送の限界を考慮したものであり、陸軍としては20トン未満の中戦車を目指して設計されたが、最終的には20トンを超え、20トン前半の中戦車として完成した。20トン級の中戦車のなかではバランスのとれた戦車であり、製造当時の主力戦車としてはトップクラスであった。ところが、敵戦車として30トン級の中戦車(アメリカのM4中戦車、ソビエトのT-34)が登場し、対峙することになると火力不足に悩まされた。また、全ての期間において防御力に不安を抱える場面が多かった。実際、重装甲の重戦車に対しては、当戦車に設定されていた攻撃力を上回るほどの防御力であったため歯が立たず、中戦車も対峙する戦車によっては、苦戦を強いられることとなった。それでも、本車が不利な状況下での戦闘を行えたのは、連携と指揮と戦術を下支えするさまざまな装備、配置の功績が大きい。大戦中期には主力戦車の任務を果たせなくなり、改良も限界に達して生産は終了した。30トン級中戦車であるソ連赤軍のT-34や合衆国のM4と比較して、開発の期間が数年早かったが、大戦中の戦訓を反映できる余地がなかったことや75mm砲(特に長砲身型)の搭載まで考慮しなかったため、そのアドバンテージも早い段階で覆されてしまい、主力戦車として運用できた期間は短かった。III号戦車は当時の新技術や新しい要素を加えて設計されていた。戦車は、操縦以外の任務は戦車長とそれ以外の者に任されている。乗員が増えるということは指揮官に専任できる時間が増えるということである。砲塔の形状によって1〜2名の乗せている状況が多い中、当戦車は3名とした。それによる優位性は以下のようになる。多砲塔戦車のような大型戦車を除いた場合、砲塔を持った戦車の基礎となったルノー FT-17 軽戦車(1917年・フランス)は小型であったうえに小型砲塔を採用しているため、乗員が2名となっており、それゆえに1人が複数の役割を担っていた。その後の戦車の基礎となったヴィッカース 6トン戦車(1928年・イギリス)の乗員は3名であった。いずれにしても少人数の乗員は戦闘に悪影響や戦闘中に不利になる要因となっていた。当戦車の乗員は5名で、後部にエンジンを置き、前部で駆動する構造において、ドライブシャフトを間にして進行方向に対して車内前面左に操縦手、右側に通信手を配置。砲塔には戦車長、砲手、装填手を配置した。ドイツ軍が設計した戦車では、I号戦車の乗員は2名、II号戦車は3名であり、それらの戦車と比較して乗員が増えている。増やせた理由として1人乗りか2人乗りの小型砲塔が主流だった時代において、3人乗りの大型砲塔を採用しそれによる全体的な車幅の拡大化を含めて、車内体積が増えたからである。また、大型砲塔を採用したのは、一人一役の実現のためである。一人一役の配置が可能となったことにより役割が明確化・細分化が徹底され負担が少なくなった。特に戦車長は指揮と周辺警戒に専念できるようになったので、戦車同士の対決に際して有利になった。ただし、砲塔バスケットは前期のモデルでは採用されておらず、装填手は砲塔の回転に合わせて自分で動かなくてはならなかった。H型以降砲塔バスケットが採用され、代わりに車体の床板が廃止された。III号戦車が戦車として史上初というわけではないが、本車はトーションバー式サスペンションを装備した。これはのちの重量級の戦車にも採用される優秀なサスペンションである。大型化した車体の車幅を利用した長いトーションバーの剛性を利用でき、転輪のストローク幅も大きく取ることが可能となり比較的大型の転輪を採用できた。ただし、トーションバー式サスペンションで設計されたのは量産型となったE型からであり、それ以前の型式では他の懸架方式で設計するなど試行錯誤しており、最初からトーションバーで設計されたわけではない。また、サスペンションを車体に取り付ける外装型である戦車が多い中、当戦車のサスペンションは車台を貫通する大型のものであり加工においても精度が要求され工程・コスト的にも厳しく生産性が低かった。このため、ポルシェ博士は外装式のボギー型トーションバー式サスペンションを開発し、一部の重戦車・駆逐戦車に搭載している。また、床部分にトーションバーがあるため、脱出ハッチを作ることが出来なかった。送受信可能な無線装置が本車から標準化されたことにより、通信手を機銃手を兼ねて独立させた。当時の主流は目視による連携であり、戦闘中の連携が不確実なことが多かった。戦車は装甲によって守られていることが前提となっている構造上、外部を見るためのスリット、クラッペ、バイザー等の開口部は防御上の弱点となり、戦闘においての不安要素となった。そのために小さくせざるを得ない。戦闘時のようにハッチを解放した状態でない場合の視野角は極めて限られたものとなり、連携を行う上に置いて無線での相互の連絡はそれを持たない相手に対しては圧倒的に優位になる事が可能になる装備であった。指揮に専念できる戦車長が存在することは極めて重要であり、そのための装備が充実していたことは特筆すべきであろう。周囲を監視するためのコマンダー・キューポラによる視界の確保、タコホーンによる戦車内部における伝達の明確化、無線装置による部隊における指揮系統の確立。指揮官による命令系統が明確であり、個々の戦車のみならず部隊としても統率がなされていた。これこそが電撃戦を支え、機甲師団という新基軸、そしてドイツ陸軍の強さの秘訣と言っても過言ではなかった。これらの戦車長による指揮のための装具が他国の戦車にないことが多いことからも、いかにこの戦車が戦車戦闘を想定しているかが伺えるであろう。だからこそ、火力装甲ともに優れるT-34などの戦車と遭遇しても対抗することが可能な下地となったのである。III号戦車の主砲は、A型からG前期型は37mm 46口径砲を装備。G後期型からJ前期型では50mm 42口径砲、J後期型からM型は50mm 60口径砲が搭載。N型は75mm 24口径砲が搭載された。ただ、37mm砲搭載については批判されることがあるが、この批判は結果論の面もあり、また、捉え方によって評価も変わってくる。まず、当時のドイツ軍所有の戦車で考えた場合、37mm砲搭載型でもII号戦車と比べれば対戦車能力は向上しているため、一概に火力不足とは言い切れず、大戦初期に主力扱いされていたチェコスロバキア製のLT-35とLT-38の主砲は37mm砲であり、保有する戦車に比べ火力が不足していたわけではなく、実際、37mm砲搭載型のE型でも、配備時点では充分な対戦車能力を持っていたと言える。しかしながら、これら(II号戦車、LT-35、LT-38)はジャンル的には軽戦車であり、(20トン級)中戦車である本車を同等に比較することには無理があるとも言える。スペイン内戦で使用されたT-26軽戦車の45mm砲は例外だが、ポーランドの7TP軽戦車や日本の九五式軽戦車も37mm砲を有している。むしろ、II号戦車は軽戦車のジャンルにおいて攻撃力が低い戦車だったと言える。つまり、III号戦車は軽戦車で多用されていた37mm砲の搭載でも、II号戦車と比べれば火力強化という結果になったが、中戦車のジャンルとして見た場合、火力が低い戦車であったのである。ただし、37mm砲搭載も理由がある。もともと、戦車部隊の関係者は将来の戦闘や(設計時から見て)対戦車能力が高い50mm砲を初期型から搭載することを主張していたが、補給部門は装備の共通化の観点から、歩兵が装備する37mm対戦車砲と共通化することを主張しており、そこで妥協案として初期型では37mm砲を搭載するが後から50mm砲が搭載できるように設計しておくことで決着がついた。この時点で50mm砲を搭載しなかったことへの批判も少なからず存在するが、元々III号設計時点では50mm砲の設計は行われていたものの完成はしていないため、物理的に50mm砲が装備できず、その完成を待つだけの時間がなかったことや歩兵が装備する37mm対戦車砲自体(設計時点では)ドイツ軍としては最新の対戦車砲であり、本車が設計ないし完成した時点では、充分な威力があると考えている者も多く、実際、当時想定される敵に対しては有効な対戦車能力を持っていたとも言え、補給部門の主張も根拠がないわけではなかった。なお、50mm 60口径砲(5 cm KwK 39)は50mm対戦車砲(5 cm PaK 38)と共通の弾薬を使用していた。だが、戦争中盤には50mm砲であったとしても、敵戦車に対して不利な場面が多かった。3人乗り砲塔により主砲の発射速度が高いため、火力の不利を補っていた(例えばT-34の76.2mm砲が1発撃つ間に、III号戦車の50mm砲は3発撃つことができた)が、効果は限定的であった。特に短砲身(42口径)型は敵戦車に対して荷が重かった。ただし、長砲身(60口径)型はソ連戦車に荷が重かったが、イギリス戦車に対しては有効であり、長砲身型でやっと戦車らしい働きをすることが出来たが、全体でみれば、主力戦車としての役目を終えつつあった。そのため、75mm 48口径砲の搭載が可能なIV号戦車へと主力の座を譲り、それに伴って余剰となった75mm 24口径砲を搭載することで火力支援任務への転用が可能ではないかと言われるようになった。これを受けて同砲の搭載が検討され試験を受け、結果、搭載は可能であるとされたため、最終型として主砲以外はL型やM型と変わらない75mm 24口径砲搭載のN型が製造され、火力支援へと回されていくことになった。ただ、その頃には75mm 24口径砲は初速の遅さゆえに徹甲弾を用いての対戦車戦闘で通用するものではなくなっていたが、成形炸薬弾を用いれば50mm 60口径砲よりも優れた貫徹能力があり、一応対戦車戦闘は可能であった。ドイツ装甲師団の中核戦力として構想された戦車であったが、結果的に見れば、第二次世界大戦初期から苦難の日々を歩むこととなった。設計の問題から、初期には生産が遅々としてすすまず、第二次世界大戦の開戦時は必要数が揃わなかった。それでも、III号戦車は開戦時におけるドイツ軍戦車部隊の主力として扱われていたが、事実上の主力はII号戦車やチェコスロバキア製のLT-35とLT-38であった。対フランス戦が始まるころには数も増え、北アフリカ戦、独ソ戦の頃には名実ともに戦車部隊の主力戦車となった。しかし、フランス戦での戦闘にて重装甲のイギリス軍歩兵戦車(マチルダII歩兵戦車は30トン級)を撃破することができず、敵の対戦車砲で容易に破壊されるなどの問題を指摘されていた。さらに、独ソ戦が始まると、37mm砲搭載型のIII号はソ連赤軍のT-34(30トン級)やKV-1(40トン級)に対してまったく無力であることが明らかになった。そのため、50mm砲搭載型が戦場に投入されたが、対ソ戦には50mm砲搭載型でも非力な面が目立った。しかし、北アフリカ戦線ではイギリス戦車側の事情から撃破が可能であり、特にJ型以降の型であれば、北アフリカにM4シャーマン(30トン級)が登場するまでは充分な対戦車能力を発揮していた。しかし、本車の戦闘能力が、戦況が要求する水準に達した時期が短かったため、対戦車能力は不十分とされることが多かった。また、砲塔ターレットリングの直径が小さく、長砲身の75mm砲搭載が不可能であったため、改良も限界に達した。大戦中期には、IV号戦車に主力戦車の座を譲り、続くV号戦車パンターの実用化と共に生産は終了した。III号戦車はのちのナチス・ドイツの重戦車・主力戦車の基礎になったことからも、後の戦車開発技術に与えた影響は大きかったが、一方で基本設計時点での軽さ(基礎は15トン級)による発展性の制限により、生産と改良が実戦で要求された水準につねにおよばなかったことから、主力戦車としては短命であった。とはいえ、もし50mm砲を搭載できなければもっと早期に敵戦車に対して通用しなくなり、兵器としての寿命が史実より短命になったと思われる。ただし、時間的に余裕のある時期に入念に作られた本車の車台に用いられたサスペンションは後に用いられるような複雑な物ではなく、重量とのバランスが優れており、車台はアルケット社で生産されるIII号突撃砲に転用され、敗戦直前まで生産が続けられた。その結果、III号突撃砲は製造数においてナチス・ドイツの装甲戦闘車両としては最多となっている。
出典:wikipedia
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