


ラダメル・ファルカオ・ガルシア・サラテ(、 1986年2月10日 - )は、コロンビア・サンタ・マルタ出身のサッカー選手。リーグアン・ASモナコ所属。コロンビア代表。ポジションはフォワード。リーグで1度、UEFAヨーロッパリーグで2度の得点王に輝き、コロンビア代表の歴代通算最多得点記録保持者(タイ)である。幼少期はファイル・プライというサッカーチームでプレーし、その後首都ボゴタにあるCDミジョナリオスの下部組織に入団。U-17コロンビア代表でプレーしていた15歳の時にアルゼンチンのCAリーベル・プレートに引き抜かれた。プロデビュー前にブエノスアイレスにあるに入学し、ジャーナリズムを専攻した。19歳だった2005年3月6日、レイナルド・メルロ監督率いるトップチームで出場機会が訪れ、インスティトゥート・コルドバ戦でデビューしてその試合で2得点を決める順調なスタートを切ると、アペルトゥーラ2005シーズンは7試合で7得点を挙げて高評価を得た。2005年シーズンは11試合に出場して7得点し、そのうちの4得点はレオナルド・アストラーダに代わって途中出場してからの得点であった。しかし、CAサン・ロレンソとの試合中に右足靭帯を負傷し、2006年1月にもプレシーズンの練習中に同じ箇所を負傷して怪我を悪化させた。長期離脱を余儀なくされ、2006年いっぱいと2007年の前半は以前のコンディションに戻すのに苦しんだ。この時期は彼のキャリアの中で最も困難な時期であり、2006-07シーズンは25試合に出場して3得点しか挙げられなかった。2007年後半には先発メンバーに復帰し、9月27日のコパ・スダメリカーナ・ボタフォゴFR戦ではハットトリックを達成した。2人が退場処分を受けて劣勢だったが、彼の得点で息を吹き返し、準々決勝進出を決めた。同大会準々決勝・デフェンソール・スポルティング戦ではロングシュートを決め、準決勝進出を決めた。10月7日には、ボカ・ジュニアーズとのスーペル・クラシコで初めての得点を決めた。この年の特筆すべきパフォーマンスから、エル・パイス紙による南米年間ベストイレブンに選ばれ 、南米年間最優秀選手投票でも5位に入った。2008年1月にはスペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャが800万ユーロ(1250万ドル)と報道されている移籍金で獲得を試みたが、クラブがこのオファーを拒否した。ファルカオはディエゴ・シメオネ監督の下でプレーを続け、クラウスーラ2008では初めてのリーグ優勝を果たした。本来のポジションはセンターフォワードであるが、シメオネ監督が採用した4-2-3-1フォーメーションでは攻撃的ミッドフィールダー3人の中央にも適合した。このポジションでは得点機会が減少したが、チームの中心としてボールに絡む回数が多くなった。それでもアペルトゥーラ2008期間中にはリーグ戦で6得点・コパ・リベルタドーレスで4得点の計10得点を挙げてチーム内得点王となった。2007-08シーズンの通算では全公式戦を通じて35試合に出場して19得点し、やはりチーム内得点王となった。シメオネ監督の2シーズン目はクラブ史上初めて最下位に終わり、長い歴史の中でも最悪のシーズンとなった。できの悪いチームの中では最も堅実な選手のひとりであったが、わずか6得点しか挙げることができなかった。シメオネ監督が退いてネストル・ゴロシート監督が就任すると、ファルカオは調子を取り戻し、公式戦21試合で10得点を挙げた。2008-09シーズンを通じて38試合に出場して16得点を挙げ、再びチーム内得点王となった。2009年7月15日、リサンドロ・ロペスをリヨンに放出したことで前線が手薄になっていた スーペル・リーガのFCポルトに移籍した。FCポルトのライバルのベンフィカも彼の獲得を狙っており、契約間近でライバルチームにファルカオをさらわれたため、ベンフィカの衝撃は大きかった。8月16日、シーズン開幕戦のFCパソス・デ・フェレイラ戦でデビューし、その試合で初得点も決めて1-1の引き分けに持ち込んだ。2節のCDナシオナル戦、3節のナヴァル1゚・ダ・マイオ戦、4節のレイションイスSC戦と開幕から4戦連続得点した。9月15日、UEFAチャンピオンズリーグのチェルシー戦(アウェー、0-1)で同大会初出場を果たした。6節のベンフィカとの重要な一戦(ホーム)ではヘディングで決勝点を決め、1-0での勝利に貢献した。ベンフィカ戦の4日後の9月30日には、UEFAチャンピオンズリーグのアトレティコ・マドリード戦(ホーム)で同大会初得点を決め、アウェーでのアポエル・ニコシア戦やアウェーでのアトレティコ・マドリード戦と合わせてグループリーグで計3得点している。2010年2月2日、タッサ・デ・ポルトガル準々決勝のベンフィカ戦では2得点を挙げた。同月に行われたUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦アーセナル戦1stレグではGKウカシュ・ファビアンスキのミスからフリーキックを得て、早いリスタートから決勝点を決めたが、これは彼の大会通算4点目だった。4月3日、CSマリティモ戦では2得点し、20得点で得点ランキングの首位に立った。その後の試合で5点を加え、25得点でシーズンを終えたが、ベンフィカのオスカル・カルドソに1得点差で得点王を逃した。シーズン最終戦となったタッサ・デ・ポルトガル決勝のGDチャベス戦でも得点し、2-1の勝利で優勝を飾った。公式戦を通じてシーズン34得点を決め、シーズン終了後にはリヴァプールFC、バレンシアCF、ACミラン、トッテナム・ホットスパーFCなどのクラブから興味を持たれた。2010年8月8日のスーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ、ベンフィカ戦(2-0)で1得点を挙げてタイトルを獲得した。8月22日のSCベイラ・マル戦ではリーグ戦シーズン初得点を含む2得点を挙げ、11月7日のベンフィカ戦(5-0)でも2点を奪った。12月2日のUEFAヨーロッパリーグ・SKラピード・ウィーン戦ではFCポルト移籍後初のハットトリックを達成し、得点ランキング首位に浮上した。2011年4月7日、同大会準々決勝のFCスパルタク・モスクワ戦(5-1)でもハットトリックを達成し、二桁得点に乗せて得点ランキング首位を堅持した。リーグ戦では25節のベンフィカ戦(1-1)で早々とリーグ優勝を決め、ファルカオはその試合でペナルティキックを獲得した。その後ヨーロッパリーグでは準決勝1stレグのビジャレアル戦で自身初の4得点を挙げ、大会通算15得点とし、UEFAカップ時代の1995-96シーズンにユルゲン・クリンスマンが記録した大会記録に並んだ。続く2ndレグでも1得点を挙げ、大会記録を更新した。決勝のブラガ戦でも得点し、最終的に17得点という記録を樹立した。2011年8月にセルヒオ・アグエロの後釜を探すアトレティコ・マドリードにクラブ史上最高額となる移籍金4000万ユーロ、5年契約で移籍。9月10日、バレンシアCF戦(0-1)でデビューを果たし、2012年1月21日、レアル・ソシエダ戦(4-0)でハットトリックを記録した。 2月16日、UEFAヨーロッパリーグ 2011-12のSSラツィオ戦(3-1)では2得点を記録しチームのラウンド16進出に貢献した。ラウンド16、ベシクタシュJK戦(3-0)のセカンドレグでは1ゴールを記録し、トータルスコア(6-1)で勝利した。 3月21日、アスレティック・ビルバオ戦(2-1)で2ゴールを記録した。ヨーロッパリーグ準々決勝のハノーファー96戦ではファースト、セカンドレグ共に得点しチームの準決勝進出に貢献した。4月11日、レアル・マドリードとのマドリードダービーに初出場し、チーム唯一の得点を記録したが(1-4)で敗戦した。ヨーロッパリーグ準決勝のバレンシアCF戦(4-2)で2得点を記録し、決勝進出に貢献。2012年5月9日、決勝戦のアスレティック・ビルバオ戦(3-0)で先制の2ゴールを記録し、ポルト時代に続いての2季連続のヨーロッパリーグ制覇を成し遂げ、また自身も2季連続得点王に輝いた。リーグ戦ではリオネル・メッシとクリスティアーノ・ロナウドに次ぐ得点ランキング3位となる24得点を記録した。2012-13シーズンのリーグ戦第2節、ヨーロッパリーグ決勝の相手となったアスレティック・ビルバオ戦(4-0)でハットトリックを記録。8月31日、2012 UEFAスーパーカップのチェルシーFC戦(4-1)でもハットトリックを記録しチームのタイトル獲得に大きく貢献した。12月9日、デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦(6-0)では1試合5得点を記録した。UEFAヨーロッパリーグ 2012-13はラウンド32まで進出したが、FCルビン・カザンにトータルスコア(1-2)で敗れ大会を去ることとなった。コパ・デル・レイでは決勝まで進出し、決勝戦のレアル・マドリードとのマドリードダービーではジエゴ・コスタのゴールをアシストし、延長戦の末14年ぶりとなるダービー勝利(2-1)を果たし優勝した。レアル・マドリードCFやチェルシーFC、マンチェスター・シティFC、マンチェスター・ユナイテッドFCといったスペイン国内外の強豪が獲得に動いたが、2013年5月31日にASモナコに5年契約で移籍決定。移籍金は6000万ユーロともいわれる。2014年1月22日、対モンドール・アゼルグ・フット戦(○3-0、フランス杯)でラフプレーを受けて左膝前十字靭帯を損傷する重症を負った。その試合から三日後の25日に行なわれた手術が成功したものの、全治6ヶ月から7ヶ月の重傷であったため、2014年ブラジルワールドカップまでの復帰に間に合わず、最終登録期限において選出外となった。2014年9月2日、2014-2015シーズンのASモナコからの期限付き移籍でマンチェスター・ユナイテッドへの加入が決まった。シーズン終了後の完全移籍への移行が可能なオプションが付与されている。背番号は9番である。しかし、マンチェスター・ユナイテッドでは負傷の影響もありまったくと言っていいほど活躍できず、2014-15シーズン終了後の完全移籍のオプションを行使しないことをマンチェスター・ユナイテッドは発表した。2015年7月3日、ASモナコからの期限付き移籍でチェルシーへの加入が決まった。背番号は9番。シーズン序盤は交代出場で出場機会を得ていたが、2015年10月末のリヴァプール戦を最後に負傷離脱を強いられた。2016年4月9日のスウォンジー・シティ戦では約5カ月ぶりの復帰を果たしたものの、それがチェルシーでの最後の出場となった。合計ではリーグ戦10試合に出場して1ゴールを記録。まったくと言っていいほど活躍できず、2016年7月1日に契約満了に伴い退団したことをクラブ公式サイトで発表した。2016-17シーズンはASモナコへ復帰した。2005年にコロンビア代表デビューした。2007年のキリンカップで来日し、日本戦に途中出場した。モンテネグロ戦(1-0)ではこの大会チーム唯一の得点となる代表初得点を決めた。CAリーベル・プレートでの好調からコロンビア代表でも一定の地位を確保し、2010 FIFAワールドカップ・南米予選全試合に招集された。2009年6月10日、2010 FIFAワールドカップ・南米予選のペルー戦(1-0)で決勝点を挙げた。2013年10月11日の2014 FIFAワールドカップ・南米予選のチリ戦では、後半30分1-3のビハインドから2得点を挙げて引き分けとし、コロンビアの4大会ぶりのワールドカップ出場決定に大きく貢献した。しかし、2014年、負傷の完治が最終登録期限に間に合わずワールドカップ本戦には選出外となった。キャプテンを務めることもある。左右両足から非常に高い精度のシュートを放つことができる。ファルカオ本人は自らの長所をポジショニングと瞬発力であると考えており、またヘディングに関しては「大の得意」と自信を持っている。イバン・サモラーノは、リオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウド、ウェイン・ルーニーらを「新時代のストライカー」と表現したのに対し、ファルカオを「世界で最後の偉大な典型的センターフォワード」と評した。パウロ・フットレもまた、メッシやロナウドとは違う、よりクラシックなストライカーであると語っている。ミドルネームのファルカオと呼ばれることを好む。この名前は1980年代に活躍したブラジル代表MFファルカンからとって名づけられた。El Tigre(エル・ティグレ、虎)というニックネームで呼ばれることもある。キリスト教徒であり、暇な時間には聖書を読むことを欠かさない。サッカーへの真摯な姿勢とプロ精神を学んだとして、リーベル・プレート時代とアトレティコ時代に指導を受けたディエゴ・シメオネを自身の人生に大きな影響を与えた人物に挙げている。父親のラダメル・ガルシアもサッカー選手であり、コロンビアでディフェンダーとしてプレーした。2014年6月、アメリカの経済誌フォーブスは世界のアスリートの年収を公表した。ファルカオの年収は3540万ドル(約36億円)であり、世界のアスリートの中で15位。サッカー選手の中ではロナウド、メッシ、イブラヒモビッチ、ベイルに次ぐ5位。幼少期はベネズエラに住んでいたこともあり、野球もプレーしていた。国際Aマッチ 63試合 25得点(2007年- )!通算
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