道上 洋三(どうじょう ようぞう、1943年3月10日 - )は、朝日放送のエグゼクティブ・アナウンサー・常勤顧問。山口県熊毛郡平生町の出身。2014年7月にワニブックスから刊行された自著『ふたつめの誕生日 〜おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」〜』にて、実際には1942年7月に出生していたこと を明かしている。出生の時点で実父が太平洋戦争に出征していた ことなどから、5歳までは広島県甲奴郡上下町の母方の祖父母宅で育った。ちなみに実母は、祖父の勧めで1947年に再婚すると、再婚相手との間で道上の弟に当たる一卵性双生児を出産。道上も一時再婚相手と同居していたが、道上や弟に対する冷遇振りに業を煮やした祖父が、道上・実母・双子の弟を実家(母方の祖父母宅)に連れ戻したという。結局実母は、道上が6歳の時に双子の弟を養子に出したうえで、道上が18歳になるまで平生町で道上と生活を共にした。山口県立熊毛南高等学校を経て、日本大学法学部へ進学。俳優の原田大二郎は、中学校・高校の2年後輩に当たる。中学校時代に軟式テニス部で活動した後に、高校時代に一時期野球部に所属したが、「弱すぎる」という理由で退部した。陸上部に転籍してからは、110メートル走やハードルで県大会の2位を記録。「山口に道上あり」と言われるほどの好成績を収めた末に、日本大学への推薦入学を果たした。日本大学では、陸上競技のハードルで1964年の東京オリンピックを目指していた。しかし、1年生の夏季休暇中の練習で、腰を痛めたことを機に陸上競技部を退部。「選手としてはオリンピックに参加できなかったけど、報道する人間として参加できないものか」との思いから、2年生の時に「オール日大放送研究会」へ入るとともに、スポーツアナウンサーを志すようになった。3年生の時に「オール日大放送研究会」の部長に就任すると、後に日本教育テレビ → テレビ朝日のアナウンサーになる1年先輩・北村元からの依頼で、吹奏楽研究会のコンサートの司会も務めた。1965年に、アナウンサーとして朝日放送(ABC)に入社した。同期入社のアナウンサーに、因田宏紀や辻豊人などがいる。入社してすぐに、先輩の今井音也(後の桂音也)が作った落語研究会へ強引に入会させられた。新人アナウンサーとして共通語の講義を受ける一方で、落語研究会の一員として桂枝雀に上方落語の稽古もつけてもらっていた。その影響で話し方が混乱したため、共通語の講師にも枝雀にも「訛がとれていない」と指摘された。ちなみに、落語研究会の発表会では「煮売り屋」を演じた。入社2年目の1966年には、自身の希望でビートルズの初来日公演(日本武道館)の模様を取材した。道上は、「日本のディスクジョッキーで、東京公演を実際に武道館で鑑賞したのは自分だけ」と語っている。1966年4月1日から1974年3月まで、ABCラジオの深夜番組『ABCヤングリクエスト(ヤンリク)』で初代のパーソナリティを務めた。1974年4月から1年間は、当時のABCテレビのキー局であったTBSへ出向。ネットチェンジによってABCのキー局がTBSからNETテレビ(現在のテレビ朝日)に変更された1975年4月からABCに復帰すると、『明日は日曜 道上です』のパーソナリティに起用されたことを皮切りに、『歌謡曲ぶっつけ本番』などへ出演した。1977年3月からは、『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の後継番組『おはようパーソナリティ道上洋三です(おはパソ)』で、30年以上にわたってパーソナリティを務めている(後述)。また、2009年10月から2011年10月1日までは、土曜深夜(日曜未明)の『Club JONR』で久しぶりに深夜放送へ出演。『ヤンリク』のパーソナリティを経験した(元)アナウンサーの1人として、ナビゲーターやをパーソナリティを担当していた。2011年11月8日放送の特別番組『パーソナリティ秋の交流戦セカンドステージ 角からすみまで道上洋三です』では、ABCラジオの番組初出演の角淳一(毎日放送出身のフリーアナウンサー)と共演している。2014年10月からは、『おはパソ』に加えて、『道上洋三の健康道場』(『おはパソ』の同名コーナーから派生したABC制作・JRN10局ネット番組)のパーソナリティも務める。『ヤンリク』でパーソナリティを務めていた時期には、スポーツアナウンサーとして、ABCラジオのプロ野球・全国高等学校野球選手権中継で実況したこともある。プロ野球中継では、大阪球場(南海ホークス)や藤井寺球場(近鉄バファローズ)などで開催のパシフィック・リーグ公式戦での裏送り向け実況 を主に担当した。『ヤンリク』での人気を受けて、『ヤング720』(当時ABCが属していたTBS系列・平日早朝の全国ネット生放送番組)土曜日の司会に抜擢。1971年3月に『ヤング720』が終了する際には、後継番組『モーニングジャンボ』への出演を打診されたが固辞。しかし、1974年4月から1年間、ABCからTBSへの出向扱いで『モーニングジャンボ奥さま8時半です』に出演した。道上によれば、TBSの番組では、ミクロネシアとポーランドでの長期取材も経験。東京のプロダクションから、フリーアナウンサーへの転身を打診されたこともあったという。ABCへの復帰後に『おはパソ』を始めてからは、『歴史街道』などでナレーションを担当。1980年代に放送された『それゆけ!タイガース』や、阪神のセントラル・リーグ優勝記念特別番組などにも登場した。ただし、『おはパソ』が月~金曜日の生放送であることなどから、スタジオレギュラーとして番組に出演する機会は少ない。2003年には、アナウンサーとしての活動を続けながら、朝日放送の取締役に就任。同局の現役アナウンサーが取締役を兼任した事例は、この時の道上が初めてである しかし、「アナウンサー業務と取締役との兼業が成り立たなくなった」ことを理由に、2007年6月27日付で取締役を退任。常勤顧問およびエクゼクティブ・アナウンサーに就任した。朝日放送主催のイベントをはじめ、関西各地で開かれるシンポジウムやコンサートには、司会・パネリスト・ゲストとして頻繁に登場している。2011年には、自身初の著書として、朝日新聞出版から『おはようパーソナリティ 道上洋三のないしょ話』を刊行。2014年には、前述の著書『ふたつめの誕生日 ~おはようパーソナリティ道上洋三の「なんで?」~』が発売された。『おはパソ』では、プロ野球シーズン中の生放送において、前日に阪神タイガースが勝利を収めると阪神タイガースの歌(いわゆる「六甲おろし」)をフルコーラスで歌うことで有名。また、番組の企画でホノルルマラソンの完走(後述)や水泳の長距離完泳を果たしたほか、和太鼓やマスターズ陸上の予選会(短距離走)などにも挑戦した。道上が披露する「六甲おろし」には、メロディーの一部(「輝く 我が名ぞ 阪神タイガース」の太字部分)を誤って歌っていたことがあったが、その点についてキダ・タローは、「『どこが違うんですか?』と聞いて来た上で、何度も聴いて直してくれた。あなた(道上)が日本で一番正しい『六甲おろし』を歌っている」と語っている。。当番組を聴いたことがきっかけで、道上を目標に放送業界を志した人物(アナウンサーやラジオパーソナリティなど)が(関西地区を中心に)少なからずいる。2006年、右目奥に脳腫瘍が見付かったことを公表。視覚・嗅覚の神経を塞いで生活に支障を来すほどになっていたため、番組を休んで腫瘍の摘出手術を受けることを決めた。同年8月3日に手術がおこなわれ、同25日に退院。術後の回復も順調であったため、9月25日の放送から番組に復帰した。道上が『おはパソ』を担当するようになったきっかけは、前任者の中村が第11回参議院議員通常選挙への出馬を表明したことによる。当時30代半ばだった道上は、「中村さんの番組は完成され尽くしている。私ごときが後任とはおこがましい」として出演を固辞していた。しかし、後任を打診していた筑紫哲也などとの交渉が不調に終わったという局内事情を背景に、「お前以外に考えられない」という強い要請で『おはパソ』を引き継ぐことになった。そのため、担当開始から3年間は、常に「辞めたい」「しんどい」「もうええわ」という思いを抱きながら放送していたという。しかし、レギュラーゲストである高石ともやの勧めで、1981年12月に130名のリスナーとホノルルマラソンへ出場。フルマラソン初挑戦ながら、6時間39分49秒で完走した。この完走を境に、「自分のカラーで番組を続けていけるのではないか」との勇気を持てるようになった道上は、現在でもホノルルマラソンを「『おはパソ』の原点」と称している。2015年には、『おはパソ』へ折に触れて出演しているジャーナリストの今井一が、3ヶ月半にわたって道上への密着取材や周辺取材を敢行。その成果が、『AERA』2016年2月15日号の「現代の肖像」に掲載された。ページの表紙には、2015年11月15日に万博記念公園で開かれた「開局65周年記念 ABCラジオまつり2015」で、吉田詩織(当時の『おはパソ』アシスタント)と共に山口県の特産物販売ブースに立った際の写真が用いられている。1995年3月を目途に、ラジオパーソナリティからの引退を検討。阪神・淡路大震災(同年1月17日)の発生直後には、『おはパソ』で被災地からの情報を伝えた。しかし、それから被災地の取材・被災者とのやり取りを重ねるにつれて、ラジオパーソナリティとしての無力さを痛感したという。道上の転機になったのは、ABCテレビのクルーが淡路島内にあった北淡町(現在の兵庫県淡路市)の町民会館を取材した際のリスナーのエピソードを、取材を担当した後輩アナウンサー・岡元昇から伝えられたことにある。岡元などによる取材では、震災による自宅の倒壊で生き埋めになった80歳前後の老婆が、ラジオから流れ続ける音声をきっかけに間一髪で救出されたことが判明。島内に身寄りのいない彼女は、取材クルーに対して「遠くの親戚より近くのラジオ」という言葉を残した。このエピソードを岡元から聞いた道上は、喜びのあまり、その言葉を半紙に書いてスタジオに貼った。後年の回想によれば、このような体験から、「声が出なくなるまで」ラジオパーソナリティを続けることを決意したという。長年兵庫県伊丹市に在住。『おはパソ』の出演で朝日放送に出社する前には、自宅近くの昆陽池公園を散歩することが、長年の習慣になっていた。同番組のオープニングなどで散歩の模様をよく話していたこともあって、2008年には、伊丹市役所から伊丹市をPRする「伊丹大使」の委嘱を受けている。阪神タイガースの熱烈なファンとして有名。藤村富美男の予告ホームランを見たことをきっかけに、ファンになったという。小学生時代は、クラスメイトが数人しかいなかったもかかわらず、藤村の出席番号「10」を希望したほどである。藤村の引退後は、村山実のファンであった。陸上競技に没頭していた高校時代は一時期、阪神ファンとしての関心はややなくなっていたが、陸上競技を怪我で断念した大学時代に、阪神ファンとしての情熱が甦ったという。同球団の本拠地・阪神甲子園球場内にある甲子園歴史館では、2010年3月の開館時から、ファン代表の立場で顧問を務めている。また、朝日放送のアナウンサー・解説者・番組出演者や著名人で結成した応援団「チーム 虎バン主義。」の顧問でもある。朝日放送への入社2年目(23歳)で高校時代の同級生と結婚したが、25歳の時に離婚。29歳の時に、『ABCヤングリクエスト』のアシスタントだった3歳年下の熊谷暸子と再婚した。ちなみに、スーパー・エキセントリック・シアターを経てフリーランスの俳優として活動中のどうじょう拓人は、再婚後に授かった一人息子(長男)。道上自身は、『おはパソ』で家族の話題を出すたびに、熊谷のことを「家人(かじん)」と呼んでいる。熊谷も現役のフリーアナウンサーとして活動しているため、自宅のあらゆる部屋に置いたラジオで『おはパソ』を聴いた熊谷から、アドバイスや厳しい指摘を受けることもある。理由は不明だが、熊谷からも、本人の署名・捺印済みの離婚届を4回にわたって突き付けられたという。原田大二郎(前述)とは、中学校・高校の在学当時から交流がある。今でも、折に触れて『おはパソ』のゲストに迎えるほど親しい。また、高石ともやとは、長年にわたって交流を続けている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。