鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代に幕府が九州の統括のために設置した機関である。行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。1274年(文永11年)、1281年(弘安4年)の元寇の後に設置される。1293年(永仁元年)に9代執権北条貞時のころ北条兼時・名越時家が派遣されたのが創始で、それまで設置されていた鎮西談議所は廃止される。1296年(永仁4年)の北条実政から1人体制となる。1299年(正安元年)には評定衆・引付衆が設置され訴訟裁断権を持った。鎮西探題が問状や召文、訴訟関係など御家人に対して発給する文書は、形式により鎮西御教書・鎮西下知状と呼ばれる。1333年(元弘3年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、鎮西探題の北条英時は呼応した少弐貞経や大友貞宗、南九州の島津貞久らにより攻められ滅亡する。後に室町幕府は九州統治のため、鎮西探題に倣って九州探題を設置した。江戸幕府は九州諸藩の監視、天領統治の為に西国筋郡代を置いた。探題館(探題城、姪浜城または鷲尾城とも)は、筑前国早良郡の愛宕山(現在の福岡県福岡市西区愛宕)に置かれたとされてきた。だが、中世都市の遺跡である博多遺跡群では、福岡市博多区祇園町を中心に、北条家の三鱗紋を有する土師器の皿が出土した。また14世紀前半に埋没した溝の上から、110体分の火葬人骨が出土し、一部には刀傷がみられることから、実際には博多の町内にあったと考えられている。※「筑前國続風土記」では北条兼時を初代としているが、1人体制が始まった北条(金沢)実政を初代とみなす見方が有力である。
出典:wikipedia
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