レオン・リー(Leon Lee , 1952年12月4日 - )は、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手(内野手)・監督。日本でもロッテオリオンズ、横浜大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズに在籍(登録名はレオン)。また、オリックス・ブルーウェーブの監督も務めた。同時期に活躍したレロン・リーは実兄。息子はプロ野球選手のデレク・リー。グラントユニオン高校を経て、にセントルイス・カージナルスと契約。メジャーに上がれず苦悩していたその折、ロッテオリオンズに入団し活躍していた兄のレロン・リーに誘われ、からロッテでプレー。レロンと甲乙付け難い打棒を振るい、中軸を成した。オフ、斉藤巧との交換トレードで、横浜大洋ホエールズへトレード移籍。舞台をセ・リーグへ移しても強打は相変わらずだったが、オフに突如自由契約となる。「チャンスに弱い」という理由だったが、同年の成績は打率.303、本塁打31本、打点110を記録していた。結局、ヤクルトスワローズに移籍し、限りで退団。実働10年で帰国するまで、終始安定した成績を残した。打撃3部門のいずれかで好成績を残した年には他の選手が突出した成績を残すという不運もあり、タイトルには縁がなかった。通算打率.308は、首位打者を獲得していない選手の中では史上最高である。また、移籍を重ねたものの、その先々で活躍して期待に応えた稀有な選手でもある。にロッテで41本塁打、に大洋で31本塁打、にヤクルトで34本塁打を記録した。日本のプロ野球史上で3球団で30本塁打以上を記録した数少ない選手の一人である。1980年9月30日、川崎球場の対日本ハム戦で、空振りしたバットが観客席に飛び込み、小学生の口に当たって歯を折損させたことがある。引退後はしばらく日米に広がる人脈を生かして野球コンサルタント、1998年にシカゴ・カブスの極東スカウトになる。にオリックス・ブルーウェーブの打撃コーチとして、16年ぶりに日本球界に復帰。同年4月に監督の石毛宏典が解任されると、後任の監督に就任。それにともなって、前監督の「守備力重視」から「打撃力重視」にチームスタイルを変更したため、チームの打撃陣は好調だった(チーム打率リーグ2位、本塁打同3位。ただし得点は同5位)。しかし、ディフェンス面をあまりに軽視しすぎた結果、守備陣は機能不全に(チーム失策数132)陥り、投手陣も次々とプロ野球ワースト新記録(チーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819など)を乱発するほどの投壊状態となった。結局、前身の阪急時代を含めて球団史上最低勝率を更新する(ちなみに前年・の勝率.365が球団史上最低だった)最下位となり、同年限りで退団した。当時オリックスに在籍した山崎武司は「僕にとってオリックスでの一番の収穫は彼との出会いといっても過言ではない。そう思えるほどレオンは僕にとって重要な存在でした。日本でプレーしただけあって日本人の気持ちを理解してくれる。何とかこの人のために結果を残したい」、アメリカに帰国後もレオンは山崎を激励し、「野球を諦めかけていた自分がもう一度奮い立つことができた背景にはレオンの親心もあった」と山崎は著書に記している。帰国後、ニューヨーク・メッツ傘下マイナーチームのブルックリンの監督に就任した。現在は、日米スポーツ交流のコンサルティング会社を経営している実業家である。日本語を大変流暢に喋ることができる(兄のレロンは対照的に日本語を喋れなかった)。オリックス監督時代もインタビューは日本語で、チームの不甲斐無さに「情けないよ」を連呼していた。休日には庭園や寺院を散策するなど、日本文化にも理解を示そうとしたといい、また自宅にチームメイトを招いて催しをするなど社交的で活発な性格でもあったため、所属先を問わず愛された。当時大流行していたスペースインベーダーを好み、1979年シーズン前にロッテファンの会社社長から「ホームラン20本以上打ったらインベーダーの機械を買ってやる」と約束され、その年35本塁打を記録すると実際に1台30万円以上のゲームの筐体を贈られた。中日ドラゴンズを舞台に外国人選手を主人公として描かれた映画「ミスター・ベースボール」のアドバイザーを務めた。ハイスクール卒業後の1971年、セントルイス・カージナルス傘下のルーキー級のチームで、のちにプロレスラーとして活躍することになるランディ・サベージ(本名:ランドール・ポッフォ)とチームメートだった。
出典:wikipedia
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