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L・M・モンゴメリ

ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery、1874年11月30日 - 1942年4月24日)はカナダの小説家である。『赤毛のアン』の作者であり、本作を第一作とする連作シリーズ「アン・ブックス」で良く知られている。彼女の小説は英語で記されている。ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日に、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれた。スコットランド系とイギリス系の祖先を持つ。父方の祖父は、上院議員。モンゴメリが生後21か月(1歳9か月)のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った。しかし、一部の叔母たちを除いて、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、モンゴメリの欠点をあげつらう親族のことは嫌っていた。1890年(15歳のころ)には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州のプリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった。1893年。キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(現在のホーランド・カレッジ)へ進学した。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得した。1895年から1896年にかけてノバスコシア州の州都ハリファックスのダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長も務めていたため、死後その仕事をモンゴメリが引き継いだ。1901年と1902年の短期間、ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として勤め、1902年に祖母の世話をするため、再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと1906年に婚約。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。ユーアン・マクドナルドとは祖母が亡くなった直後、モンゴメリ36歳の1911年7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、オンタリオ州リースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ )に移り住んだ。モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書いた。1919年に最も親しかった従妹のフレドリーカ・キャンベル・マクファーレンを病気で失くす。この喪失感は生涯続いた。1926年に一家はノーヴァル(現在のオンタリオ州ハルトンヒルズ)に移住した。1935年にフランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けた。同年一家はトロントへ移った。モンゴメリは1942年にトロントで亡くなった。死因は「冠状動脈血栓症」とされてきたが、『赤毛のアン』原作誕生百周年の年に、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーにより、うつ病による自殺と公表された。グリーン・ゲイブルズおよび教会での葬儀のあと、キャベンディッシュ墓地に葬られた。モンゴメリのコレクションはガルフ大学に所蔵されているほか、プリンスエドワードアイランド大学にあるthe L.M. Montgomery Instituteがモンゴメリ関連の研究や会議をコーディネートしている。モリー・ギレンは、モンゴメリとマクミランが交わした40以上の手紙を元にモンゴメリの初めての伝記「The Wheel of Things: A Biography of L.M. Montgomery (1975) 」(邦題『運命の紡ぎ車)を著した。1980年代初め、モンゴメリの全日記がマリー・ルビオとエリザベス・ウォーターストンの編集でオックスフォード大学印刷局から刊行された。1988年から1995年にかけて、リー・ウィルムシュルストがモンゴメリの短編を収集して出版した。ユーアンは結婚後8年目に学生時代に患ったうつ病が再発、生涯快癒する事はなかった。モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けたが、晩年は家庭内外の問題で心労が重なり、モンゴメリ自身も神経を病んだという。二人の間には3人の男子があった。チェスター・キャメロン・マクドナルド(1912-1964)、(ユーアン)スチュアート・マクドナルド(1915-1982)、そして1914年に死産したヒュー・アレクサンダーである。モンゴメリーは筆名等に神経質であったことが知られる。「赤毛のアン・ライセンス局」に記載されている日本語の表記は「ルーシー・モード・モンゴメリ」および「L. M. モンゴメリ」である。結婚後は姓が変わりマクドナルド夫人となるが、筆名は当然、変わることなく、L. M. Montgomery を用いる。他方、手紙では L. M. Montgomery Macdonald と署名している。名前にこだわりのあるモンゴメリは作品をルーシー・モード・モンゴメリの名で出版する事を嫌い、L. M. モンゴメリにしたいと出版社に希望した。友人たちはモード(Maud)と呼んだが、父は「モーディー」と愛称で呼んだ。1908年の『赤毛のアン』の成功の後、1909年の第2作『アンの青春』など、『赤毛のアン』シリーズ(アン・ブックス)を含め生涯に20冊の小説と短編集を書いた。特に『赤毛のアン』は何度も映画化され、40か国語に翻訳されるなどの成功を収めた。『赤毛のアン』は日本では、1952年に村岡花子により翻訳・紹介され、主に少女たちの間で熱狂的に愛読された。のちに、中学の国語の教科書に収録され、1979年に世界名作劇場シリーズでテレビアニメ『赤毛のアン』として放送された。モンゴメリの生地、プリンス・エドワード島を訪れる日本人観光客は多い。なお、少女期から『赤毛のアン』を愛読していた作家の松本侑子は、1990年代に原書で読み直したところ、中世から19世紀にかけてのイギリス文学のパロディが、大量に詰め込まれていることを発見し、1993年に詳細な注釈つきの『赤毛のアン』の改訳版を刊行した。

出典:wikipedia

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