連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部とも。職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人が多数で、他にイギリス軍人やオーストラリア軍人らで構成されていた。極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官(連合国最高司令官)。日本では、総司令部 (General Headquarters) の頭字語であるGHQや進駐軍という通称が用いられた。支配ではなくポツダム宣言の執行が本来の役目である。1945年(昭和20年)8月14日に日本政府が受諾通告したポツダム宣言では、日本を占領する組織は"occupying forces of the Allies"(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府は"Supreme Commander for the Allied Powers"(「聯合国最高司令官」)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。この後も日本の法令では「聯合国最高司令官」(連合国最高司令官)と表記されることが多い。連合国最高司令官の下に属する組織は英語表記によれば"General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers" (GHQ/SCAP) で、「連合国最高司令官総司令部」、「連合国総司令部」と日本語訳され、日本では多くの場合に略称のGHQ(ジー・エイチ・キュー)と呼称している。他方で、「軍」を補って、「連合国軍最高司令官」や「連合国軍最高司令官総司令部」または「連合国軍総司令部」のように呼ばれることも多い。連合国軍最高司令官総司令部は、ポツダム宣言の執行のため日本に設置された連合国機関である。1945年(昭和20年)8月14日に、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官 (SCAP) に就任し、同年10月2日に東京で総司令部が設置された。同年9月に、占領下の日本を管理する最高政策機関としてイギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦、カナダ、イギリス領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、アメリカ領フィリピンの11カ国で構成された「極東委員会」が設けられ、連合国軍最高司令官総司令部は極東委員会で決定された政策を遂行する機関になる。1951年(昭和26年)4月11日にアメリカ大統領のトルーマンがマッカーサーを解任した後、米軍のマシュー・リッジウェイ中将が最高司令官に就いた。翌1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を停止した。連合国軍最高司令官総司令部は、日本を軍事占領するべくイギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦そしてカナダやオーストラリア、ニュージーランドをはじめとするイギリス連邦諸国など連合国各国の軍隊から派遣された最大43万人を統括し、多数を占めたアメリカ陸海軍を中心に構成されたアメリカ占領軍 (USOF) と、イギリス軍をはじめとしたイギリス連邦諸国軍を中心に構成されたイギリス連邦占領軍 (BCOF) が連合国軍最高司令官の直下に指揮され、イギリス連邦占領軍は中四国地方を担当し、残る都道府県はアメリカ占領軍が担当している。日本の占領方式は、連合国軍最高司令官総司令部の指令を日本政府が実施する間接統治が採られ、GHQは統治者の天皇ではなく日本国政府へ関与し、連合国軍最高司令官総司令部の指示や命令を日本政府が日本の政治機構で政策を実施している。連合国軍最高司令官総司令部の命令は、1945年(昭和20年)9月20日に出された勅令「「ポツダム宣言」の受諾に伴い発する命令に関する件」(昭和20年勅令第542号)に基づいて出された勅令、いわゆるポツダム命令として国民へ公布・施行された。1946年(昭和21年)2月に政策決定の最高機関として各国代表による極東委員会 (FEC) が、同年4月に最高司令官の諮問機関として対日理事会 (ACJ) が設置されるも、最大の人員と最高司令官を派遣するアメリカが最も強い影響力を持ち続けた。連合国軍最高司令官総司令部は、まず軍隊を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、山崎巌内務大臣の罷免、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放などと、政治の民主化や政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体、農地解放などを指示した。当時の日本政府は、占領の否定的感覚低減を目して連合国軍を「進駐軍(しんちゅうぐん)」と称するよう、報道機関に指導した。調達庁の資料には、7年間の占領期間中、米兵に殺害された者が2536人、傷害を負わされた者は3012人としている。漫画家の手塚治虫も街角で殴り倒された。また米兵に日本人女性が襲われる事件が2万件といわれ、強姦の際に日本の警察官が事実上の見張り役になる場合もあったなどと述べる者も一部に見られる。当初は現在の横浜税関に置かれたが、後に皇居と東京駅に挟まれた丸の内地区一帯のオフィスビルはその多くが駐留する連合国軍によって接収され、このうち総司令部本部は第一生命館に置かれた。マッカーサー用の机は石坂泰三のものをそのまま使用した。第一生命保険側は占領下では第一生命館の接収が免れ得ない事を承知しており、当時では最新のオフィスビルであった当館を司令部として使う優位性を説明し採用されたものである。これは、司令部として使われるのであれば丁寧に使用され将来の接収解除後は問題なく使用できるであろうことを期待した措置であり、結果としてその目論見は奏功した。なお当館地下の保険証券倉庫部分は、その重要性が理解され接収の対象外であった。連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) はポツダム宣言を執行するために日本の占領政策を実施した機関である。GHQ/SCAPに先立ち、主に軍事部門は横浜税関の建物を接収して設置した太平洋陸軍総司令部 (GHQ/AFPAC) が担当していたが、GHQ/SCAPとGHQ/AFPACは完全に分離された組織ではなく両者は同じ上部機構にあり、GHQ/SCAP が東京に本部を設置後に GHQ/AFPAC 本部も東京へ移転している。連合国軍最高司令官総司令部は連合国最高司令官(太平洋陸軍司令官兼務)を長とし、その下に参謀長が置かれ、その下に参謀部と幕僚部(特別参謀部または専門部とも)が置かれていた。参謀長と参謀部はGHQとAFPACの両系統に属していたが、幕僚部についてはGHQ/SCAPとGHQ/AFPACにそれぞれ副参謀長が置かれ、その下にGHQ/SCAPの幕僚部とGHQ/AFPACの幕僚部がそれぞれ独立して置かれていた。総司令部の最大の目標はアメリカにとって脅威となる日本の軍事力解体で、日本を中立・非武装化して中華民国をアジアの中心となし、軍国主義を廃して親米的な国家へ創り変えることであり、マッカーサーは『上からの革命』と称し「当初は日本を工業国から農業小国に転換し、アメリカの市場とするつもりだった」と後年に語っている。初期はGHQで広く権限を有す民政局が策定して実施され、冷戦兆候以後は参謀第2部の主導でレッドパージなどを実施している。連合国軍は占領直後から戦争指導者の検挙を始めて東條英機元首相を含む数十名を逮捕し、A級戦犯として極東国際軍事法廷の判決で東條以下7名を死刑、その他多数を禁錮刑や終身刑に処している。本裁判は戦時の国際法抵触者ではなく戦争に携わった士官以上が裁かれ、日本は平和条約でこれを受諾している。戦争や大政翼賛会に関与したと見做された者は、政府機関など特定の職に就くことを禁止され、軍人や戦時中に軍へ協力的と認定された政治家、思想家などの三親等内親族と血縁者も同職へ就職が禁止されるなど公職追放が行われた。政治家や思想家、旧軍人にとどまらず、中央官僚から地方の教職員まで失職し、影響は25万人とする説もあり、この公職追放直後の期間、日本の中央政府、地方自治体は事実上機能を停止した。戦中まで戦意高揚映画を製作した東宝など映画界も影響を受けている。一方、首相となる吉田茂と鳩山一郎の軋轢をはじめ、追放が日本人同士の権力争いに利用された面もある。アメリカ国内でも、本来目的の「軍国主義者などの日本政界からの追放」を超えた影響を及ぼしたとして、占領政策の批判を受けるなど、トルーマン大統領とマッカーサー連合国最高司令官の確執へつながるとする者もいる。総司令部が政策として最初に行ったことは検閲である。1945年(昭和20年)9月に発した「プレスコード」などで軍国主義的、戦前から戦中の日本を肯定、連合国軍の行為を批判、原子爆弾や無差別空襲の被害、などをラジオや新聞と雑誌、一般市民発行の本などを厳しく取り締まり、言論を統制した。プレスコード通達直前には「言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16) を発し、言論の自由の制限は最小限度に止める、GHQ及び連合国批判にならずまた世界の平和愛好的なるものは奨励とされたが、これに違反したとして朝日新聞社は二日間の業務停止命令を受けた。「掲載禁止、削除理由の類型」―占領軍批判、検閲への言及、本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目もあった。米兵の暴行事件米兵の私行に関して面白くない印象を与える記事進駐軍将校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事食糧事情の窮迫を誇大に表現した記事連合軍の政策を非難する記事国内における各種の動きにマッカーサー司令部が介在しているように印象づける記事―などであった。さらに上記「検閲指針」の違反者は米軍の軍事法廷で訴追され、沖縄における強制重労働3年乃至5年であった。「Apr 29, 1949: The editor of the magazine “Emancipation News” was sentenced to five years of hard labor (Braw 1991, chapter 7)」また、新聞やニュース番組などを通じて日本軍の戦時中の非道を繰り返し報道させ、国民の戦意を全く喪失させると共に、国民の贖罪意識を増幅させる厭戦工作を行ったと江藤淳が主張し、これをウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(「戦争への罪悪感に関するプログラム」)と称して著書にしている。戦争末期にコーデル・ハルは「日本をアジア解放に殉じた国と思わせてはならない」とルーズベルト大統領に進言したという。日本国民に対しアメリカ文化の浸透を図るべく、ハリウッド映画の統括配給窓口会社CMPE (Central Motion Picture Exchange) を東京に設立した。このCMPEに一時在籍した淀川長治によれば、「忘れもしないメイヤーという名の支配人は映画より国策に心を砕く、あたかもマッカーサー気取りの中年男だった」そうで、ヨーロッパ映画びいきの記者を試写から締め出したりの傲岸不遜振りに、1952年(昭和27年)にこの会社が解体された際は映画関係者たちは喝采を挙げたという。一方で国産映画は、終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。子供達の文化媒体であった紙芝居では、「黄金バット」の「髑髏怪人」というキャラクターを、「スーパーマン」のような「たくましい金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。しかしこれは全く支持されることなく無視された。連合国軍による最初の仕事は、日本全国の軍施設に進駐し日本軍の武装解除を進めることであった。残存していた使用可能な兵器類は全てスクラップにし、その一方で施設としての軍用地はその多くを駐留軍が引き継ぎ、占領政策の礎とした。物理的な軍事力剥奪の次に進めたのが法的な整備であり、「国民主権」、「基本的人権の尊重」という民主主義の基本を備えると共に、「戦争放棄」を謳った憲法(日本国憲法)を作成し、日本政府に与えた(日本の戦争放棄は幣原喜重郎首相も考えていたと、マッカーサーは記録している。また、幣原は自らの著書である『幣原喜重郎―外交五十年』のなかで、戦争放棄や軍事力の解体を考えていた事を明らかにしている。)。また、天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止、軍国主義教育の廃止、第六潜水艇に代表される多くの軍人の顕彰施設の破壊など、明治からの社会思想を解体した。非軍事化の一環として日本国内の武道(剣道など)を統括していた政府の外郭団体である大日本武徳会を解散させ、関係者1300余名を公職追放した。また、全国に日本刀の提出を命じる刀狩りが行われ、膨大な刀剣類が没収、廃棄された(東京都北区赤羽に集められたことから赤羽刀と呼ばれている)。さらにその矛先は映画界にまで及び、チャンバラ映画が禁止され、嵐寛寿郎や片岡千恵蔵ら日本を代表する時代劇俳優が仕事を失った。民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。労働組合はすぐに解禁され、男女同権論に基づく婦人参政権は直後の衆議院選挙から実行された。圧政的といわれた治安維持法と特別高等警察は廃止され、戦時中にこれら罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放した。経済界においては、経済民主化のため、三井・三菱・住友・安田の四大財閥を解体した(財閥解体)。さらに、地方自治法が制定され、都道府県知事は選挙によって選出されるようにしたことで、中央集権から緩い地方分権へと移行させた。警察も、それまでの国家警察から、地方自治体の影響下に置かれた自治体警察へ組み替えられた。農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した一方、自作農となった農民を保守化させる結果となり、農村は保守勢力の牙城となった。また、北海道を除いて大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し、以後の食料自給率低下に拍車をかけ現在に至っている。なお、全ての小作地が農地改革の対象になったわけではなく、実態には地域によりばらつきがあった。教育方針は連合国側で矯正させ、教育基本法を制定させて、6・3・3・4の学校制度を新設し、複線教育と教育勅語を廃止させた。教育使節団が2次に亘って来日し、新制中学校による義務教育の延長など、教育のアメリカニゼーションに寄与すべく、これらの事業を完成させた(アメリカ教育使節団報告書)。連合国軍最高司令官総司令部の指令により、薬事法が改正され明治の近代医療導入以来概念自体は存在していたものの曖昧であった医薬分業制度が導入された。1948年(昭和23年)春、日本の教育状況と日本語に対する無知と偏見から、「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」とする、ジョン・ペルゼル (John Campbell Pelzel) という若い将校の発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。当時東大助手だった言語学者の柴田武は、民間情報教育局 (CIE) の指示によって、この読み書き全国調査のスタッフに選ばれ、漢字テストの出題を任された。これは日本初の「無作為抽出法(ランダムサンプリング)」の実施でもあり、統計数理研究所研究員の統計学者だった林知己夫が被験者のサンプリングを行った。こうして1948年(昭和23年)8月に、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)によって実施された、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした全国試験調査「日本人の読み書き能力調査」であったが、その結果は、漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、「日本人の識字率が100%に近い」という世界的に見ても例を見ないレベルだった。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「字が読めない人が非常に多いという結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「調査結果は捻じ曲げられない」と突っぱね、ペルゼルもそれ以上の無理押しはしなかったという。結局、日本語のローマ字化は撤回された。終戦直後の8月18日に、内務省は全国の警察に対して連合国軍の将兵向けの慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が「特殊慰安施設協会 (RAA)」の設置を決めた。「(連合国軍の将兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分を基に、日本各地に慰安所が設置された。国内経済の疲弊から社会主義が流行し、労働運動は非常に盛り上がったが、アメリカやイギリスなどの民主主義国とソビエト連邦との対立、いわゆる冷戦が起こると、左派勢力たる共産党の勢力拡大が恐れられた為、対日政策の方針転換が行われて、日本列島を『反共の防波堤』にする計画が進み、共産主義者の追放(レッドパージ)を極秘裏に行った。同時に軍国主義・超国家主義者などの公職追放を解除することで、ある程度の右派勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。いわゆる「逆コース」である。また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。朝鮮戦争勃発によって連合国軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋める為、警察予備隊の創設と海上保安庁(海上警備隊)の強化を実施して、予定を繰り上げて日本の再軍備を行った(ただし最終過程は“新日本軍”設立であり、自衛隊ではなかったという。陸軍悪玉論が日本人の軍に対する感情を支配していたので新軍設立は断念された)。これらによって、日本との早期講和を行い、主権回復させて自力で防衛させることとなり、日本国との平和条約および(旧)日米安全保障条約の発効に至った。GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けていると考えられている。日本政府は敗戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らはイタリアなどの枢軸諸国が、早期講和によって賠償や領土割譲を要求されていく様子を見た。健全な戦後復興のためには、高額賠償金の支払いや、領土分割を回避する「寛大な講和」が必要であり、日本政府は「よき敗者」として振舞うことに注力し、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。一方、冷戦の激化により、日本との講和もアメリカやイギリスなど自由主義陣営とソ連などの社会主義陣営の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では、国防省は日本への軍の継続駐留を企図して、国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の施政権下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。1951年(昭和26年)の講和会議には英仏蘭の要求によって、各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国)と「朝鮮」(大韓民国或いは朝鮮民主主義人民共和国)は招かれず、ソ連は米国主導・中国(中華人民共和国)不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ、国際社会に誠実さをアピールした。これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立及び朝鮮の放棄を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、南洋諸島の放棄、沖縄・奄美・小笠原がアメリカの施政権下におかれることの承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印してアメリカ軍の国内駐留を承認し、台湾島に拠点を移した中華民国の中国国民党政府を承認する日華平和条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。主権回復した日本は、国際連合に加盟する為、ソ連との国交回復を1956年(昭和31年)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国際連合に加盟、国際社会へ復帰した。その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、1970年代には主要先進国の一つとなった。同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、また講和会議は行われていない。
出典:wikipedia
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