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杉良太郎

杉 良太郎(すぎ りょうたろう、1944年8月14日 - )は、日本の歌手、俳優、元財団法人日本・ベトナム文化友好協会理事長。法務省特別矯正監。外務省日本ベトナム特別大使。ベトナム社会主義共和国ベトナム日本特別大使、厚生労働省肝炎総合対策推進国民運動 特別参与、ハワイ州ホノルル市名誉市長、シンガポール日本文化協会名誉会長、麻薬追放協会会長などの肩書を持つ。本名:山田 勝啓(やまだ かつひろ)。兵庫県神戸市長田区宮川町出身(父親は兵庫県三原郡三原町(現:南あわじ市)出身。母親は鹿児島県徳之島出身)。神戸市立長田小学校、神戸市立西代中学校出身。高浜海員学校(現在は移転・改組の上、国立清水海上技術短期大学校)中退。現在の夫人は演歌歌手の伍代夏子。息子の俳優山田純大は、先妻との間の子。また巣立った子も含め今まで100人のベトナムの子の里親となる。特技は合気道、段位は養神館合気道5段。栄典・表彰歴としては緑綬褒章受章、紫綬褒章受章など。100万枚を超えるヒットとなった「すきま風」を持つ歌手であり、数々の時代劇に主演してきた。中高年女性層を中心に「杉様」の愛称とともに日本各地でディナーショーを主催している。幼少時より歌手を志し各地の喉自慢に出場し続けたが、なかなか評価を受けなかった。1965年に日本コロムビアから「野郎笠」で念願の歌手デビューを果たすも、不本意な売り方をされた(曰く、嫌な柄の着物を着せられた)上に全く売れず、テレビ番組に出演する際はギャラどころか逆に多額の金品を要求されたことを自著で書いている。特にTBS「ロッテ歌のアルバム」のプロデューサーは出演者に土産(賄賂)を要求することで有名だったという。18歳から20歳の下積み時代は、カレー屋の丁稚奉公で食いつなぎ、3年間まかないのカレーライスしか口にできず、朝6時から夜11時まで無休で、休みは元日だけだった。1966年より、日活に所属。現代劇の助演で活躍する一方で、1967年にNHKの『文五捕物絵図』に主役として出演して以来、時代劇をメインに出演していく。『遠山の金さん』『右門捕物帖』(テレビ朝日)、『新五捕物帳』(日本テレビ)、『一心太助』『同心暁蘭之介』(フジテレビ)、『大江戸捜査網』『喧嘩屋右近』(テレビ東京)などシリアスからコミカルなキャラクターを演じた。舞台などでも活躍。明治座・新歌舞伎座などで、連続して出演した。歌手を目指したきっかけは、長い時間拘束される俳優などと違い、一曲歌えばそれで良く、儲かると考えたからだという。しかし『EXILE魂』に出演時、それが甘い考えであり、ヒット曲が出るまで10年もかかる結果となってしまったと述懐している。自身の体力面(長年の酷使によって椎間板ヘルニアを悪化させており「自分が望む座長芝居が出来なくなった」との理由)から2005年7月の新歌舞伎座での公演を最後に、自らの座長公演を勇退した後は、若い役者が座長を務める公演に脇役で出演しどんどんアドバイスを出していきたいとの考えを表明。2008年10月には大阪新歌舞伎座で山本譲二、山川豊を主役に迎えた初のプロデュース公演『闇の身代り地蔵』を上演した。また、2009年6月の大阪新歌舞伎座さよなら公演では、息子の山田純大を主役に迎え、初の親子共演を果たす。新歌舞伎座で松平信康の切腹を演じた時には千秋楽に本当に腹を切りたくなり、豚の臓物と血もたっぷり入れた袋を腹に巻いて、その上からさらしを巻き、白装束を着て舞台に立ち、本物の短刀を突き刺した。杉は「血が噴き出て、客席がシーンとなり、短刀を右へ斬ったら、腹から豚の腸が一気に噴出し、自分が倒れたところで緞帳が下りたから会場はパニックになった」と述べている。過去には伊東四朗・岡田英次・青木義朗・福本清三・赤塚真人・うえだ峻・本阿弥周子ら多くの俳優が1980年代から1990年代の杉の主演作に常連の如く出演をしている。『同心暁蘭之介』25話では福本清三のために杉が役を用意し、福本も初めての大きな役だったと自伝『おちおち死んでられまへん-斬られ役ハリウッドへ行く』で述べている。また、親友であった江利チエミもゲスト女優として『同心暁蘭之介』に出演している。1991年頃から、主に風景画を中心に油彩画を描いている。現代美術展で賞を受賞している、百貨店などで絵画展をたびたび開催する。24時間没頭した事もあったという。2007年5月1日、長女に第1子となる男児が誕生したことによりおじいちゃんとなる。しかし本人は会見で「孫には『お兄さん』と呼ばせる」と宣言した。2009年6月1日には芸能活動45周年を記念し、初の作詞作曲集を発売。2011年6月22日、芸能活動全般についてエイベックス・マネジメントと業務協力契約を締結する。2013年2月に杉の個人事務所が所有する東京・西麻布のビル2階に「杉良太郎演劇塾」を設立。同年10月には『よろず占い処 陰陽屋へようこそ』で33年ぶりとなる民放連続ドラマの出演となった。15歳でボランティア活動を始める。日本の刑務所への慰問活動も積極的に展開し、“矯正活動への多大な貢献”により、法務省から、史上初となる「名誉矯正監」を拝命。その間の刑務所視察の功績が認められ、2008年には「特別矯正監」を法務大臣より任命される。長年にわたり、刑務官・受刑者に対し多くの意見交換・講演などを行っている。日本とベトナム社会主義共和国との親善にも20年間たずさわっている。ハノイ市等に教育施設(日本語学校等)の設置、無償援助に積極的関わりベトナム政府から特別友好大使を委託されている。1997年(平成8年)12月には、ベトナム社会主義共和国国家主席のチャン・ドゥック・ルオンより、友誼勲章(外国人に贈る最高位の勲章)を受賞した。また、ベトナム人の里子は81人に及ぶ。1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災の救援と慰問としてヘリコプター2機をチャーターし被災者避難所へ寿司1,000人分0飲料水、医薬品、衣料療等2tを空輸した。2008年(平成20年)4月29日、受刑者更生支援等奉仕者として芸能人として初の緑綬褒章を受章。5月24日、26日、日越外交関係樹立35周年記念行事の一つとして行われた、日本およびベトナムの有名歌手による「日越友好ハノイ-ホーチミン音楽祭(第1回日越友好音楽祭)」を、日越特別大使兼越日特別友好大使として主導した。2009年(平成21年)2月の皇太子徳仁親王ベトナム社会主義共和国公式訪問では、現地での案内説明にたずさわる。同年、芸能活動の功績が認められ紫綬褒章を受章。平成22年度、内閣府「災害被害を軽減する国民運動サポーター」に就任。2011年(平成23年)3月11日に発災した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)を受けて、被災地への支援活動を開始。大量の救援物資を載せた車両12台を手配し、自ら炊き出しを行った。1995年の阪神・淡路大震災で実家が被災し、以降被災地への支援活動を継続的に行なっており、2004年の新潟県中越地震でも精力的な活動を行なっている。また地震で被災し全体の2/3が不通となっている三陸鉄道の復旧支援ヘッドマークのオーナー(名義としては個人事務所の杉友となる)となり、2011年9月28日よりマークをつけた列車の運行が開始されている。10月8日、10月9日、ベトナム・ハノイ市で開催された「第2回日越友好音楽祭」を主導した。2012年(平成24年)4月26日、福島第一原子力発電所事故で修復作業員の拠点となっている、福島県双葉郡のサッカー練習施設「Jヴィレッジ」を、妻で演歌歌手の伍代夏子と共に訪れ、激励コンサートを開いた。2012年5月1日、日本財団により、伍代夏子とともに「被災地で活動した芸能人ベストサポート」に選出され、表彰されている。車両15台でカレー、サラダなど2万食の食事と入れ歯洗浄剤などの物資を届け、宮城県内の避難所を細かく廻り、また、岩手県の三陸鉄道や青森県津軽鉄道支援、福島県も何度も訪れるなど、様々な支援を続けた活動が評価された。2012年11月19日、オーストリア・アルベルト・シュバイツァー協会より人道援助活動の功績が認められ「アルベルト・シュバイツァー章」受章。2013年(平成25年)2月25日、ASEAN特別大使に任命され、2014年(平成26年)2月10日にアジア各国との文化交流に貢献したとして内閣総理大臣感謝状を安倍晋三から手交された。2013年11月に発生したフィリピンの台風ハイエンでは、チャリティコンサートを企画し、認定NPO法人アイキャンを通じて、現地に学校を建設した。所属レコード会社は日本コロムビア→CBSソニー(1970年代後半- )→テイチク(1990年代- )と変遷している。ちなみにデビュー前、テイチクのオーディションには落ちたそうである(「いつみても波瀾万丈」出演時にコメント)。2005年、「CR杉さまのこれにて大当り」(藤商事)でパチンコ機のモデルとなる。

出典:wikipedia

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