林家 たい平(はやしや たいへい、1964年12月6日 - )は、埼玉県秩父市出身の落語家。本名は田鹿 明(たじか あきら)。林家こん平の弟子。落語協会所属、所属事務所は株式会社オフィスビーワン。武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。武蔵野美術大学客員教授。言霊群団「夢吽空」団員。血液型はB型。人気演芸番組『笑点』(日本テレビ系列)の大喜利メンバーのひとり。出囃子は『ぎっちょ』(「ドラ落語」の際は『ドラえもんのうた』)。定紋は『花菱』(「ドラ落語」の際は『鈴』)。芸名にちなんで手ぬぐいや色紙・著書などに、鯛の絵柄をよく用いる。愛称は、「たいちゃん」。これは、たい平の師匠であるこん平の愛称「こんちゃん」に由来する。埼玉県立秩父高等学校を経て、1988年に武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業後、林家こん平に入門したという落語家としては異色の経歴を持つ。実家はかつてテイラーメイドの洋服店を営んでおり、現在は実母が駄菓子店「駄菓子屋たい平」を、実兄がうどん店「うどん亭たじか」を経営している。洋服店時代は店内において落語の寄席が催されたことがある。「たい平」の名付け親は、師匠のこん平である。しかし当初の読みは「たいぺい」であった。こん平曰く「外国人にも語呂的に伝わりやすい」という理由だったが、大師匠初代三平の夫人・海老名香葉子の「"たいへい"の方が良いのでは」の鶴の一声に「たいへい」に決まる。なお、こん平は弟子入りをすぐ認めたわけではなく、香葉子夫人の自宅で1年間の住み込み修行をさせた上で、正式に弟子入りを認めている。たい平は生まれ故郷の秩父に愛郷心を抱いている。『笑点』(日本テレビ)でも時々挨拶の際に、秩父でのイベント情報などを盛り込んで秩父のことを紹介しており、毎年11月下旬には、正式なメンバーとなった2006年以降、7年続けて秩父夜祭を大々的にPRしている。2009年に俳優の藤原竜也、演歌歌手の冠二郎、THE ALFEEの桜井賢と共に秩父市の観光大使に任命されている。『笑点』の大喜利では大月秩父代理戦争ネタを三遊亭小遊三と展開していたが、2010年6月6日に大月市で行われた独演会では、秩父市長・久喜邦康と小遊三と同窓の大月市長・石井由己雄も交えてトークバトルが行われた。さらに、同年10月24日には、「第2弾」として、秩父市で両市長も交えたトークバトルが行われた。落語家を目指すきっかけは、大学に入学した際にふと立ち寄った落研サークルが当時は廃部寸前だったため、何とかしなければと友人数名を集めて廃部を撤回させたことにある。落研サークルでの高座名は「遊々亭迷々丸(ゆうゆうてい めめまる)」。その当時は落語を観たことも聴いたこともなかったために漫才やコントをやっていたが、後にたまたまラジオで流れていた人間国宝・5代目柳家小さんの『粗忽長屋』を聴いて感動し、真剣に落語を始めた。また、武蔵野美大出身という学歴を活かし、著書や自身のCDの挿絵を自ら担当するなど画才でも知られる。また同じく絵を描くことで知られている林家木久扇の絵のアシスタントをしていたことがある。2006年2月18日昼に放送された、深夜番組『歌スタ!!』(日本テレビ)のスペシャル版『ハンター全員出席! 各界うたいびとガチガチデビューSP』に出演。BEGINの『恋しくて』を歌い、ウタイビトハンターが合格を意味する“よろしく”の札を上げた。その後『笑点』の大喜利で、挨拶や答えの機会を利用して『歌スタ!!』での合格や出演、歌手デビューについて宣伝した。古典落語の『芝浜』にヒントを得た『芝浜ゆらゆら』(作曲・編曲:マシコタツロウ)でCDデビュー(2006年10月18日にコロムビアミュージックエンタテインメントから発売)。2006年10月14日・21日(再放送)放送の『BS笑点』(BS日テレ)では、たい平司会のコーナー「使ってみよう! 落語ことば」の時間を利用して1コーラス披露した。『笑点』の司会者(当時)・桂歌丸からはそれをネタにされ、「歌のCDはいいから落語のCD出しなよ」と言われているが、落語のCDはすでに複数リリースしている。『芝浜』の舞台設定などを現代風にアレンジした『SHIBAHAMA』という自作もあり、文化放送で『芝浜』のラジオドラマが制作された際にはアドバイザーを務めている。お笑いコンビのTIMのゴルゴ松本に少々似ている。それはたい平自身も自覚しているらしく、『笑いがいちばん』(NHK総合)で落語を披露した際、マクラの部分で、「ゴルゴ松本と思われた方……」(要約)といった話をしている。また『笑点』では、「私は『命』じゃありません」と挨拶をした。2006年10月に登場した日本テレビのマスコットキャラクター「日テレちん」の声を担当している。2007年4月から尚美学園大学総合政策学部ライフマネジメント学科の非常勤講師を、2010年4月から武蔵野美術大学(本人曰く「ムサビ」)の客員教授を務めている。現在は、『笑点』メンバーで林家三平を除き落語家の直弟子を取っていないが、非公式(番組内で、たい平曰く「芸能人特別枠」と称している。)ながらも林家テリ平(テリー伊藤)、林家たいペー(林家ペー)がいるため、2008年には「たい平一門かい?」と称する独演会が開けるようになったが、「2人とも自分より年上でわがままなので、師匠である私の言うことをまったく聞いてくれない」とネタにしている。ほかに、テリー同様、『テリーとたい平のってけラジオ』で共演した正木あずみが2010年10月に三味線漫談家として弟子入りし、林家あずみの高座名を名乗っている。彼女は、落語協会が公認した初の直弟子(色物)として扱われている。2016年5月29日放送の『笑点』にて、同年の『24時間テレビ39「愛は地球を救う」』(日本テレビ系)のチャリティーマラソンランナーを務めることが発表され、同年8月28日には3か月前に『笑点』の司会から勇退した歌丸の本名「椎名巌」にかけて設定された100.5キロメートル(いわおGO)の道のりを完走した。放送直後の『行列のできる法律相談所』に生出演した際には、マラソンに備えて体重を10キログラム落としたことなど裏話を語ったほか、大好きという女子プロテニス選手のクルム伊達公子や特撮テレビヒーローのミラーマンがご褒美ゲストとして駆けつけ、たい平へのプレゼントをそれぞれ手渡した。家族は同年齢である妻の田鹿千華と2男1女。千華は仙台市出身で、たい平と結婚する前はリクルートに勤務しており、一時はフリーアナウンサー(フリーキャスター)業を行っていたこともある。『笑点』の大喜利などでも度々名前が出ており、前司会者・桂歌丸の冨士子夫人を上回る「恐妻」として紹介されている。しかし、たい平は『笑点』で「(千華は)誰に対しても怖いわけではない」と述べている。東日本大震災では千華のおじが亡くなったこともあり、たい平は宮城県で慰問を兼ねた救援活動を行っている。千華は『笑点』で名が知れてしまったこともあり、2010年12月に夫が公式ブログを開設しているアメーバブログで個人ブログを始めた(#外部リンク参照)。笑点でも東日本大震災直後の2011年9月11日に「笑点がやってきた!」という宮城県石巻市の復興特集を行ったことがあり、石巻市立大街道小学校での収録をたい平自身も木久扇や昇太や山田隆夫とともに参加した。著書『笑点絵日記』でも主張されている通り、たい平は子供のころから大の『笑点』ファンである。たい平が家族を後楽園ホールに招待したところ、オープニングで挨拶をする5代目三遊亭圓楽の周りにたい平の家族が座っていて、テレビにもその姿が映ったというエピソードが記されている。演芸コーナーで若手大喜利が行われた時代から出演していた若手大喜利メンバーである。1998年7月に山田隆夫が4週間休んだ際、大喜利下克上(若手大喜利)にてチャンピオンとなり、1週のみ(第1623回の7月12日)山田の代わりに座布団運びを務め、師匠・林家こん平と師弟での共演を果たした。1999年の正月特番で行われた師弟大喜利でも、師弟での共演を果たしている。『笑点Jr.』にも『BS笑点』時代から出演している。放送開始当初は大喜利メンバーとして出演し、2003年11月9日の放送で初めて出演権を剥奪されるが、それ以降は出演権を剥奪されることはなく、復帰した2003年12月7日から最終回まで出演し続けた。2004年12月26日放送分からは、病気療養のために休演した師匠のこん平の代役として若手大喜利から選抜されて大喜利に出演した。当初は「復帰まで師匠の座席を死守しなければ」という思いで臨んでいたが、こん平の復帰のめどが立たないことから、2006年5月21日の放送分から若手大喜利の司会であった春風亭昇太とともにレギュラーメンバーに昇格する。代役当時は立場を意識してからか、初期の挨拶では「師匠のこん平に尋ねたところ〜」と言って挨拶をはじめ、締めは両手を真上に突き上げて、こん平の「新潟生まれ」を真似た「秩父生まれのたい平でーす」としゃべるなど、こん平の挨拶ネタをよく用いていた。現在では最後の部分だけが残り、「(○○の)たい平でーす」で挨拶を締める。地方収録では、師匠のこん平に地方収録に行くことを報告したところ「お前は○○(収録地)生まれだ」といわれてきて、「○○生まれの秩父育ち、たい平でーす」で挨拶を締めることが見られる(恐らくは、こん平のネタ「○○で生まれ、新潟で育った」を、たい平流にアレンジしたものと思われる)。2005年6月12日放送で5代目圓楽に自分の名前を忘れられたことがあり(最初の頃は手を挙げてもなかなか指名してもらえなかったが、それは5代目圓楽が本番になるとたい平に名前が分からなくなるからであった)、その後このネタがたい平の冒頭の挨拶や大喜利などで使われるようになった。なお5代目圓楽はたい平の「外国人パブ」、「物まね」など『BS笑点』時代からの持ちネタを試行錯誤の末に確立させたことについて「独自の芸風を確立してよくなってますね」と評価していた(笑点の40周年記念ムック本)。なお、4代目司会者の5代目圓楽が療養のため休演した際、大喜利メンバーが交代で代理司会を担当していた(2005年11月27日放送分以降は桂歌丸に固定)が、大喜利メンバーの中でたい平だけが司会を務めなかった。これは、たい平本人によれば、「自分は、あくまで師匠・こん平の代理として出演していており、師匠を差し置いて司会を務めることは出来ない」という理由によるものであった。その後、レギュラーメンバーとなった後、2008年6月29日放送分は司会の歌丸が腰の手術で一時休演した際、大喜利の司会を務めた(この日の冒頭は、木久扇と楽太郎〈現:6代目圓楽〉が担当)。「ターボが回転しすぎて、収録後に鼻血が出た」という(笑点オフィシャル本より)。2010年の正月特番では、「親子大喜利」コーナーで息子とペアを組んだ。また11月に行われた甥っ子の結婚披露宴では新郎新婦を祝福する挨拶をシャレを交えて行っている。歌丸が正式な司会に就任後「歌・ものまね禁止(披露すれば最低でも1枚剥奪の対象)」と述べているが、その発端は大概たい平である。以前は師匠のこん平の流れで「山田降ろしネタ」などが多く、5代目圓楽司会時には山田に突き飛ばされたり、座布団をすべて没収されていたが、歌丸が司会を務めてからは報復こそされるものの山田が没収した分+1枚を獲得することが多い。最近は三遊亭小遊三との地元罵倒合戦(大月秩父代理戦争)や恐妻家ネタ、「秩父○○祭り」、ブラック団ネタなど他のメンバーとの絡みも多くなっている。ほか、「花火」や「ふなっしー」のものまねのような、アクションの派手なギャグも得意としている、が、たいていこれらのネタを披露すると座布団を2枚以上から全部、時には他のメンバーまでも巻き込んで剥奪されるのがお約束となっている(まれに自分から減らすこともあるが、歌丸によってもう一枚減らされる)。など。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。