森 博幸(もり ひろゆき、1963年5月29日 - )は、西武ライオンズに所属した元プロ野球選手(一塁手、外野手)。新日鐵君津では関東地方の社会人屈指のスラッガーと評価され、1985年のドラフト会議で西武ライオンズから指名を受けた。しかし同じ一塁手の清原和博が1位指名を受けて入団したことから、1年後の他球団からの指名も視野に入れ西武入団を保留し新日鐵君津に残留。結局、指名してくれた根本陸夫管理部長への恩もあり1年後のに入団した。西武ではその清原が新人王を獲得して既に一塁手のレギュラーに定着しており、外野手として登録されている。同年は同期入団となった中村日出夫らとともに1Aのに野球留学し、主に外野手として109試合に出場した帰国したは背番号が14に替わりチームに期待されていたが、故障で一軍出場はなかった。翌は背番号が62になったが、一軍初出場を果たしてシーズン終盤には代打の切り札として頭角を表した。9月10日には初めてスタメンで起用され、さらに9月24日の対ダイエー戦では出場停止の清原に代わって3番打者を務め、この試合で村田勝喜からタイムリーを放ったことが大きな自信に繋がったという。はチームに不足している左打ちの強打者として期待され、背番号が20になった。同年は羽生田忠克や吉竹春樹、安部理らと左翼手のレギュラーの座を争い、前年を上回る60試合に出場して打率.282、初の本塁打も記録している。翌は左翼手としてチーム最多の37試合に先発出場し、9月8日には野茂英雄から決勝3ランを打ちチームにマジックが点灯した。同年は規定打席には達しなかったものの打率は.303となり、7本塁打を放っている。は打率.140、本塁打なしと成績が低下したが、は体調を崩した清原に代わって3番打者を務めた8月19日の対近鉄戦で2年ぶりの本塁打を放つなどの活躍を見せた。3年ぶりに復帰したオレステス・デストラーデが途中退団したは清原が右肩の故障の影響により一塁守備ができないため、指名打者を務めることが多く、シーズン後半を中心に一塁手として29試合に先発出場している。は内野手に選手登録が変更され、5月15日の対日本ハム戦では右中間への打球が跳ね返って本塁打かエンタイトルツーベースか判断が分かれ、中間を取って三塁打と判定される珍しいプレーがあった。限りで現役を引退し、スポーツ選手の動作解析ソフトを扱う企業に就職した。社業のかたわらマスターズリーグに参加し、には首位打者となっている。の同リーグ開催中に西武でチームメートだった石毛宏典から四国アイランドリーグ設立の構想を聞いたのをきっかけに、に香川オリーブガイナーズのコーチに就任した。シーズン限りで香川を退団し、から古巣である西武ライオンズの二軍打撃コーチに就任した。2008年12月9日、一軍打撃コーチだった大久保博元が知人女性への暴行容疑で被害届を提出されている事からフロントによって配置転換され、代わりにから同コーチに昇格しまでこれを務めた。スタメンに定着してもおかしくない実力の持ち主だったが、一塁手には清原和博、外野手には秋山幸二や平野謙がいて選手層が厚かったため、代打での起用が中心だった。一方、控えでもたゆまず努力する明るい性格で、人柄の良さを評価されていた。身長1m87cm、体重およそ90kgの巨体で、早いカウントから打ちに行く積極性や左中間にも長打を放つパワーを備えた打撃が持ち味だった。監督だった森祇晶はバランスの良い選手を好むといわれたが、守備は普通でも長打力をアピールできれば良いと割り切っていたという。
出典:wikipedia
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