アポロ・アントン・オーノ(Apolo Anton Ohno、1982年5月22日 - )は、アメリカのショートトラックスピードスケート選手。俳優。コロラド大学コロラドスプリングス校(UCCS)を卒業し、サプリメント会社8Zone(エイトゾーン)を設立。将来はオリンピックのスポンサー企業に成長させたい。甘いマスクで実力もあり全米で人気がある。ヘルメットの下のバンダナと小さく整えたあごひげ(soul patch)がトレードマーク。スタート前は、緊張をほぐすために自らいつもあくびをする。ワシントン州シアトル出身。日系二世。父親が日本人で母親がアメリカ人のハーフ。父が名付けたアポロは、ギリシャ語の「Apo(steer away from)」 と 「lo(look out; here he comes)」に由来する (太陽神や宇宙船アポロの綴りはA-p-o-l-l-o)。ミドルネームのアントン(Anton)は「priceless one(お金に替えられないほどの価値がある者)」という意味を持つアンソニー(Anthony、ラテン語源)のバリエーション。ニックネームは太く筋肉質な足からチャンキー(Chunky)。冬季オリンピックのアメリカ人として( 2 2 4 )合計8個の最多メダル獲得者。2013年4月、引退を表明。同年8月にオリンピックの功績が称えられ「シアトル・ウォーク・オブ・フェーム」殿堂入りした。ハリウッドの星・手形に対し、靴跡が説明と共に埋め込まれるが、オーノの靴跡は左回りのスケート靴の軌跡となっている。東京都出身の日本人ヘアスタイリスト大野幸(おおの ゆき)とアメリカ人の母親との間にワシントン州シアトルで生まれた。1歳の時に両親が離婚し、その後は父親に育てられた。幸はアメリカのメディアに息子と共に度々取り上げられる有名なシングルファーザーである。幸の父親(アポロの祖父)は大学の副学長で、高校卒業後の幸をアイビー・リーグに送り込んだ。会計学を専攻したが失敗し、親の薦める大学生活に反抗した後、ロンドンのヴィダル・サスーンサロンで修業する。ファッションショーでトップモデルの髪を担当する為、ヨーロッパやニューヨークを巡回する生活だったが、アポロの母との結婚でシアトルにヘアサロンを開き定住するようになった。離婚して1歳の息子を引き取り、親類縁者のいないアメリカで一人での子育てを迫られ、ハリウッドでの人気美容師のキャリアを犠牲にした。アポロはやんちゃな男の子だったが、3歳の彼の特異な運動能力の才能を父が見いだし、ローラースケート、水泳等のスポーツに親しんだ。父親が夜遅くまで働いていた為、小学生になったアポロは一人で宿題と食事をして就寝するカギっ子だった。週末は父の運転する車でスポーツ大会へカナダやミシガン州に遠征し、12歳の時にワシントン州の平泳ぎのチャンピオンになった。1994年リレハンメルオリンピックショートトラックスケートのテレビ中継を見て競技を始め、すぐに年齢別の3タイトルを獲得する。しかし、13歳になると年上の不良達と夜遊びをするようになり、父はそのエネルギーをスポーツに向かわせたいと資産と労力を注ぎ込んだ。1995年、ジュニアナショナルチーム予選でアポロのレースを見たナショナルチームコーチのパトリック・ウェントランドは早熟な強さに興味を持った。オリンピックセンターの入所規定より2歳程若い年齢が問題となったが、コーチの尽力でニューヨーク州レイクプラシッドのジュニアオリンピック開発チームに参加するよう招待された。父はこのこの招待を受けるよう薦めシアトルの空港まで送ったが、行きたくなかったアポロは友達の家に隠れてしまった。説得のためにアポロの叔母(母の妹)まで動員し、父の護衛付きでレイクプラシッド入りした。厳しいトレーニングをサボり、ピザを食べに出かけるアポロを見て、コーチはグループの体脂肪テストを行なう。最悪な結果にアポロはコーチに「太りたくない。速くなりたい」と言い、練習に励むようになった。14歳の米国最年少ショートトラックチャンピオンが誕生した。レイクプラシッドからシニア用施設のコロラドスプリングスオリンピックセンターに移転。1997年、世界選手権が長野市で開催された。オーノ家族の背景を知る大会主催者の計らいにより、東京から祖父母が観戦に来ている旨アナウンスがあった。観客の盛大な応援も虚しく20位に終わった。誰もがこの若き天才は1998年長野オリンピックに行くことを期待したが調整不足により叶わなかった。セントルイスでの1998年ジュニア世界選手権で決勝に達することができず苦しんだが、翌年のモントリオールではチャンピオンに、シニアの大会のソフィアでは銀メダルを獲り復活した。練習中の呼吸困難があり、2000年にEIB(運動誘発性気管支収縮)と診断されたが、適切な治療によって克服した。2002年2月のソルトレイクシティオリンピックにアメリカ代表として出場。男子1000メートルでは5人が出場し、ゴール直前までトップ集団4人の1位だった。転倒に巻き込まれ、後れを取っていたオーストラリアのスティーブン・ブラッドバリーに次いで足を投げ出す形でゴールして銀メダルを獲得。男子1500メートルでは惜しくも2着でゴールしたものの、1着でゴールした韓国の金東聖が進路妨害のため失格となり、金メダルを獲得した。これに対して韓国側はオーノが金の反則をアピールするためにオーバーリアクションをしたと抗議し、その後、韓国からの一方的な中傷・脅迫が相次ぎ、また、国際オリンピック委員会やアメリカ大統領府などにサイバーテロがしかけられたため、FBIが韓国側に捜査協力を求める事態となった。また、同年6月に行われたサッカーの世界大会、2002 FIFAワールドカップで韓国代表とアメリカ代表が戦った際、韓国代表は安貞桓の同点ゴール後にオーノと金が交錯した場面を再現してみせた。オーノへの執拗な脅迫とサイバー攻撃により、2003年韓国全州での大会には米チーム全員の不参加を余儀なくされた。不在にもかかわらず、それまでの獲得ポイントによってワールドカップのタイトルを守った。オリンピック後でも多くの韓国メディアは未だにオーノを「公共の敵」と批判している。2006年のトリノオリンピックでは男子500メートルでスタートから首位を守り金メダル、男子1000メートルと男子5000メートルリレーで銅メダルを獲得した。2010年のバンクーバーオリンピックでは男子500メートル決勝の最終コーナーで3位に付けていたカナダのフランソワ=ルイ・トランブレが転倒、続いて2位韓国の成始柏も転倒し、バランスを崩しながらカナダのシャール・アメリンが1位、4番手のオーノが2位でゴールしたが失格となりメダル獲得には至らなかった。男子1000メートルで銀メダル、男子1500メートルと男子5000メートルリレーで銅メダルを獲得した。これにより3大会でのメダル獲得数を通算8個とし、冬季オリンピックのアメリカ勢としてはスピードスケート女子のボニー・ブレアを抜いて最多のメダル獲得者となった。2012年のロンドンオリンピック開催中はロンドンに滞在し、NBCニュース『トゥデイ』の臨時レポーターとしてオリンピック中継の舞台裏取材を行うなどした。2013年4月24日、選手引退を表明した。2012年2月、スペシャルオリンピックスの親善大使として日本と中国を訪問した。『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』 (Dancing with the Stars) は、アメリカABC系列の人気競技ダンス番組で、イギリスBBCの『ストリクトリー・カム・ダンシング』のアメリカ版と言える。芸能人やスポーツ選手とプロのダンサーがペアになり、厳しい特訓を受けて番組でダンスを披露する。審査員(一人持ち点10点)の得点に視聴者の電話投票による得点が加算された点数で競い、最下位のペアが毎週1組脱落し、約10週間で優勝者が決まる勝ち抜き方式である。2007年2月、出演者が発表された。ジュリアン・ハフとコンビを組み、溌剌とした演技を披露。決勝では力強いパソドブレ(Paso Doble)で満点を獲得し、優勝した。2012年9月放送開始の第15シーズンにも参加することが発表された。
出典:wikipedia
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